【 律 】

激しく体を揺すられる感覚に、はっとした。くわんくわんと意識が揺れる。

輪郭が曖昧な視界の中で、誰かが私を見下ろしているのがぼんやり見えた。
りっちゃん、と呼ぶ声で、それが唯であることを認識する。

ああそうか、今日は和の代わりに唯の部屋に泊まりに来ていたんだった。

「大丈夫?怖い夢見たの?」

「え……」

「りっちゃん、うなされてたから」

「あ、うん……」

久し振りにあの夢を見た。ここしばらくは見ていなかったのに。

右手の袖で両目を拭って体を起こす。
私のすぐ横に座り込んでいる唯の顔が近くなる。

「お水、持ってこようか?」

そう言って立ち上がりかけた唯の腕を掴む。

「いい、大丈夫。それより、話、聞いて欲しい……」

唯はうん、と小さく応えて、静かに座り直した。

「……唯、いつから気付いてた?」

「りっちゃんが澪ちゃんを好きなこと?」

唐突で曖昧な問いに、的確な答えが返ってくる。ほっとして、頷く。

「んと……軽音部に入って、みんなでギター見に行った時くらいから」

「ちょ、そんな前かよ。ってかほとんど会ってすぐじゃん」

驚きすぎて思わず笑った私を見て、唯がエヘヘと表情を崩した。

「なんで?私そんな分かりやすかった?」

「ううん、最初は普通に仲良しだなーって思ってたけど、」

「……」

「たまに、ほんとにたまーに、澪ちゃんとの距離測ってるような時があって」

「……」

「それで、りっちゃんも私とおんなじなのかなって」

「……そっか」

こくりと唯が頷く。

「でも私は全然気付かなかったぞ?唯のこと。いつも和に平気でくっついてたし」

「うーん、距離っていうのは、そういうことじゃなくって」

関係を崩さずにいられるギリギリの、気持ちの距離のことかな、と、唯が小さく笑う。


澪に対して幼馴染みのそれとは違う感情を抱いていることに気付いてから、
同じ夢を繰り返し見るようになった。

求めて、酷く拒絶される夢。

自分の願望とやましさが作り上げた夢の中の澪は
いつしか意識の奥底に居座って、どうしようもない絶望感を植え付けた。

「大学に入ったらさ、」

「うん」

「お互い新しい友達が出来て、バイトとかして、そのうち澪に好きな人が出来て、」

「……」

「澪との距離もいい具合に離れて、普通に幼馴染でいられるんじゃないかって思ったんだよな」

うん、と、唯が相槌を打つ。

「だから入学前、澪にルームシェアしようって言われたのも断ったし」

「……そうだったんだ」

「でも、逢う時間が減ると、もっと逢いたくなるのな」

唯が言った通りだ、と笑うと、愛しい人を思い出したのか、唯は少し寂しそうな顔で頷いた。


「ずっと一緒にバンド続けたいって梓が言った時、私嬉しかったんだ」

「うん」

「でも、そうなったら、澪との距離は変わんないままで、だから、」

「……うん、」

あれ?と思って、唯を見る。

「……唯?」

「うん?」

「なんで唯が泣いてんだよ」

「ふぇ?」

私と視線を合わせたまま、唯の両目からぱたぱたと大粒の涙がこぼれおちた。

「あ、あれ?」

「ああほら鼻水出てるって、ティッシュどこだ」

唯が座っているすぐ後ろにボックスティッシュを見つけて、
2、3枚引き抜いて鼻に押し付けてやる。
唯はティッシュを手で押さえて、思い切り鼻をかんだ。

「えへへ、ごめん……。自分が悩んでた時のこと、思い出しちゃった」

袖口で涙を拭って、唯が恥ずかしそうに笑う。

「つらいのに、誰にも相談できなくて、気持ちばっかり大きくなっちゃって」

「……」

「とにかく、ばれないようにって、もぉ、どっちにも、進めなくなっちゃうん、だよね」

語尾が震えて、唯の目からまた涙があふれだす。

「ああもう、また泣く……」

てのひらで涙を拭いてやると、唯はしゃくり上げながらちょっと首を傾げた。

「りっちゃんも、泣いてるよ?」

言われて、涙が頬を伝っていることに気付く。

首の後ろに手が回ってぎゅっと抱きしめられた。鼻がツンと痛む。
唯の肩に顎を預けて、両手を背中に回す。暖かくてやさしい匂い。

「私ね、りっちゃんのこと応援してるよ」

「……うん」

「それにね、」

「ん?」

「……ううん、りっちゃんが泣き止むまで、こうしててあげるからね」

「私も、唯が泣き止むまでこうしてる」

唯の背に回した手に力を込める。

「えぇー、慰めてるのは私だよ?」

「……ありがとな」

そう言った私に、唯はロイヤルミルクティーのお返しだよと笑った。



……どこからかメロディが聞こえる。
次第に意識が覚醒して、朝がきていることに気付く。

鳴っているのは唯の携帯。持ち主はまだ夢の中だ。
アラームなら止めてやろうと思い、ごそごそと布団を這い出て唯の携帯を手に取る。

「……あ」

アラームではなく着信だった。
表示された名前を見て一瞬考え、通話ボタンを押す。

『唯?おはよう』

久し振りに聞く声。様子からして、まだあまり調子は良くなさそうだ。

「おはよ~和ちゃん」

『……久し振りね、律。その様子だと寝起きかしら?』

唯の声真似はスルーされ、何時だと思ってるのと言われて時計を見る。

「おぅ……10時半過ぎとるやないかい」

『唯はまだ寝てる?』

「ああ、ぐっすりな。体調はどう?」

『あんまりよくないわね』

小さく鼻をすする音が聞こえる。

「唯の落ち込みようったらなかったぞ」

『私も、落ち込んでるわ』

声のトーンを変えず、和が言った。ああそうか、そうだよなあ。

『唯に付き合ってくれてありがとね』

「いや、私が唯に付き合ってもらったようなもんだから」

『え?』

「なあ和、」

『なあに?』

「私、唯のこと好きになっちゃうかも」

『……そう。それじゃ唯に伝えておいて、律に気をつけなさいって』

声を上げて笑ったら、りっちゃんどうしたのー?と寝ぼけた声で
携帯の持ち主が布団から顔を出した。




【 澪 】

昼過ぎに律からメールがきて、夕方過ぎてインターフォンが鳴った。
エントランスのオートロックを解除して1分、今度は玄関の呼び鈴が鳴る。

「いらっしゃい」

「おっじゃまっしまーす」

スーパーの買い物袋を両手に下げた律が、靴を脱ぎ散らかして一直線にキッチンに向かう。
ドアの鍵を掛けて、靴を揃えて私も後を追った。

「うちでご飯作らせろなんて、急にどうしたんだ?」

「新作料理考えてて。ほらうちのキッチン狭いじゃん?折角だし味見もしてもらおっかなーと」

「調理実習か何か?」

「んー?まあ、そんなとこ」

袋から出した食材をシンク横の小さな調理台に並べながら、律がニカッと笑う。

「ふーん、ちゃんとやってるんだな、律も。あっ、食材費、私も出すよ」

「いーって。澪はキッチンだけ貸してくれれば」

「そうか?」

「ん、作ってる間、歌詞でも考えてなさい」

「うっ……」

ほれ邪魔邪魔、とキッチンから追い出された。仕方なく部屋に戻ってソファに座る。
座ったまますこし背伸びすると、対面キッチンの中で忙しく動く律が見える。
溜息を吐いて、バッグから作詞用のノートとペンを出してテーブルに広げた。

ムギに新曲をのデモ音源を貰ってから2週間。まだ歌詞は浮かばない。
頬杖をついて、窓の外に見える夕焼け空にのんびり漂う雲を追う。

「歌詞、ずいぶん苦しんでるみたいだな」

キッチンを見ると、ボウルを抱えてこちらを覗いた律と目が合った。

「ああ……久し振りの新曲だと思ったら、なんか気負っちゃって」

「ふぅん、別にいつもどおりでいいんじゃね」

律がなにやらバリバリと袋を開ける音が響く。

「簡単に言うなよ……」

「んー、じゃあ、英文学科らしく全文英語で、とか?」

「英語か……」

いいかも……と思いかけて、はたと気付く。
いや、だから、英語もなにも詞の内容が浮かばないと始まらないだろ。

私は額に手を当てて、真っ白なページの上に大きな溜息を落とした。




「……美味し」

「だろー?」

出されたのは、律特製のヘルシーハンバーグ。

「豆腐と鶏ミンチがベースだから、カロリーも低いぞ」

「このしゃりしゃりしてるのは何?」

「レンコン」

付け合わせは蒸したインゲン、人参、ブロッコリー。素材の甘さが口にやさしい。
私が体重を気にしているのを覚えていたんだろうか。

「多めに作って冷蔵庫に入れておいたから、早めに食えな」

「うん、ありがとう」

本当に美味しくて、あっという間に食べ終わった。
律がカップに暖かいお茶を注いでくれる。

「ふぅ……。ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

手を合わせ、それから律と視線を合わせてちょっと笑う。

「ほんと料理上手くなったな」

「こう見えて、食物学科の学生ですわよ」

「……将来は、料理関係の仕事目指すのか?」

私の言葉に、律が少し眉を上げる。

一緒にバンドを続けていきたいと言った梓の言葉を忘れているわけじゃない。
だけど律は、いや、律も私も、まだ梓に返事をできないままでいる。

私の答えは決まっているんだ。だから、あとは律の答えを待つだけ。

「……澪、」

律が私の名前を呼ぶ。

「なに?」

「……あっ、えっと、コーヒー飲む?」

「あっ、うん」

なんだか慌てたふうの律に、こちらもちょっと返事がうわずる。

「食器片付けないとな」

律はそう言って、膝立ちになって食べ終わった食器を重ね始めた。

「あ、片付けは私がやるよ。ご飯作ってもらったし」

「そ、そか?じゃあ、その間コーヒー淹れるな」

「うん」

二人並ぶとちょっと狭いキッチンで、私は食器を洗い、
律は細口ケトルで湯を沸かしてドリップの準備をする。

洗い終わった食器を順に籠に立てていく。
最後の1枚を洗い終えて、蛇口をひねって湯を止める。
ケトルの口から水蒸気が噴き出して、律も火を止めた。

洗った食器を今度は拭いて、大きいものから順に食器棚に戻す。
律は沸騰した湯が少し冷めるのを待ちながら、
二人分のカップに湯を注いで温める。

手元から箸がこぼれ、カツンと小さな音を立てて床に落ちた。

あ、と同時に声を出して、かがんだ拍子に額がぶつかる。

「~~~ッ!」

目の前に星が飛んだ。あまりの痛みに声も出ない。
キッチンの床にしゃがみこんだまま、二人して額を押さえ痛みが引くのを待つ。

「……い、ったぁ。この石頭」

「お前もな……」

二人同時に噴き出す。

目を開けると、視線のすぐ先に落とした箸が転がっている。
拾い上げようと伸ばした私の左手を、律の右手が強く掴んだ。


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