彼女の顔を見た時、稲妻が体を駆け巡った。
幼いながらも私は、彼女を好きになってしまったのだ、と理解した。
彼女の笑顔を見てみたい、と思って、彼女に近づいた。以来、私は彼女に話しかけるようになった。
彼女の笑顔を見たのは、私が髪型をパイナップルの形にした時だ。くすくすという笑い声が聞こえ、彼女の方を見やると、綺麗な笑みを浮かべていた。
その笑顔を見た私は、彼女への恋心を、より一層意識するようになった。
でも、私が彼女に告白したら、彼女はきっと困惑してしまう。笑顔を見せてくれなくなるかもしれない。
それが怖くて、私は未だ、告白できずにいる。
十年ほど経った今も、彼女には言っていない。
私、田井中律は澪に恋をしている――ということを。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
朝起きてご飯を食べて歯を磨いて顔を洗って、そうして一日が始まる。
澪が家のチャイムを鳴らし、私は外に出る。いつもそうだった。澪が田井中家に来て、私と共に学校に行くのだ。知り合ったころからの慣習。
ほら、律、早く行こう――澪の言葉に私は頷く。ああ、わかった、トイレ行くからちょっと待ってて。
お手洗いを済ませ、鞄を持って再び外に。
律「じゃ、行こうか」
返事を聞かず、私は澪の先を歩く。後ろから澪の足音。そういえば、いつもこんな感じで二人歩いていた。
今日に限って私は、気付いてしまった。
一歩離れた距離が、私と澪に間にある。一緒に学校に行くときも、帰るときも。微妙な距離が存在している。
――ちょうど、私たちの関係みたいに。
そこまで考えて、気分が落ち込む。朝からネガティブになるのは止そう。頭をぶんぶんと振って、邪念を払う。
澪「何してるんだ? 律」
律「え、あー、いや。ただの考え事だよ」
澪「考え事?」
律「あれだ、今日のムギのおやつは何なんだろうな、ってこと」
とっさに嘘をついた。私と澪の距離感について思索していた、なんて言うべきではないと思ったのだ。
まったく律らしいな、という声が聞こえた。
私らしい――とはどういうことなのだろう。
澪にとって私は、普段からムギのおやつにしか興味の無い人間、くらいの認識でしかないのだろうか。
ああ、また変なことを考えている。朝から暗くなっちゃいけない。
そう思い、私は気を紛らわすべく空を見た。
快晴。
学校に着く。靴を替えて教室へ。和と唯とムギはもう来ていた。
唯「あ、りっちゃんおはよー」
律「ああ、お早う」
私たちも唯たちに交じって、会話する。この中では唯と話をすることが多い。その次に澪。
一方澪は、和と話すことが多い。
澪と私が会話するときは、たいていが澪に突っ込みを入れられるときだ。
別に、和に嫉妬とか後ろ暗い感情を抱いているわけではない。
それでもやはり、むなしい。
本音を言えば、澪と一緒でおしゃべりしていたい。
澪とだけ会話しつづけたい。
和ではなく私を選んでほしい。
でもそれは、ただの我がままだ。独占欲が強すぎる。
こんなことを澪に言ったら、私と澪の関係は壊れてしまうだろう。
唯「それでね、りっちゃん――」
だから私は唯の話を、いつものように聴き続けることにした。
授業時間を寝て過ごし、やがて放課後になる。
澪は掃除で唯は日直の仕事。私はムギと二人で音楽室に向かう。
歩いている途中会話はない。気まずさを覚え、私は早足になっていく。
紬「りっちゃん、今日調子悪いの?」
歩幅が縮む。
律「え、そうかなー? そう見える?」
紬「うん。府抜けちゃってる、感じ」
律「……そっか」
紬「あ、変な意味じゃないのよ? 気分悪くしちゃったらごめんね?」
律「いや、大丈夫。心配しなくていいよ、ムギ」
ぴたり、とそんな音がするかのように会話が途切れる。
そういえば、夏休みの時はムギと、もっと話をしていたような気がする。
今日の私はそのときより無口だから、ムギが『調子悪いの?』と訊いてきたのだろうか。
そんな考えをしているうちに、音楽室の前まで来てしまっていた。
部室にはもう梓がいた。
ムギはお茶の準備に行く。梓と二人。なぜか、落ち着かない。
梓「唯先輩と澪先輩はどうしたんですか?」
と、梓が話を振ってきたことに若干驚く。
律「日直と掃除」
梓「ああ、そうですか」
律「うん」
梓「………………」
律「………………」
梓「律先輩、今日は静かですね」
律「え、いつもこんな感じじゃないか?」
梓「いえ、いつもはなんか、もっとはっちゃけているっていうか」
律「そうかなー」
梓「はい」
律「………………」
梓「………………」
律「…………あの」
梓「……やっぱり、いつもより静かです」
確信を持って指摘された。
律「ちょ、ちょっと考え事してただけだよ」
下手な嘘。
梓「なんか、調子悪いんですか? 最近風邪流行っているみたいですし、ああ、そういえば純も風邪ひいているんですよ」
ムギと同じ質問――。
私はやはり、調子が悪いのかもしれない。テンションもなんか、いつもより低いのが自覚できる。風邪は……ひいているっていう自覚はない。
私は平静を装った。
律「はは、大丈夫だって。そういう梓はいつもより優しいじゃんか、なんかいいことあったの?」
いつもの私を意識して。
梓「なんか、心配して損しました」
律「どういうことだそれー!」
ムギに続き梓にまで心配されるとは、と軽い罪悪感を覚える。今日の私は、変なのか?
数分して、唯と澪が来た。
ムギがお茶とお菓子を持ってくる。唯が歓喜して、澪が美味しそうだな、と漏らす
私たちは定位置に座って、ケーキを囲う。
いつもと同じ、なのに私は心のどこかで、空虚さを感じていた。
食べ終わったら雑談して、ちょっと楽器に触って、部活が終わると解散して、校舎を出て、途中まで五人一緒に帰って、唯と梓とムギが別方向に行って……。
今日の朝と同じように、澪と二人っきりになった。
私が一歩くらい進んだところを歩いていて、澪がその後ろを歩く。
距離感。
明確な差。歩幅にして一歩分。
気にしてしまうと、ずっと忘れられない。
つと、澪が言葉を発した。
澪「……今日は、律、いつもと違ったな」
律「……マジか」
似た質問を二人からされて、澪にまで訊かれた。これはもう、私はいつもと違うということを認めざるを得ない。
澪「うん。言っていいのか分からないけど、なんというか、暗かった」
律「暗かった、か」
距離感。私と澪の間には距離がある。幼馴染なのに――幼馴染だからこそ、澪との距離を感じる。
……前から、何となくわかっていた。距離感があるなんて、知っていたのだ。
今日になって意識し始めた、というだけにすぎない。
澪「お、おい、律?」
律「え?」
知らぬうちに、立ち止まっていたらしい。
律「悪い悪い、考え事だよ」
澪「……律、なんか悩んでることあるのか?」
数秒の間をおいて、答える。
律「別に、ないな」
笑顔を作った。
歩いている最中、また、一歩澪より先に進んでしまう。
一歩分の距離――およそ五十センチメートルの距離は、短いようで長すぎる。
澪と十年近く一緒にいるのに、未だ、その距離を縮められないのだから。
時を経るごとに、距離を縮めるのが恐くなる。
それまで積み上げてきた澪との関係を、壊してしまいそうだから。
幼馴染だからこそ、私は澪に近づくことを、躊躇してしまうのだ。
幼馴染だからこそ、私は澪に、恋をしているというのに。
空を仰ぐ。そうしたら、何もかも忘れられそうな気がして。
けれど、夕暮れの空は、私を憂欝にさせるだけだった。
私のため息が空に消えた。
家に帰ると、聡に、洗濯物をちゃんとまとめておいてくれと言われた。はいはい、と生返事をしながら、私は自室に戻る。
ベッドの上に鞄を放り、私はイスに座った。机の引き出しを開けて、それを取りだす。
中学生のころ書いた、澪へのラブレター。去年の年の瀬、部屋の掃除をしているときに出てきたものだ。
律「澪大好きだよ…………なんて、な」
ラブレターには、たくさんのハートのシールが貼られている。
これを書いているときは、告白する気満々だったはずだ。でも、渡すのに勇気が出なくて、結局今も、こうして我が家に残っている。
思わず、苦笑してしまう。
勇気が出ないなんて律らしくないな、と澪なら言うかもしれない。
私は、本当はとても臆病なのだ。澪よりも、ずっと。
ただ、みんなの前では強がっているだけだ。威勢を張っている、と言っても正しいだろう。
でも実際は臆病だから、距離を意識しただけで、口数が少なくなってしまう。その結果、みんなに心配される。
澪に近寄りたい。
澪の手を握り、澪の眼を見つめ、好きだよと言いたい。
そんな妄想を口に出したら、唯に『りっちゃんキモーい』と笑われるかもしれない。
また、苦笑いが浮かんだ。あれこれ悩むのに、私は向いていないのだろうか。
澪に告白したら、きっと彼女は戸惑った挙句にごめん、と言う。でも、これからも友達だからな、とフォローするに違いない。
そうしたら私は、澪を避けるようになるだろう。
澪と一緒にいると気まずくなるのが目に見えるから。
だから、この恋心は要らないものなのだ。私と澪の関係を壊す、核にも似た存在のものなんて。
明日は、いつも通りの私でいられるだろうか。今日みたいに暗い私ではなく、陽気な私でいられるのか――?
そんな自信、ない。
誰か他人を不安にさせるのは嫌だった。それが、ムギであれ梓であれ、誰であれ。
どうすれば、いいのだろうか。澪のことを意識せずに済むだろうか。
そう考えて、一つの結論に至る。
澪との接触の機会を減らす。それくらいしかないように思えた。
律「……ごめんな、澪」
出来ることなら、したくないのだけれども。
澪といたら、また数十センチの差を気にしてしまう。そうしたら、またムギや梓に心配をかけるかもしれない。
早いうちに、手を打っておかなければいけないのだ。
私の想いが暴走する前に。
距離をあまりに意識しすぎて、それしか目に見えなくなる前に。
椅子に背を委ねる。ぎぃ、とものさびしい音がした。
ああ、そうだ。聡のやつに洗濯物まとめておいてくれと言われていたっけ。
椅子から立ち上がる。喉も乾いた。ついでに水でも飲んでこよう。そう思い、私は階下に向かった。
ラブレターを、ゴミ箱に捨てて。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
洗濯物をまとめる。そのあと、台所で水を一気飲みする。
聡が、今日父さんたち遅くなるみたい、と伝えてきたので、私は晩御飯を作ることにした。
二人だけで食べるご飯は少し味気ないな、と思いながらも箸を進め、ごちそうさまを言って食器を洗いに向かう。
その間に聡が風呂を沸かしてくれていた。一番風呂は私だ。
風呂上がり。バスタオルを体に巻きながら、自室に向かう。
宿題を終わらせる。その後、唯からメールが来たので適当に返信する。
そろそろ、寝ようか。私は欠伸を一つ出した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
疲れていたのかもしれない。夜になってベッドに入ると、すぐに睡魔が襲ってきた。
?「起きろー、律」
そして、その声で目が覚めた。
律「ああ……? 誰だよ、人が寝てるって言うのに」
目をこすりながら見た先には、私がいた。
律「ようやく起きた」
律「…………はぁあ?」
律「おーい、律」
よく見ると、もう一人の律は、今ここにいる私よりも背が小さい。顔つきもどことなく幼い。中学生の時の自分ほどだ。
――ああ、これは夢か。
律「起きてる? 律」
夢の中で頭をフルに使う。ひとまず、目の前の律を律Bとして、私を律Aにした。
律A「……何だよ、変な夢だな」
律B「なあ、律。本当にいいのか?」
律A「……何が?」
小さい自分に律、と呼ばれるのはなんか変な感じがした。
律B「いや、ラブレター捨てたじゃん、わりとあっさりと」
律A「……ああでもしないと、忘れられないだろ」
律B「何を?」
律A「何をって……お前が私なら、わかるべ?」
自分は夢の中で、なに自問自答みたいなことをしているのだろうか。
律B「何を?」
律Bが笑う。いたずらっ子みたいな笑み。
律A「うるせーぞ律B!」
律B「律B?」
脳内設定は反映されないのか。不自由な夢だ。
律B「何を忘れる――忘れたいんだ?」
律A「………………」
私は眼を瞑った。
律B「ねえ、何をだよ、律」
五月蠅い夢から逃げ出したかった。
だんだんと、律Bの声が遠ざかる。
夢から覚められるのだ――。
律B「律」
その間際。
律B「忘れられるわけがない」
そんな声が聞こえた、気がした。
そして、目が覚めた。
律「――っはぁ! ………………うわ、寝汗びっしょり」
寝汗に不快感を覚えながらも、私はふう、と息を吐く。
律「へんな夢見せやがって……律Bめ」
パジャマを替えよう、と部屋の電気を付けた。壁掛け時計を見る。まだ、午前二時。余裕で寝ていられる。
ゴミ箱が視界に入る。端の方に、ラブレターが埋まっている。
何を忘れたいのか。そんなの、決まっている。
澪への想いを忘れたいのだ。
そうしたら、距離なんて気にならなくなるから。
私はそのラブレターを、ゴミ箱の奥の奥へと埋めた。
――忘れられるわけがない。
そんな声が聞こえたような、聞こえなかったような。
パジャマを替え、再び布団に潜る。
今度は、夢を見なかった。
最終更新:2011年03月02日 23:59