学校に着くと、そう言って憂は自分の教室へ向かっていった。
私も足早に教室へ向かうと、澪がむつかしそうな顔をして携帯の画面を見ていた。
どうしたのか訊くと、澪は携帯の画面を私に見せてきた。
差出人、律。件名、今日は先に行くWA☆。本文、無し。
「こいつ、昨日置いて行かれたのを根に持ってるのか知らないけど、今になってこんなメールしてきたんだよ」
「そりゃあ、ご愁傷さま」
「ホントだよ。律の家に寄ったのが無駄になっちゃったじゃないか」
「つまり、寂しかったっていう話がしたいのね」
違うよ、と澪は顔を真赤にした。
こういう所、本当にこの娘は分かりやすいと思う。
「律も悪気があったわけじゃないと思うわよ」
「そうかなあ。こういうところ、本当に訳がわからないんだよなあ」
「まあまあ、幼馴染なんだから、」
「幼馴染でもわけのわからないことはあるさ」
ぱたん、と携帯電話を閉じて、澪は溜息を付いた。
しかし、なんだか楽しそうに見える。
わからないことはある。
それで済ませてしまう彼女が、なんだか不思議だった。
少し考え込んでいると、澪に、
「考え事か。多分、唯のことだろ」
と言われたので、驚いた。
「和の顔見てると、なんとなくな」
「凄いわね。ちょっと感動よ」
「どうも。幼馴染じゃなくても分かることはあるんだよ、ってことだ」
澪は声を殺して笑った。
私も幾分か気が楽になって、微笑んでみせた。
その日も極真面目に授業を受けて、放課後はいつも通り生徒会室へ向かった。
扉を開けると、曽我部先輩が窓際で何やらくねくねと動いている。
「曽我部先輩?」
と声をかけると、飛び跳ねるように背筋を伸ばして、ひっ、と高い声を上げた。
驚いている私を突然叱りつける。顔はえらく赤い。
「な……突然入ってくるんじゃありません!
あと、軽音楽部の書類に不備があったわよ、ちゃんと点検なさい」
すみません、と謝って、私はじっと曽我部先輩の顔を見つめた。
先輩はびくびくしながら、なによ、と尋ねてくる。
こんな風に子どもっぽいところがあったのか、と嬉しくなった。
「いえ、なんでも。じゃあ私軽音楽部に行ってきますね」
先輩から受け取った講堂使用許可届には、部長田丼中律、と書いてあった。
呆れて、私は早歩きで音楽室へと向かう。
その日も音楽室からは演奏が聴こえた。
また、誰も気がつかないうちに私は音楽室に入って、そっと席に座った。
唯は一生懸命にギターを演奏しながら、可愛らしい声で歌っている。
それを頬杖を突きながら眺めていると、諦観のような、変な気分になった。
ああ、わからないなあ。そんな気持ちだ。
そういえば、唯がザリガニで浴槽を満たした時から、私は唯のことなんてこれっぽちも分かっていなかったのかも知れない。
ちょっと、寂しいな。
「お疲れ様。早々悪いんだけど、律、あなたふざけるのも大概にしなさいよ」
私は田丼中律、と書かれた書類を突きつけて、律を睨みつけた。
律は酷く傷ついたような顔をした。
「いや、ちょっと、これはマジで書き間違え。インクが飛んだだけだからあんまり怒らないでくだちゃい」
と言って、ハムスターのような目で私を見つめてくる。
それで、私はため息を突いた。
「そう、ごめんなさい。でも気をつけてね。私が怒られるのよね」
「そうなのか」
「そうなの。私が回収点検係だからなんだけどね。出来ればミスは減らしてほしいわ」
すまんなあ、と老翁のように言って、律はサインをし直した。
私はそれを二、三度、今度こそしっかりと見直して頷いた。
「はい、じゃあオーケイ。それじゃ、練習頑張ってね」
そうして、音楽室を出ようとすると、唯が妙に落ち着いた声で尋ねてきた。
「大変だね?」
「ええ、大変よ」
それから、音楽室の扉に手をかけた私をじっと見つめて、
「頑張ってね」
と言ってきた。
曽我部先輩や澪やムギと話して、私はなんとかいつも通りになっていた。
「うん、頑張るわ」
少なくとも、こう返せるくらいには。
今日は却って、唯の不自然さが際立っているような気がした。
変に落ち着いた気分で廊下を歩く。
まだ日は半直角くらいの角度を地平線となしている。
それだけに、廊下の窓から光が差し込んでいる部分と、そうでない部分は一層強いコントラストを作った。
目が疲れて一瞬たじろぐが、しかし、しようがないことなのだ、とも思う。
むしろ、こんなふうに判然と別れてくれているほうがまだ目にやさしいような気もする。
生徒会室の前で、丁度部屋から出てきた山中先生と会った。
あ、と声を上げて、いたずらっぽく微笑んでくる。
「今は生徒会室入らないほうがいいわよ。今日はもう生徒会は無しね、帰りなさい」
「なんでです?」
「曽我部さんがエキサイトしてるから」
そう言って、山中先生はくつくつ喉を鳴らして笑った。
でも、と渋る私を呼んで、山中先生は歩き出した。
仕方なく私もついていく。山中先生は私に通学カバンを渡した。
「はい。本当に生徒会室には入らないほうがいいわ。面白いけど、あんまり見たくないものが見えちゃうから」
「そうですか」
なんだろう。すごく気になる。
生徒会長が、生徒会長じゃないところを、もっと見てみたいと最近思うようになってきた。
それで、ふと思う。
仮に唯が生徒会長になったとして、私は唯が生徒会長じゃないところをよく知っていると言えるんだろうか。
どうだろうな。
「考え事かしら」
山中先生に声をかけられて、私ははっと顔を上げる。
先生は長い髪を煌めかせて、窓から差し込む西日を浴びていた。
「考え事に制限時間はないから別にいいけどね、いっぱい考えた後は答え合わせも必要かもしれないわよ」
十年近く一緒に過ごした唯のことでさえ私には良く分からない。
まして、山中先生のことなんて分かるわけもない。
しかし、柔らかい赤い光のなかで、多少なりとも先生が私を気遣ってくれていることは判然としている。
「どうも。やってみますかね……亀の甲より、ってやつですね」
「あんた、ぶっ殺すわよ?」
「どうもすみません」
そんな軽口を叩いて、私たちは別れた。
答え合わせをする場所は、もうとっくに決まっている気がする。
私はふらふらと、しかし明確な意思を持ってアイス屋のある公園へ向かった。
流石に三日連続で訪れたせいか、店員さんに、
「最近の女子高生は食べても太らない娘ばっかなんですかね、妬ましい」
などと言われてしまった。
どきっとして店員さんに渡された抹茶アイスを見つめるが、抹茶だから大丈夫だろうなどと根拠のない論を信じて、自分を安心させる。
そうして、いつもの席に座ってちろちろとアイスを舐めだした。
多分、唯は此処に来るだろうな、今日も。
そうしたら、訊いてみよう。どうして生徒会長になりたいのか、尋ねてみよう。
唯のことが分からないのは不安で、悔しいけれど、このままにしておいたってしようがない。
事によると、新しい発見は、思いの外楽しい気分にさせてくれるかも知れない。
そう思うと、昨日は嫌な気持ちになった、忙しく明暗が対比させられている木の葉の群れも、なんだか楽しい気分にさせてくれる。
今日はアイスが溶けてしまわないように、早めに舐めた。
しばらくすると、唯が来た。
私の姿を認めると小さく微笑んで、またチョコミントを買ってから、当然のように私の隣りに座る。
「和ちゃんはさあ、舐める派なんだね」
そう言って、唯はアイスに齧り付いた。
私はそれを見て、ちょっと笑い、
「唯は齧る派なのね。今気づいた、大発見」
と返した。
「えへ、私も今ふと気づいたよ」
可愛らしい笑顔で、今まで十数年ずっと見続けてきた笑顔だ。
それを思うと、安心もするし、不安にもなる。
「ねえ、唯は」
そこまで言ってしまうと、意外と言葉はすんなり出てきた。
「唯はどうして生徒会長になりたいの?」
唯は一度私の目を見て、罰が悪そうに笑った。
「叱られちゃってさあ」
唯のアイスにはところどころ歯型が付いている。
「さっき、ムギちゃんと澪ちゃんにねえ。私は和ちゃんの為に生徒会長になりたいです、って言ったらさ」
それが答えになるのかならないのか、私には分からないけれど、私は黙って聴いていた。
「和ちゃん、大変じゃない。半分くらいは私とりっちゃんが悪いかもなんだけどね」
「でも、それは私が好きでやってるのよ」
「……それなんだよねえ」
唯は恥ずかしそうに頭を掻いて、心なし俯いた。
柔らかい髪の毛が彼女の指に絡まっている。
「それさ、なんていうの……私が好きって意味なの? それとも生徒会の仕事が好きって意味なのかな」
私の返事を待たずに、唯は慌てて続けた。
「いや、どっちでもいいんだけどね、私勝手にさ、和ちゃんが私のために嫌なこと我慢してないかって、思っちゃったんだよね」
「どうして?」
「ほら、幼馴染だから。なんかそういうこともあるのかなあ、って。和ちゃん、その……優しいし?」
色々と一瞬で考えて、結局出てきた私の答えは、
「そうなんだ」
だった。
「そうなんです。それで、澪ちゃんたちに叱られました」
「なんて?」
「和ちゃんだって色んな考えがあるでしょうに、邪魔になるような事しちゃ駄目だよ、って」
「ふふ、優しいのね、皆」
気がつくと笑い声が漏れていた。
唯もへらーっと笑って、ごめんねえ、と言った。
「私馬鹿だからなあ」
「知ってる」
「あ、非道い」
そう言って、唯はけらけらと笑う。
でも、ひょっとすると私も馬鹿なのだ。
唯は何も考えないお馬鹿さんで、私は考えすぎる馬鹿だった、それだけだ。
「帰ろっか」
自然と言葉は出てきた。
私たちは二人して立ち上がって、肩を並べて歩いた。
「ほら、唯、アイスあげる。これで生徒会長の件はナシね」
「そんなの貰わなくたってもうやめるよお」
そう言って、唯は自分のアイスを囓った。
私はその隣で抹茶アイスを舐めた。
とん、と肩を叩かれて振り向くと、唯がイヤフォンを片方私に差し出していた。
「ぱすかる……にゃー。一緒に聴こう」
「pascal pinonね」
私はそれを耳に着けて、音楽が流れるのを待った。
夕陽が差して赤く染まった街は、色々と思うところはあるけれど、単純に美術的に綺麗だ。
「私ちょっとがっかりなんだ。思ったよりも私たちって心通じてないよね」
「そうね。でも、大丈夫よ」
「どうしてさあ」
「たまに通じた気になるから、それでいいわ。上出来よ」
唯のことは良く分からない。分かっていたことなんて一度も無かったかも知れない。
ただ、唯はまだ変わっていなくて、お互い分かっていなくてもこうして二人して帰ることが出来るのだから、それでいい。
「変なの。でもちょっと恰好いいよ」
「あら、有難う」
私が微笑むと、唯も同じように微笑んだ。
チョコミントアイスを齧って、言う。
「私、部活頑張るね。目指せ新入部員獲得だよ」
私は自分の抹茶アイスを舐めて、言う。
「じゃあ私は生徒会を頑張るわ。実は憧れてる人がいます」
「ええ!和ちゃんの浮気者!」
「なによそれ」
唯はくすくす、私はふふ、とそれぞれ違う声で、違う仕方で笑いながら、唯がポケットから取り出した音楽プレイヤーを一緒に握った。
「これがいいわ」
「私も私も。仲良しだね」
一緒のタイミングで再生ボタンを押すと、音楽が流れてきた。
別々のこと別々の仕方でしながら、同じ音楽を聴いて、私たちは一緒に歩いて行った。
「I wonder what it will be like
I am kind of excited, a little terrified
I'm standing at a new beginning...」
急に発音が良くなった唯の歌を聴いて、私は目を瞑った。
唯がどんな娘なのか気になる。
わくわくするし、でもちょっと怖い気もする。
「ねえ、唯」
「うん?」
「頑張ろうね。頑張るから」
「なんのこと?」
今まで返していなかった返事をちゃんと返して、ギターを弾く唯を思い浮かべると、可笑しな気持ちになる。
ひょっとすると、唯は私よりずっと頑張っているのかも知れない。
実際どうだか分からない、でも、まあ、いいや。
「なんでもない」
私は唯の幼馴染だ。
そのころ!
曽我部「ハアハア……澪たん、澪たあん……///」
さわ子(うわあ……まだやってる……)
さわ子(まあ軽音楽部贔屓してもらってるから、澪ちゃんの脱ぎたてメイド服と水着写真くらいは……いいかな。いいわよね、多分)
つぎのひ!
会計「曽我部先輩って格好いいですよねえ」
和「ええ。私も来年生徒会長に立候補して、ああいう人になりたいわ」
さわ子「マジで!?」
おはり。
最終更新:2011年02月28日 20:57