律「面白いものはないぞー」
梓「一回来てるから知ってますよ」
律「ああ、そういやそうだったな」
梓「あれ、この写真立て何で伏せてあるんですか?」
言いながら梓は、机の上に伏せられた写真立てを起こす。
律「……写真見たら、元通りに寝かしとけよ」
梓「……澪先輩と律先輩の写真、ですか。律先輩って写真うつりいいですね」
律「そうか? そうだろー」
梓「いつの写真ですか?」
律「……中学生の時の、修学旅行。北海道に行ったんだよ」
梓「ああ、だから律先輩クラークのポーズしてるんですね」
律「冬なら雪が降ってたのかもしれないけど、夏行ったもんだからさ、全然北海道って気分がしなかったんだよ」
思い返す。
律「ラベンダーだらけの畑行って、小樽ってとこでガラスの白鳥買って、函館から夜景見おろしたな。とにかく移動が長いっての」
梓「澪先輩も一緒だったんですか?」
律「ああ、澪も一緒だった。途中、二人して迷子になってさ。先生が駆けつけてきてくれたっていうハプニングがあったけどな」
――澪。
また、思い出してしまう。
私の生きる世界には、澪との思い出が多すぎた。シャープペンに箸一膳。今学校で使っている靴だって、確か澪と一緒に買ったものだ。
忘れることなんて、出来なかった。
忘れられるわけがない。その通りだった。澪との思い出がたくさんある場所で、澪のことを忘れようなど、不可能なのだ。
律「もう帰れないのかなー、って澪不安がってさ。私が必死に笑わそうとしたなあ」
梓「そのときから、そういう関係だったんですね」
律「そういう関係? なんか不穏な響きが」
梓「あ、変な意味じゃありませんよ? なんて言うか……一心同体だったんですね、と」
律「一心同体、ねぇ」
今はどうだろうか、一心同体であるだろうか。そんなはず、ない。
私たちは離れてしまった。いや、私が一方的に離してしまった。
澪は、私の横を通り過ぎた時、泣いてはいなかったか――?
そんな私の思考を中断するように、唯達が入ってきた。
唯「お待たせ、りっちゃん! おかゆ作ったよ」
和「どこに何があるか分からなかったわ」
紬「ちょっと手こずったわね」
唯「ほらほら、はい! りっちゃん、あーん」
スプーン一すくい分のおかゆが、ほのかに湯気を立てている。
律「あ、あーん……って、熱い!」
唯「え、あ、ごめん。ふー、ふー、ふー……これくらいで冷めたかな? はい、もう一回あーん」
律「あーん……おお、味はまとも」
おかゆを咀嚼する。風邪の時に食べるものは何でもおいしく感じられる。
唯「私が本気を出したらこんなものです!」
律「……うん、なかなかイケる。ありがとう、唯、和、ムギ」
唯「えへへー、……あれ? メール来た」
おかゆの入った皿を和に渡し、唯は携帯を開く。
和がふーふーしたおかゆを二杯ほど食べたとき、唯がそのメールを見せてきた。
唯「澪ちゃんから」
あとでいく。
と、それだけ書かれた簡素なメール。
和「ほら、律。口あけて」
律「え、あ、ああ」
三度目のあーん。
あとでいく。どこに? 私の家に、だろう。あとっていつだ? 一時間後? それとも明日?
そんな考えが頭の中に湧く。思考が飽和して、私は脳はショートを起こす。
どうせ後でくるんだ――そうまとめ、私はおかゆを食べることに専念した。
聡が帰ってきたのは、それから一時間ほど経った後で、そのころにはもうおかゆは食べ終わっていた。
唯「じゃ、聡君帰ってきたから私たちももう帰るねー」
紬「早いうちに治してね? りっちゃん、ファイト!」
ああ、わかってるよ、と心ここに非ずな風で答える。
澪は、まだ来なかった。唯達が帰るのとすれ違いになるんじゃないか、と期待していたが、それすらも外れた。
天気が崩れ始めてきた。
午後二時。澪は来ない。
午後三時。澪は来ない。どこか遠くで雷鳴が聞こえる。
午後四時。まだ、澪は来ない。窓から覗ける外は、霧雨が降っていた。
午後五時。来ない。雨が降るのは日曜日だったんじゃないか? とどこかにいる天気予報士に言いながら、しとしとと降る雨を見つめ続けた。
午後六時――私もあきらめ始めた。澪は来ないのだ、と落胆すると同時に熱も下がりはじめた。37度3分。微熱の域だ。
午後七時。聡が弁当を買ってきてくれた。聡のあーんは勘弁なので、三十分かけて一人で弁当を完食して見せた。普段なら十分もたたずに食べられるだろうに。
午後八時。雨は本降りになっていた。家の中でも、雨粒がアスファルトを叩く音が聞こえる。
ああ、今日はもう来ないだろうな。そんな諦観が胸中を支配し始めたなか。
――そんななか、田井中家のインターホンは鳴ったのだった。
聡が私の部屋に、澪を入れた。
長い髪の先端は、雨にぬれている。履いているジーンズの裾も、三センチくらい水が滲んでいた。歩いてここに来たのだ、ということがわかる。
そんな澪の姿を私の目が捉えた瞬間、体中が熱くなった。熱だけが原因ではないだろう。澪が、来てくれた――!
律「…………澪。こんな時間に、大丈夫なのか?」
澪「律の家行くって言ったら、ママも許してくれたよ」
ママ、という発言について、追及はしなかった。
澪「……私が行っていいのか、わからなかった」
澪はそう漏らした。
澪「律、教えてほしいんだ」
律「……何を」
澪「私が、律に何をしたのか」
律「何も、してないよ」
澪「嘘だ」
律「本当だ」
澪「じゃあなんで、私と一緒に学校行くのやめようとか言ったんだ? お昼ごはんも一緒じゃなくなってたし……」
律「……私さ、今風邪ひいているんだ。変に頭使わせないでくれよ」
我ながら、ひどい言い草だ。雨の中きてくれた人に、冷たいことを言っている。弁解にもなっていない、言い訳。
澪「…………私は、律を、傷つけてしまったんだろ?」
律「それは、それだけは、ない」
澪「律に嫌われたんだ、と思った。学校に一緒に行くの止めよう、って言われたとき。ああ、私は律に何かしたんだって」
律「何もしてないよ」
ただ、私が身勝手にも、彼女を突き放しただけだ。
澪のことを意識して、距離感を自覚して、私は暗くなってしまう。
それを避けるために、私は、澪と距離を置いたのだ。一歩分よりも、もっと長い距離を。
澪「私は、律の言葉に賛成したよ。かたくなに拒否したら、律に嫌われるんじゃないかって思ったんだ」
澪の独白は続いた。
澪「でも、たった一日律と居られないだけで、私は気が変になりそうだった」
だから、と澪は懇願してくる。
澪「せめて、理由だけ聞かせてほしい。そうしたら、気が楽になるから」
理由?
そんなの決まっている。
私は澪のことを好きだから、澪を遠ざけたのだ。
私の恋心は、あってはいけないものなのだ。
私自身や、私たちの関係をも壊す、危険な爆弾。
澪の笑顔をもう、見ることが出来なくなるかもしれない。
必死に、澪のことを忘れようとした。
それは確かに不可能だろう。私の周りには、澪との思い出でいっぱいだ。でも、少しくらいは忘れられるはず。
だから、澪との距離を広げた。
澪「律、私が何かしたなら謝る、謝るから……」
私は、澪の顔を直視できなかった。
だって、澪は泣いていたから。
私はなぜ、澪に近づいたのか。澪の笑顔を見る為に、だ。
それがなんだ。今、澪は泣いている。私が、泣かせてしまった。
律「………………」
何をどう言えばいい? 律B、いるなら教えてくれよ。私は今どうすればいい?
全部をさらけ出すか? 澪のことが好きだと告白するか? でもそれが、私たちの関係をぎこちないものにしたら……。
今でさえ、私と澪の関係は危うくなっている。そんなところで告白なんて、火に油を注ぐようなものだ。
とにかく、何か言わないと、この場は切り抜けられない。
この場に限って、雄弁が金で沈黙が銀だ。
律「…………言えない」
澪「……何で、だ?」
律「言ったら、澪は私のことを軽蔑するかもしれないから」
澪「しない、絶対にしない」
律「私は、臆病なんだよ。何かを失うのがとても怖いんだ」
澪「私もだよ」
律「真実を言ったら、澪を傷つけてしまうかもしれない」
澪「気にしない」
律「澪との仲が壊れるかもしれない」
澪「……そうしたら、また一から始めればいい。だから」
………………………………。
その言葉に私は、すがりたくなった。
律「澪」
澪「何?」
律「また一から始めることになってもいいか?」
澪「いい」
――今なら、言っても許されるだろうか。
心変わり、というにはあまりにも唐突な心理の変化。
全てを言えば、彼女は――澪は、泣きやんでくれるのだろうか……?
不安に胸が震える。
澪「律、私は律のことを軽蔑するような人間じゃない。断じてない」
震えた声音で言う澪。
ああ、そうだ、澪は優しいのだ。
恐がりで人見知りだけど、澪は親切なのだ。私は知っている。だてに、澪の幼馴染ではない。
今なら、言っても許されるんじゃないか。
疑念が確信に変わる。彼女なら――澪なら、きっと、私の言葉を受け止めてくれる。
律「私は澪のことが好きでたまらない」
澪は無言だった。構わず私は語を継ぐ。
律「でも、澪にそう言ったら、澪とわたしの距離が離れてしまうかもしれない。――だから、私は澪と一緒に学校に行くのを拒んだんだ」
独白は続く。
律「……私は、澪と一緒にいても距離感を自覚しちゃうんだ。澪と一緒にいなくても、澪のことばかり考えてしまう。私はどうしたらいいのか分からないんだ」
私は苦笑して。
律「なんか、意味の分からない台詞になったな。風邪ひいてるからさ、ちょっと変なんだ今。澪のことが好きだから澪と離れたってことだけ伝わればいいよ」
雨の音が相変わらず響いていた。うるさい。今はシリアスな場面なんだ。ちょっと空気を読め。頭が混乱に混乱して、ハイになっていくのが分かる。
私はもう言ってしまった。後戻りはできない。後悔はしていない。だってまた、一から始められるのだと、澪が言っていたから。
律「――澪、大好きだ」
駄目押しとばかりにそれだけを口にして、私は布団の中に丸まった。
布団を一枚隔てた向こうで、澪はどんな顔を浮かべているのだろう。驚愕? 微笑?
澪「…………あのさ」
律「…………何だよ」
澪のその声のトーンに、嫌悪の響きはない。私は若干安堵する。
澪「律、律は臆病なんかじゃないよ」
律「……何言ってるんだよ、澪」
布団越しの澪の台詞は、くぐもって聞こえる。
澪「律は、私に全部言ってくれた。全然、臆病なんかじゃない」
律「風邪で、ハイになってるだけだよ」
澪「それでも、さ」
だって、と澪は続ける。彼女の浮かべている表情は分からないが、喜んでるんじゃないかと云うことは、口調で分かった。
澪「私は、律にずっと言えなかったんだから」
何を?
澪「律、私は律が大好きだ」
凛とした声。
胸が爆発しそうになった。頭が白紙になって、何一つ考えられなくなる。
澪は、今、何と言った?
澪「でも、律の隣にいるだけで、私は緊張しちゃうんだよ。だから、律に面と向かって言うことはずっと出来なかった」
布団の中で咳込む。風邪が原因じゃない、気恥ずかしさが原因だ。
澪「律、私は律が好き――私も律が好きだ」
その言葉は、世界中にあるどんな名言よりも、価値のあるものだった。私の葛藤とか迷いを全て帳消しにしてくれる、金言。
律「……本当?」
澪「本当」
律「……人が風邪で寝込んでるって言うのにさ、驚かさないでくれよ」
私は布団から顔を出す。
澪「これで、仲直りできたかな、律」
律「……ああ。ごめんな、澪。私が、勝手に、澪のこと……」
澪「いいよ。気にしない」
嬉しさとか、戸惑いとか、たくさんの感情が私の中でごちゃ混ぜになる。私の恋した幼馴染は、どこまでも優しかった。
律「…………あとさ、もう一つごめん。その、さっき、泣かせちゃって」
澪「それも、気にしてない」
律「そっか…………」
嬉しさで涙があふれそうになる。いつぞやの学園祭ライブの時の感動と、似ていた。
澪「どんなことされてもさ、私は、律のこと嫌いになれないんだよ」
律「……ありがとう、澪」
果たして、何に対しての『ありがとう』だったのか。許してくれたこと? それとも……。
澪の顔を見やる。涙の代わりに笑顔が浮かんでいた。いつか見た、澪の綺麗な笑顔。
私もつられて笑顔になる。そうだ、泣いてはいけない。澪だって、私の泣き顔は見たくないはずだ。笑わなきゃ、澪に申し訳がない。
律「澪、好きだ」
澪「私も、律、好きだ」
お互いの気持ちを確かめあえるよう、ずっとそう言いあった。好きという言葉によって、どこまでも繋がっているのだ、と実感できた。
雨音のBGM が、どこか心地いい。
私たちの関係は、一から始めなければならないようだった、
友達としてではなく、もっと親しい関係――恋人として。
このままずっと二人でいような。
私は澪にそう言った。
ああ、ずっと。
澪は私にそう返した。
私と澪は、最初から繋がっていた。ただ私たちが、そのことに気づいていないだけで。私の独り相撲でしかなかったのだ、と。
澪「月曜日からは、また私と二人でさ、学校行こうな?」
律「……いいのか?」
澪「当たり前だろ、律」
休み明けの登校が、何だか楽しみになってきた。ああ、梓も言っていたっけ。学校に行くのは楽しい、と。だって、みんなと会えるから――。
澪「じゃあ、月曜日までに風邪、治しておいてくれよ?」
律「わかってるって」
澪が部屋を出ていく。……澪もそろそろ帰らなきゃいけない時間だもんな。心の奥底で寂しいという感情が湧きあがるが、口には出さない。
だってまた、必ず会えるのだから。私と澪は、これからもずっと一緒なのだ。
澪との繋がりが溢れる自分の部屋で、ゆっくりと目を瞑る。
今日ならいい夢が見られそうな、気がした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
風邪は日曜日の午後に完治した。
でも雨は降り続いていて、結局、月曜日の午前三時くらいまで道路をびしょ濡れにしていたという。
月曜。私が起きたのは六時だったので、そのときは外に青空が広がっていたけれど。雨上がりの空だというのに、虹はなかった。
ベッドから出てご飯を食べて歯を磨いて顔を洗って、そうして一日が始まる。同じ始まり方、だけど今日この日からは、いつもと違う一日が始まるに違いない。
澪がインターホンを鳴らしに来る。私は家を出た。風邪治ったんだ? 澪の台詞に私は頷く。ああ、おかげさまでね。
そして、二人は歩いて行った。
自然と歩幅が合うようになっている。隣同士、肩を合わせて進む。
澪の体に、私は寄り添う。何だよ、と澪は恥ずかしがるが、嫌がるそぶりは見せない。
およそ五十センチメートルの距離は、もう、なくなっていた。
終わり
最終更新:2011年03月03日 00:02