【 律 】

目の前に伸びた澪の左手を、とっさに掴んでしまった。
掴んだはいいが、どうすればいいかわからない。

りつ?と、不安そうな声で、澪が私の名前を呼んだ。
右手が熱い。落ち着け心臓。何か言え私。

「み、みおっ」

顔を上げたら至近距離で視線がぶつかって、頭が真っ白になる。

「なに?」

「……澪、」

自分の声が頭の後ろのほうから響いて、
まるで自分以外の誰かが喋っているようだ。

「だから何」

「キス、しない?」

至近距離のまま澪は目を見開いて、私を見る。
澪の黒い瞳の中に映っている、自分の姿が見える。

「…………嫌だ」

澪は少し怒った顔をして私の右手を振りほどくと、立ち上がって私に背を向けた。
くらりと視界が揺れて、脳裏に夢の中の澪が浮かぶ。


……ああ、やってしまった。


力が入らない足で立ち上がって、シンクのふちに手を置く。
澪は背を向けたまま、黙って俯いている。

死刑宣告を受ける犯罪者のような気持ちで、澪の言葉を待つ。
こんな時でも、澪の髪はほんとうに綺麗だな、と思ってしまう。

「……違う、だろ」

絞り出すように、小さな声で澪が呟く。

「……」

「順序が、違うだろ」

「……へ?」

言われた意味が一瞬わからず、間の抜けた声が出てしまった。

「ばか」

きれいな黒髪から覗く両耳が赤いことに、ようやく気付く。

「……澪、」

その名前を呼ぶ声がかすれる。
澪はこちらを向かずに、もういちど、ばか律、と呟いた。

シンクから手を離し、1歩、足を前に出す。
手を広げて、私に背を向けたままの澪を後ろから抱きしめる。

「……っ」

抱きしめた体が一瞬震えた。自分よりも背の高い澪の肩に額を押し付ける。

「澪」

「……」

「澪?」

「……なに、」

「すきです」

自分でもびっくりするくらいすんなりと言葉が出た。
黙ったまま何も言わない澪に、もういちど、すき、と伝える。


消えてしまいそうな小さな声で、澪が、ありがとう、と言った。




【 梓 】

「梓ちゃん、大丈夫?」

「梓、落ち着いて」

息抜きしたいと訴える純に付き合った買い物帰り、
ハンバーガー店の2階隅っこの席。

なだめてくれる憂と純に応えられないくらい、こぼれる涙が止まらない。
握りしめた携帯の液晶パネルには、届いたばかりのメール。


 待たせてゴメン。私もみんなと一緒にバンド続けたい。
 梓ありがとう。新曲の歌詞はもうすぐできそうです。


お礼を言うのは私です、澪先輩。

震える指で受信箱をスクロールして、先に読んだもう一通を再び開く。


 遅くなってすまん!
 メジャーデビューしてもリーダーは私だからな!


「……もう、気が早いですよ、律先輩」

涙声で呟いた私に、憂と純がやさしく笑う。

返信しようと携帯を握り直したら、立て続けに2件の着信。

「あ、ムギ先輩と、唯先輩から」

「お姉ちゃんから?なんて?」

向かいの席に座った二人が腰を浮かせたので、
よく見えるようにテーブルの上に携帯を置いた。


 梓ちゃん、よかったね。これからもよろしくね。


ムギ先輩の笑顔がほんわりと浮かぶ。

続けて唯先輩からのメールを開いて、私たちは思わず顔を見合わせた。



本文には、楽器の絵文字が5つ。
それから、やさしく揺れるピンク色の八分音符がひとつ。


「……ほんっと、唯先輩らしい……」

ちょっと笑ってそう言ったらまた涙がこぼれて、
憂と純から二人掛かりで頭を撫でられた。




【 紬 】

澪ちゃんから歌詞が出来たと一斉メールが届いたのが火曜の夜。
メールで送ってとお願いしたら、恥ずかしいからって言われた。

メールで送れないくらい恥ずかしい歌詞って、いったいどんなのだろう……。
ものすごく気になる。

サザンテラスにあるスタバのオープンテラスが、今日の待ち合わせ場所。
携帯の時計を見ると、約束の時間まであと30分ある。
読みかけの文庫本をバッグから出して、カモミール ティー ラテの隣に置く。

「……あ、」

体と背もたれの隙間にバッグを置こうとしたら、バッグのポケットから振動音。
上半身を少し後ろにひねった体勢のまま、携帯を取り出して画面を開く。

「電車、今日は順調みたいね」

ふふ、と笑みがこぼれる。気をつけてきてねと返信して、携帯を文庫本の上に重ねる。

ラテを一口飲んで、ほっと一息。柔らかく吹いた風に髪を遊ばれ、
前髪を直して見上げた空は、もうすっかり秋の色になっていた。

「あれ?ムギ、早いな」

振り返ると、左手に携帯、右手にカップを持った澪ちゃんが立っていた。

「澪ちゃんこそ」

「ああ、時間あったから、本でも読んで待とうかと思って」

「私もよ。でも、澪ちゃん来たから、本は仕舞っちゃおう」

澪ちゃんはちょっと笑って、私の左隣の椅子を引いてカップをテーブルに乗せ、
背負っていたベースを降ろす。
携帯を仕舞って腰掛けて足を組むところまで待って、澪ちゃんのほうに身を乗り出した。

「ねえ、澪ちゃん」

「ん?」

カップを取ろうとした手を止めて、澪ちゃんが私を見る。

「新しい歌詞、見たいな」

「え、」

ギクリという顔をして、澪ちゃんは宙に浮かせた手をぎこちなく膝の上に戻す。
ええと……と言い淀んで、なんだか一人であれこれ葛藤している様子。

「……うん、でも、ムギには、見て貰ったほうがいっか」

澪ちゃんの中で行われていた会議に結論が出たみたい。
バッグから4つに折り畳んだA4サイズの紙を取り出して、手渡してくれた。

「わ、英語の歌詞なのね」

「うん」

「訳詞はないの?」

「そっ……それは、恥ずかしいから……」

やっぱり、恥ずかしいんだ。
読んでいい?と聞いたら、澪ちゃんは頬を赤くして頷いた。

プリンタで出力された文字に目を落とす。
少し難しい言い回しもあるけど、なんとか意味は掴めそう。

「……あら、」

無意識に声がこぼれた。
そわそわとカップを揺らしていた澪ちゃんの両手がビクッとなる。

「あら、あらあら」

「……」

「……澪ちゃん、」

「は、はいっ」

顔を上げて澪ちゃんを見る。多分私、口元が緩んじゃってる。

「これ、誰のことを想って書いたの?」

ぼん、と音がしそうな勢いで、澪ちゃんの顔が真っ赤になった。




【 梓 】

定刻通り、終点に着いた。
ギターを背負ってボストンバッグを肩に掛け、ホームに降りる。

「人、多いねー」

私の後ろで憂が大きく息を吐いた。

「お姉ちゃんと律さんが改札のところで待っててくれるんだよね?」

「うん、そう書いてあった」

着きました、と携帯画面に打ち込みながら応える。
パチンと閉じてポケットに仕舞って、ホームを見回す。

「あ、あっち」

南口と書かれた案内板を見つけ、憂を促す。

「純ちゃん、すごく来たがってたね」

「純は多分練習より買い物とか観光したかったんだよ」

「ふふ、そうかも」

純にお土産買って帰らないとね、と話しながら階段を上がって切符を取り出した。
肩に掛けていたボストンバッグを一旦手に下げて、ぶつけないように改札を通る。

「あれー?いないね」

「うん……」

相変わらず目が回るような雑踏に、憂が尻込みする。
とりあえず人が少ない場所に移動しようと、憂の腕をとって歩き出す。


「うーいっ、あーずにゃんっ!」

「あっ、お姉ちゃん!……お姉ちゃん?」

「唯先輩?」

唯先輩は私たちの目の前で手を広げた状態のまま、何故か固まっている。
どうしたの?と憂が不思議そうに聞く。

「憂とあずにゃん、どっちから先に抱きつくかで迷った」

真面目な顔をしてそう言った唯先輩の頭を、
後ろにいた律先輩が苦笑いしながらポコンとはたいた。

律先輩にまたひょいとボストンバッグを取られて、
人波を抜け駅を出て赤信号で立ち止まる。

「お、いるじゃん、あそこ」

律先輩が指をさした先、道路を挟んだ反対側の歩行者信号の下で、
澪先輩とムギ先輩が手を振っていた。


「みんなおつかれ。憂ちゃん、久し振り」

「澪さん、紬さん、お久し振りです」

憂がペコリと頭を下げる。

「今日は無理言ってすみません、バイトのシフトまで変えてもらっちゃって」

続けて私も頭を下げる。

「いいんだよー、あずにゃん、次の練習まで待ちきれなかったんだよね」

唯先輩がニコニコしながら私を覗き込む。

はいそうです、と応えたら、梓が素直だ……と律先輩が大げさに驚いた顔をした。



【 唯 】

シールドをアンプに繋いで、電源を入れる。
隣にいるあずにゃんと視線を合わせて、お互いの音を聞きながらボリュームを調整する。

後ろではりっちゃんがドコドコとドラムの具合を確認していて、
あずにゃんの向こう側ではムギちゃんと憂が譜面を見ながら何か話している。

「よし、じゃ、とりあえず一度合わせてみるか」

りっちゃんに頷いて視線を追うと、
唇に柔らかくピックを挟んでベースのストラップを肩に掛け、
長い髪を整えている澪ちゃんの姿。

憂はスタジオの隅っこにある折畳み椅子に腰を降ろして、
ニコニコしながら私たちの演奏を待つ。


それぞれが軽く音を出して、一瞬の間。りっちゃんのカウント。

……おお、今日はりっちゃん絶好調だね。
そう思ってあずにゃんを見ると、あずにゃんがリズムを刻みながら小さく笑って頷く。

ムギちゃんの旋律に誘われるように、澪ちゃんのボーカルが乗る。
澪ちゃんは軽く目を閉じて、想いを込めるように唄う。

英語が不得意な私には、歌ってる内容はよくわからないけれど、
なんだか胸があったかくなるよ。

……

残響に酔ったみたいに、放心してしまって言葉が出てこない。
ゆるゆると振り返ってみると、みんなも同じ顔をしてる。

ぱちぱちと鳴る音がスタジオに響いて、はっと我に返った。
椅子から立ち上がった憂が、満面の笑みで手を叩いている。

「すごい……すごく、よかったです」

今日のオーディエンスはひとりだけど、鳴り止まない拍手がくすぐったい。
お互いを見回しながら、ちょっと照れて笑う。

「澪さん!」

「うん?」

「すごく素敵な、ラブソングですね!」

憂がそう言った途端、澪ちゃんが真っ赤になって固まった。
おお……、そういう内容だったのですか。

にやける顔を隠しきれないまま振り返ると、おでこまで赤くしたりっちゃんと目が合った。
りっちゃんは、やりずれぇ、と小さな声で呟いて、私から目を逸らして頬を掻く。

そんなりっちゃんを、ムギちゃんがニコニコと見ている。
もう澪ちゃんから聞いたのかな?

「あの、みなさん……」

あずにゃんが口を開いて、みんなの視線が集まる。
ちょっと興奮気味に、両手に握りこぶしを作って私たちを見渡した。

「この曲で、デモテープ、作りませんか?」

「デモテープ?」

聞き返した私に、あずにゃんは力強く頷く。

「デモテープって、音楽事務所とかに送るあれか?」

「はい。送るかどうかは別として、一度、ちゃんと作ってみませんか?」

「……楽しそう」

口元で両手を合わせて、ムギちゃんがキラキラした目で微笑んだ。
りっちゃんと澪ちゃんも、顔を見合わせて頷く。

「じゃあ、この曲がメジャーデビューへの第一歩になるかもだねあずにゃん!」

両手を握ってそう言うと、あずにゃんはちょっと戸惑った顔をして、
それから、気が早いですよ唯先輩、と満面の笑みを浮かべた。


スタジオの外のソファで、6人でのティータイム。
みんなのおしゃべりを聞きながら、携帯を開いてキーを叩く。


 和ちゃんあのね、すごくいい曲が出来たよ。
 あずにゃんがね、この曲でデモテープ作ろうって。
 ムギちゃんの紅茶は今日も美味しいよ。
 りっちゃんと澪ちゃんを見てると、ちょっとくすぐったいよ。
 今日は憂も来てるんだよ。今度和ちゃんが来る時は、3人で遊ぼうね。


文末にギターの絵文字を付け足して、送信。

携帯を閉じてポケットに入れて、紅茶を一口飲んだら、
ポケットからブルブルと振動が伝わってきた。

珍しく早い、和ちゃんからの返信。
紅茶の入ったカップを置いてもう一度携帯を取り出し、メール画面を開く。


 来週末逢いに行くわ。みんなによろしくね。


短い文章の後ろで揺れる赤い眼鏡の絵文字に、
私はこぼれる笑みを抑えきれなかった。







おしまい