朝起きてご飯を食べて歯を磨いて顔を洗って、そうしてまた一日が始まる。
澪と一緒に学校に行く。一歩分の距離は健在だ。気にしないように努める。
……でもやっぱり、気にしてしまう。靴二足を縦に並べたくらいの距離。
律「……あのさ、澪」
私は澪に向きなおる。
澪「どうした?」
言うのは心が締め付けられるようで、苦しい。でも、言わなかったら私は駄目になる。今でさえ、距離を気にしているのだ。
律「明日からさ、別々に学校行かないか?」
私の表情はどんなんだろう。悲しんでいるだろうか。少なくとも、笑えてはいない。
澪「え、何で……?」
澪と一緒だと、また澪のことを意識して、距離を感じてしまうから。
そんなこと言えるはずもなく、私は虚言を吐こうとする。
律「あれだよ。ほら、さ」
が、とっさの嘘は浮かばない。ああ、もう、こういう時に限って……。
澪「なんか、私律に嫌なことしちゃったか……?」
律「違うんだ、そうじゃなくて……ああ、澪もさ、毎朝私を迎えに来るなんて面倒くさいだろ? 小学生のころはさ、私も寝ぼすけだったから助かったんだけどさ」
心が圧迫されているように、感じた。息苦しい。
澪の視線が痛い。
澪「べつに、私は面倒くさくはないぞ?」
律「それでも、さ。私が悪いなーって思っちゃうんだよ、私の為に毎朝来てくれるとかさ、心苦しいっていうか」
芝居がかった動作で、私は言葉を連ねた。
律「だから、明日から――いや、今から一人一人で学校に行かないか?」
澪「……帰りの時は?」
そっちは忘れていた。どう、嘘をつこう。私が必死に思索していると、澪が再び口を開いた。
澪「……わかった、別々に行こう」
私の横を通り抜ける。そして彼女は、一人学校に向かった。
一歩分以上の距離が、私と澪の間にうまれた。
私の横を通り過ぎる一瞬、澪の目に浮かんでいたあれは、涙? はは、まさか。
これでいいのだ、一歩分の距離を気にする必要はない。私は陽気なままでいられる。変な考え事をしない、私のままで。
これでいいんだ、ぜんぶ。これで澪のことを想わずにいられる。
律「…………ごめん」
誰の耳にも届かない謝罪は、頬を撫でる風に沿って、霧散していく。
私は遠回りの道を選んで、学校に向かうことにした。後ろからの足音は、ない。
学校に着いて、すぐに教室に向かう。澪はもう来ていた。
唯「珍しいね、澪ちゃんとりっちゃんが一緒に来ないなんて」
律「ああ、今日はちょっと寝坊しちゃってな」
唯「へー、遅刻しないで良かったね!」
律「ああ。そういえばさ――」
唯と談笑しながら、澪を見る。
ムギや和と喋っている澪は、楽しそうだった。
胸の奥に、形容しがたい感情が湧いてくる。
朝のホームルームが終わる。授業はすぐに始まった。
筆箱から、シャープペンを取り出す。水玉柄で、真ん中にクマの柄がプリントされているシャープペン。
これは、たしか、澪とおそろいにしようと買ったシャープペンだっけ……。
別のものを使うことにした。でも、他のも全部、澪とのつながりがあるシャープペンシルだった。仕方ないので、一番最初に取りだしたやつを使う。
授業中寝ていたら、ノートを貸してもらうことになる。私はいつも澪から借りている――今回、それは避けたかった。
かといってムギや和に借りると、澪と何かあったのか、と疑われてしまいそうだから。
私は授業をまじめに受ける必要があったのだった。休み時間の時、唯に「寝ないなんて珍しいねー」と言われるだろうな、と思った。
一時間目二時間目……と、順調に終わっていく。いつも授業中は眠っているので、今日は何だか新鮮だった。
唯「りっちゃん、居眠りしてないね」
案の定、言われる。
律「ああ、私は今日から生まれ変わることにしたんだー!」
唯「おおー、遅い!」
律「生まれ変わるのに早さは関係ないのだよ……」
唯「じゃあ私も今日から生まれ変わろうかな。よし、まずは一人で夜トイレに行けるようにする!」
律「今まで憂ちゃんと一緒に行ってたのか……?」
唯「? うん。普通じゃない?」
そんな会話をしているうちに休み時間が終わり、また、授業が始まった。
お昼休み。弁当は、唯達とではなくいちごと食べた。一人でいることの多い、物静かな女の子だ。
いちご「……何で今日は私と一緒?」
律「たまにはいいかなーって」
言いながら、弁当を開く。弁当に入れているお箸も、澪とおそろいのものなのだ、と思いだす。
いちご「……どうしたの? 箸を見つめたまま固まっちゃって」
律「え、――ああ、なんでもないよ」
いちご「……そう」
いちごと食べるご飯は、美味しかった。その反面、どこか、切なくもあった。
放課後になった。澪は掃除、唯は昨日で日直が終わったので、私たち三人だけで部室に向かった。
部室には昨日と同じく梓がいた。
ムギがお茶の用意に消える。私は唯と、机に座ってお茶を待つ。直に梓が座り、続いて澪が入室して席に着く。最後はムギが、お菓子を持ってくる。
唯「そういえばあずにゃん、純ちゃん大丈夫なの?」
梓「え? 純? ああ、風邪なら治ったそうですよ、授業中に来たメールにそう書いてありました」
唯「よかったー、昨日憂がとても心配してたんだよ『純ちゃん風邪ひいてる心配だなあ』って」
梓「憂らしいですね」
唯「えへへ、でしょー」
梓「いや別に先輩のことを褒めているわけじゃ……」
そんな会話を耳にはさみながら、ムギの持ってきたお菓子にかじりついた。甘い。
私も何か話をしよう、と思い口を開――。
澪「あのさ、律」
それより早く、澪が切りだした。
律「……なんだ? 澪」
澪「今日、律と私、あまり会話してなくないか?」
ここで動揺してはいけない。自分に言い聞かせる。
律「ああ、そういえばそうだな」
紬「たしかに、澪ちゃんとりっちゃんがいつもみたいにはしゃいでるとこ、見ていないような……」
唯「珍しいよねー」
律「あはは、偶然じゃないか? たまには、こういう日があってもさ」
澪「弁当も、一緒じゃなかったし」
律「今日は、いちごと弁当を食べる約束していたんだよ」
我ながら、急な嘘にしてはよく言えたと思う。
澪「……そうか」
瞳を伏せる澪。
しんみりとした空気が部室全体を覆って、沈黙が流れる。
水槽からするこぽこぽと云う音だけが、場違いに響いていた。
律「そ――それにしても、このごろ晴れてばっかだよな」
無理な話題転換をする。
紬「ああ、そういえばそうね」
唯「でも、土曜日くらいになると雨が降るらしいよ?」
律「休日に雨かー、タイミング悪いな」
今日は何曜日だっただろうか、と考え、ああ木曜日かと思い出す。
その後、唯がまた話を始めた。ムギがその話に興味を持って、どんどん話題が広がっていく。私もその中に加わる。
けれど、澪は黙りこくったままになった。
結局、それ以上喋ることはなかった。
六時前くらいに部活動が終わる。と、いっても大したことはしていないが。
部室を出て、更には校舎を出る。
空はうすい赤色。あと二十分もすれば、立派な夕焼けが見られるに違いない。
私たち五人はいつも通り、途中まで一緒に帰った。
ムギと唯と梓が別方向になる。
必然、私と澪が二人だけに。
澪「……じゃあな、律」
そう言い残して、澪は夕暮れの向こうに早足で駆けていく。
私に彼女を止める必要はない。その後ろ姿を、ぼんやりと眺めていることしか出来なかった。
空っ風が、私の脇を走り抜けていく。
一歩分の距離だったものが、いまはもう、どうしようもないほど広い溝となっていた。
そうしたのは私自身なのに、何故だか、澪に謝ってすべてを告白したい気持に駆られた。
一人で、歩幅を小さくしながら、私も帰る。歩幅は小さめ。
あまりにも静かで暇なので、私は物思いにふける。
――最初は、澪の笑顔が見たいだけだったのだ。
彼女が笑ったらどれだけ綺麗な顔なのだろうという、好奇心だった。
彼女はいつもうつむいていたから、私が何とかしなければ、と思った。
……考え事のはずなのに、私は澪のことしか考えられない。もっと考えるべきことがあるだろうに。地球温暖化とか、森林伐採とか。
律「私は………………」
私は、どうしても、澪のことを忘れられないようだ。
苦しい。
澪を遠ざけても苦しいし、近づけてもわずかな距離を気にしてしまう。
私はいったい、どうすればいいのだ?
律「…………くしゅっ」
……寒い。
家に帰ると、聡が変な顔をした。
聡「姉ちゃん、顔赤いよ?」
律「え、マジ?」
体温を測ってみたら、37度1分。
律「なんだ、大したことないじゃん」
聡「でも、微熱だからって安心しちゃまずいだろ……。これから上がるかもしれないんだし」
律「私は滅多に風邪ひかないんだよ。だから、熱もこれ以上上がらない!」
聡「だから、って意味が分からない。……とか言って、お姉ちゃんが一年生の時ひいてたじゃん」
律「あのときは体が子供だったんだよ」
聡「今も変わらないと思うけど」
律「もう二年もたってるんだから、私の免疫たちも成長したはず。ま、明日には治るよ」
翌日の金曜日。
私は学校に一人で行った。熱はまだあったが、37度1分と昨日と同じだったので、大丈夫だろうと判断したのだ。
朝のホームルームが始まるまで唯と談笑した。
授業は真面目に受けた。
昼休みの弁当は、エリたちと食べた。
その後の授業もまじめに受けて、放課後になった。
部室でお茶を飲んで、ワイワイ騒いだ。
部活を終えると帰宅。もちろん、一人で。
その金曜日。澪との会話はなかった。ただの一言も交わしていない。おはようの挨拶すらしていない。
澪との距離をとれたのだ。
喜ぶべきことのはずだ。一歩分の距離を忘れられる、良い機会だ。
なのに私は、悲しかった。
澪のことを想わずにいられなかった。忘れられるわけがない。律Bが、夢の中でそんなことを言っていたのを思い出す。
考えすぎたのか、何だか頭が熱い。そういえば、寒気もするし。ぶるる、と体を震わせると同時に、咳が出た。
律「…………ごほっ、けほっ」
鼻水まで垂れてきた。
土曜日。聡の予想通り熱が上がっていた。39度ちょうど。
聡「……ほら、やっぱり」
律「うるせー」
聡「氷枕返るよ」
律「サンキュー。あ、おかゆがほしい」
聡「俺作れないから……澪さんとかに頼んで?」
律「聡の役立たずー……げほっ」
聡「大声出すから……あ、ちょっと用事があるんだ。だからどうであれ、看病とかはお姉ちゃんの友だちにしてもらわなきゃ……」
律「姉を見捨てる気かー」
聡「ごめんって」
律「用事の内容教えてくれたら許してやらないこともない」
聡「補習。期末考査で、ちょっと」
律「勉強が出来ないとこも姉弟そろって同じとは……」
聡「じゃあ、氷枕替えたら行ってくるから」
律「……頑張って来いよー」
聡「姉ちゃんもね」
減らず口をたたき合いながらも、会話の内容は愛を感じさせ……るのだろうか。
とにかく、聡の代わりになる助っ人が必要なようだ。
律「……澪にどんな顔して、看病頼めるんだよ」
聡が家を出ていったあと、私は一人自室で横になりながら、呟いた
律「……ムギか和だよなあ。いや、憂ちゃんもいいかもしれない……げほっ、あー。体がだるい」
目がかすむ。昨日学校休めば良かったと、いまさらながらに後悔した。
律「とりあえず、梓と唯はないな。料理作れなさそうだし」
律「ムギは……おかゆ作ったことあるのかな。憂ちゃんに頼んだら、唯が代わりに来そうだ」
律「…………和かな」
私のアドレス帳は、五十音順で並んでいる。
[真鍋和]、を選択した――はずだった。
しかし、実際に来たのは、唯。
唯「りっちゃん、風邪引いたんだって?」
律「な、なんで唯が?」
唯「え、メール来たんだけど」
私は焦って送信履歴を見る。[平沢唯]に送信されている。どういうことだろうか、そう思い、真鍋和の上に平沢唯が並んでいるのだと思いだす。
律「…………これが憂ちゃんだったら」
唯「任せてりっちゃん! 私憂をも看病したこともあるから!」
律「……信用するぞ」
唯「あ、でも私だけでうまく作れるか不安だったから、みんなにメールしたからね」
へ、と口から変な音が漏れる。
律「みんなって、誰?」
唯「あずにゃんとムギちゃんと和ちゃんと澪ちゃん」
律「…………澪も?」
唯「? うん」
唯は私のおでこを触ってきた。これは熱いね、目玉焼きがやけちゃうくらいだよ――病人の前でそういうこと言わないでくれ、と突っ込む気力はなかった。
一番初めにムギが来た。二番目に梓。ちょっと遅れて和。
唯「和ちゃん、おかゆってどうやって作るの?」
そう言って、和と唯は階下に消えていった。ムギは梓ちゃん看病よろしくね、と言い残して、和と唯の後を追った。意外と薄情だ。
梓と二人っきり。
あまり、こういう機会はなかったような気がする。気まずいとはいわないまでも、ぎこちない雰囲気。
梓「澪先輩、来ないんですかね」
今回もまた、梓が話を振ってきた。
律「…………みたいだな」
梓「唯先輩、澪先輩にメール送り忘れたのかもしれませんね」
唯先輩らしいです、と梓は微笑む。そんなわけがない、と私は心の中で否定する。唯は、さっき『澪ちゃん』と確かに言ったのだ。
でも、それを言ったら、澪と私の間に何があったのかを言わなければいけないから――私は「確かに唯らしいな」と梓に同調した。
梓「でも、風邪引いたのが休日で良かったですよね」
律「よくねー」
梓「え、だって明日に治ったら、また学校に来れるじゃないですか」
律「……学校って楽しい?」
梓「? もちろんですよ」
律「物理とか、化学とかが?」
梓「授業は楽しくないですけど、憂や純がいますし――純って、私の友だちですよ――それに、唯先輩やムギ先輩に会えるから、楽しいです」
律「……そこで『律先輩に会えるから嬉しいです』っていごほっ! けほ!」
梓「律先輩大丈夫ですか?」
背中をさすってくれる。
律「あ、ああ、なんとか」
こんこん、と咳を続けたまま言う。
数分経って、暇になったのか、梓は私の部屋を見回した。
最終更新:2011年03月03日 00:01