【 律 】
「んーっ、……はぁ、だりぃ」
大きく背伸びをして溜息を吐く。これから一旦部屋に帰って、20時からバイト。
明日のスタジオ練習は休みだから、何をしようかなぁなんてぼんやり考える。
……梓への返事も、早くしてやらないとな。
ふと、視界の先に見慣れた後ろ姿を見つけた。小走りで追いついて肩を叩く。
「ゆーいっ、駅まで一緒に……、唯?」
振り返った唯の表情を見て驚く。
小刻みに震える手には携帯が握られている。
「……りっぢゃん……」
「どうした、なんかあったのか?」
そう訊ねると、唯はぽろぽろと涙をこぼして私に抱きついた。
「お、おい、唯」
「和ぢゃんが、和ぢゃんが……」
「?! 和がどうした!」
「……風邪引いて、明日、来られなくなったって」
あちゃー。
大学近くのカフェに入って、唯にロイヤルミルクティーを奢ってやる。
自分のカフェオレを啜りながら、唯が落ち着くのを待つ。
今日は部屋に帰らずバイト先に直行だな。
和は熱も出ているらしいから長旅は無理だろう。
さすがに唯も我が侭言えず、ドタキャンした恋人を想ってさめざめと泣くしかない。
唯は鼻をかんで、ありがとうりっちゃん、と小さな声で言った。
「明日は暇だし、なんなら私が泊まりに行こうか?話し相手くらいにはなるぞー」
和の代わりにはならないけどなと付け足すと、唯はちょっと眉を下げて笑った。
「いいの?あ、私もりっちゃんと話したいことあった」
「ん?……ああ、あの話か?」
唯はうん、と頷いた。
「ねえりっちゃん、澪ちゃんはどう思ってるのかな」
「んー、澪とはあの話してないからよくわかんない」
「ふーん、そうなんだ」
どうしてとは聞かず、唯はミルクティーを一口飲んで、ほうと息を吐く。
「唯はどう思ってるんだ?」
「いいよって言ったよ。ムギちゃんもやりたいって。あの日うちで話したよ」
「え、ムギも?」
「うん」
意外だった。唯はともかく、ムギも即答とは。
心臓のあたりがチリチリと痛む。
「りっちゃんは?」
「え、私?私は……」
言い淀んだ私を見て、唯が質問を重ねる。
「ほかに何かやりたいこととかあるの?」
「や、そういうわけじゃないけど……」
答えに窮して、頭をばりばりと掻く。
唯は少し首を傾げたまま私の言葉を待っている。
「なんていうか、ほら、やっぱ音楽で食ってくの、大変そうだし?」
「……うん」
「生半可な覚悟じゃ、できないだろうし」
「……」
「それに、えーと……」
「……りっちゃん、」
「ん?」
「りっちゃんが悩んでるのは、そんなことが理由じゃないよね」
唯はやけに真面目な顔で、確信をもってそう言い切った。
私はボケることもツッコむことも出来ず、唖然として唯を見る。
唯はしばらく私の顔を見て、それからふっと肩の力を抜いた。
「うーん、でも、まあいいや。りっちゃんが話したくないんなら聞かない」
「……」
「だけど、私で相談に乗れるなら、いつでも聞くからね?」
こいつは普段ぽやんとしているくせに、
どうしてこうピンポイントで鋭いことを言ってくるんだろう。
「このロイヤルミルクティーのお礼にネ!」
下手なウインクをしてみせた唯に、私は苦笑いを返した。
いろんな意味で、唯にはかなわない。
【 梓 】
「あーっ、もうダメ!エネルギー切れ!」
「純うるさい、ここ図書室」
参考書を投げ出してテーブルに突っ伏した純をたしなめる。
図書室の長机は、放課後には赤いタイを着けた生徒で半分くらい埋まっている。
日が経つごとに、漂う緊張感がほんの少しずつ強くなっている気がする。
「ちょっと休もうか」
純の向かい側で黙々と英文を訳していた憂が、顔を上げて苦笑いする。
「ねー、部室にお茶しに行こうよ?」
「1年の子たちの邪魔になるよ。……純を見てると、なんか律先輩を思い出す」
「えー、じゃあ大丈夫じゃない?律先輩も受かったし」
随分と暢気なことを言う。何気に失礼な発言だよそれ。
「律先輩には、澪先輩っていう専属家庭教師がいたからね」
「あっ、澪先輩カテキョのバイトしてるんだっけ。いいなー私も教えてもらいたい」
純は駄々っ子のように唇を尖らせ、束ねた癖毛をパタパタと揺らす。
「散々憂に助けてもらっといて、どの口が言ってんの」
「梓は専門学校だから入試もラクだし、いいよねー」
「梓ちゃんは、学校に入ってからが大変だね」
やんわりと憂がフォローに回る。
「あっ、バンドのこと先輩たちに言ったんでしょ?返事はなんて?」
「え?うん、唯先輩とムギ先輩は、一緒にやりたいって」
言ってくれたよと応えて、ちょっと憂を見る。
憂は私と視線を合わせてニッコリと微笑んだ。
「うん、お姉ちゃんから聞いたよ。嬉しそうだった」
「へーよかったじゃん。澪先輩と律先輩は?」
「あのふたりからは、まだ何も」
「そうなんだ?いい返事してもらえるといいね」
「……うん」
先輩方にあのことを話してから、今日で一週間。
いつものように一斉メールでの雑談はしていても、誰もその話には触れない。
唯先輩とムギ先輩はきっと律先輩と澪先輩への配慮からなんだろうけど。
……もしかして迷惑だったのかな。
こっちから切り出したほうがいいのかな。でも急かしてるようで申し訳ないし。
時間が経てば経つほど、不安な気持ちが大きくなる。
これじゃまるで、入試結果を待っている受験生の気分だ。
【 ー 】
窓の外から防災無線の時報が聞こえる。
5時になりました。みんなおうちに帰りましょう。
窓は夕焼け色に染まり、いつの間にか薄暗くなった部屋の中、
蛍光灯を点けようと立ち上がりかけた澪の腕を掴んで強く引っ張る。
短い悲鳴。
テーブルの上のグラスが倒れる。
グラスからこぼれたオレンジジュースが、
退屈な数式を書きなぐっていたノートと教科書と消しゴムとシャープペンシルを飲み込む。
澪。
仰向けに倒れた澪の顔の横に両手をついて、名を呼んだ。
なに、と、私を見上げたまま澪が応える。
桜高、一緒に受かるといいな。
澪が小さく頷く。
澪、
なんだ、と、少し眉を寄せて澪が応える。
バンド、一緒にやろうな。約束だぞ。
うん、と、澪がまた頷く。
……みお、
面倒臭そうに、なんだよ、と澪が応える。
キス、しない?
頭の後ろのほうで自分以外の誰かが言ったような、変な感覚。
嫌だ。少し怒った顔で、澪が返す。
しようよ。
嫌だって。澪の表情が歪む。
なんで?
変だよ。汚いものを見るような目。
……なんで
澪の頬にぽたりと落ちたのは、私の涙か。
変だよ、そんなの、おかしいよ。そんなの、女同士で、そんなの、気持ち悪い……
最終更新:2011年03月03日 22:44