唯「軽音部を壊した……って」

紬「梓ちゃん、何を言ってるの?」

梓「……いけませんかっ?! 好きだったんですよ、4人きりの軽音部が……」

律「あずさ……」

 頬っぺたに、冷たい雨にまじってあたたかい涙が落ちてくる。

 なんだか奇妙に情けない気分がとらえてきた。

梓「最初っから唯先輩が入るのは嫌だったんです! ……でも」

 涙を満タンに浮かべた瞳で見つめられる。

 思わず視線をそらす。

 梓ちゃんの小さなこぶしが、胸をつぶしそうだった。

 ぎゅっと瞑った目から、つぎつぎと涙が落ちてくる。

 涙雨が、心まで濡らしていく。

梓「これから大学まで行って、ずっと一緒にバンドやってく仲間だから、受け入れたかったのに!」

 私は梓ちゃんが求めるような先輩ではなかった。

 むしろそれとは逆の、軽音部という園に群がり、

 巣へと花蜜を持ち去ってゆく末端のはたらき蜂だ。

 瞳の色さえも涙でにじんでしまった目が、ふたたび開かれる。

 悔しそうに奥歯を噛んで、梓ちゃんはわたしを強く睨んだ。

梓「軽音部は……レズなんか受け入れるために生まれたんじゃないです!」

憂「……」

 雨はなお激しい。

 ムギちゃんがそっと、梓ちゃんの上に傘を差した。

紬「梓ちゃん」

梓「……わたし、だって……」

 ゆっくりと力が抜けていくように、胸ぐらが解放される。

 握りしめられていたブラウスには、はっきりとシワがつけられていた。

 梓ちゃんはのそりと立ち上がると、びしょびしょの服で目をこすってから、自分の傘を拾った。

 私も体を起こす。憂が私の肩に掴まりながら起き上がる。

 ざあざあと、雨が街をうるさく包んでいた。

律「……帰るか」

 所在なげにりっちゃんが言った。

 私もみんなも、黙って小さく頷いた。

律「着替えなんかねぇよな……」

 りっちゃんはいつもより数倍増しに気だるそうだった。

紬「さわこ先生のは」

澪「あんなの着て帰ったらママが死んじゃうよ」

梓「澪先輩は平気なんですか……」

澪「そういう意味じゃない」

唯「……あ、りっちゃん」

律「うん?」

唯「下着の上下、揃えないんだね」

律「……なっ!? ちょっと待てい、パンツはいつ見たんだ!」

 それは言葉にしたくない。

律「あー、そうだなぁ……せめてセーターか何か着ないとなぁ」

 結局りっちゃんは、山中先生の作った使途不明な上着を羽織って下着が透けるのを隠した。

 4本の傘を、りっちゃんと澪ちゃん、私と憂、

 ムギちゃん、そして梓ちゃんで1本ずつ差して帰路につく。

 ぐちゃぐちゃ靴を鳴らしながら、びしょ濡れの服装で歩く6人組はさぞ奇妙だったろう。

 気持ち程度、みんないつもの帰りよりも歩調が速かった。

 ふだんの帰り道では梓ちゃんと二人きりになる時間があるのだけれど、

 当然というか、ムギちゃんが梓ちゃんを呼び止めて、一緒に駅の改札をくぐっていった。

唯「ふたりとも、またね」

 そう告げたけれど、応えたのはムギちゃんだけだった。

唯「……行こ、憂」

憂「……うん」

 悲しげに笑った憂と、傘ごと手を繋いで家へと歩いていく。

唯「ねぇ、憂……あのさ」

憂「ん、なあに?」

 水の音がうるさくて、一度立ち止まる。

唯「私のこと……許してくれる?」

憂「許すって?」

唯「だからその……よりを戻すっていうか」

憂「……それは、わかんないよ」

 憂が歩きだしてしまう。

 引っぱられるまま、私も歩き出すしかなかった。

憂「お姉ちゃんのことはね。好きになり直せたかな、って思うけど……思わされたんだけど」

 雨粒が集まって白く光っている電線を見上げて憂は言う。

憂「……そんなの、いいのかなって」

唯「そう……だね」

 私の頭に、梓ちゃんの言葉が蘇る。

 きっと憂も同じことを思っている。

唯「私もさ……憂が大事だってこと思い出させられたよ」

憂「うん。死にたくなった理由を考えたら、やっぱり私はお姉ちゃんが好きなんだなって」

唯「……でも、さ。好きだけじゃいけないことって……あるんだね」

 私が言うと、憂は沈黙してしまった。

唯「言い出しといてだけど、今はまだ考えないでおこっか」

 こくりと憂は頷く。

唯「でも……お互い好きになりなおせてよかったね」

憂「そだね。……けどもう死にかけるのはやだよ」

唯「ご安心を。二度とあんなこと思い立てさせないから」

憂「……えへっ」

 私たちの家は、今日のような雨の日も、白くたたずんでいた。

 傘を閉じ、畳んで立ててから、ドアを開ける。

唯「れっ?」

 鍵を開ける作業を忘れていた。

 けれど、ドアは何かに引っかかることなくすっと枠から引っ張り出された。

 鍵を掛け忘れたか。確かに今朝はぼうっとしてたけど。

 などと思案するうち、やがて答えは向こうからやって来た。

母「あぁ、やっぱり二人ね」

父「おかえり、唯に憂」

唯「……ほぇ」

憂「あ……ただいま」

 そういえば、今日は7月9日。

 前もってお母さんたちが帰ってくると伝えていた日だ。

 鍵よりも何よりも、忘れていたのはこのことだった。

母「って、あなた達ビショビショじゃない!」

唯「あ、うん……傘忘れて」

父「二人揃ってか?」

憂「まぁ仲良しですから」

母「憂、ふざけないの。二人もいるんだから、どっちか一人くらい天気予報を見るものじゃなーい?」

唯「えへへ……ごめんなさい」

 さっきとは違うくだらない叱責に、思わず顔がほころんでしまう。

 かといって、梓ちゃんに言われたことの負担が軽くなった訳ではない。

母「はぁ、まったくきいてない……いいからさっさとシャワー浴びてきなさい、風邪引くわよ」

唯憂「はいはーい」

 靴を脱ぐと、二階へ駆け上がりお風呂場に向かう。

 満遍なく足跡がたっぷりついたが、後で掃除させられるのは足跡がちょっとだろうと同じだ。

 ならば、靴下を脱ぐとか面倒なことは考えなくてもいいのだ。

 憂と一緒に浴室に突撃し、頭をぶつけ合いながらお湯の取り合いをする。

 じかに肌を触れ合せていると、憂の体が本当に冷え切っていることがわかった。

 暖めてあげようと後ろから抱きついたが、私の手も冷たかったらしく憂が小さく悲鳴を上げた。

 まぁ、とにかく二人ながらてんやわんやと体を暖めて、

 軽く汗なども流してから浴室を出る。

 水滴を取り、用意されていた着替えに袖を通すと脱衣所のドアを開ける。

母「ちょっと、家族会議」

 そこには、お母さんがめったに見せない真顔で立っていた。

唯「かぞくかいぎ……」

 言うに堪えない悪寒が背中を駆け上がった。

 せっかく温まった体が、くしゃみを吐きそうなくらい冷え込む。

母「そう。リビングにいらっしゃい」

 お母さんがリビングに消えた後、憂は私の腕にがっしり掴まった。

憂「ど、どうしよお姉ちゃん……ばれちゃったんじゃ」

唯「……いざとなったら、覚悟を決めるしかないよ。憂」

憂「……ん、んっ」

 びくびく震えながら憂は頷く。

 私も深呼吸をしてから、リビングへと向かっていく。

父「……二人とも、とりあえず座りなさい」

 お父さんさえ真面目な顔をしている。

 テーブルの上には、水浸しになった私と憂の夏用セーターが並べて置かれている。

唯「……はい」

 なにか違うような雰囲気が見える。

 けれど、セーターから何か見つかったことも考えられないわけではない。

 私は堅苦しく返事をして、椅子に掛けた。

母「ねぇ、ふたりとも」

 憂が掛けてから、お母さんは気難しげな顔で口を開いた。

母「その……これは、どういうことなの?」

唯「……これって?」

母「このセーターよ。唯のも、憂のも……こんなに汚れて痛んでるじゃない」

唯「へ……あ、えと」

 クリーム色のセーターは、確かにところどころほつれているし、

 泥汚れのような染みがひろがっている。

 心当たりしかない。

 めったに人の入らない屋上の上層、しかも雨天で寝そべったりすれば、

 これぐらい汚れるのは当たり前だ。むしろ綺麗に保たれているほうである。

父「心当たりがない、ってわけないよな」

唯「そのぉ……」

 なぜ汚れたかを説明するのは簡単だ。

 ただ、いったいどうしてこんな泥まみれになるような行動をしたかという説明は、

 私たちの全てを両親に明かさなければできないことだ。

 うまくごまかせる気もしない。

母「それから、ね」

 答えに窮している間に、お母さんがさらに言う。

母「唯のブラウスの襟のとこ、変なふうにシワが付いてたわよ」

唯「あぅ」

 梓ちゃんに胸ぐらを掴まれた時についたシワだ。

 洗濯してからアイロンをかけるつもりでいたが、それでは遅すぎたらしい。

憂「お、お姉ちゃん……」

 心配げに憂は目配せをする。見られても困る。

母「それから……唯、ほっぺた見せてちょうだい」

 なるほど、澪ちゃんにひっぱたかれた時の痕が残ってしまったらしい。

 そしてだんだんと、この家族会議の真意が見えてきた。

 このまま、そういうことにしてしまうのが都合いいかもしれない。

唯「……うん」

 わざと叩かれたほうの頬を差し出した。

 お母さんは親指で私のほっぺたを優しく撫でると、眉根を寄せて悲しい目をした。

母「……やっぱりそうみたい、あなた」

父「そうか……」

 空気がずんと沈み込む。あくまでお父さんとお母さんの間だけで。

 けれど意外だった。

 お母さんたちは、私たちがいじめを受けているものと思っているんだろうけれど、

 仮にそういうことが発覚したら、うちの両親は烈火のごとく怒るものだと思っていた。


 それとも青の炎というやつで、真の怒りはむしろ冷め冷めしく見えるものなのだろうか。

 しかし、あらためて両親の顔を窺い見ると、そこに怒りは無く、

 ただ悲しみに落ち込んでいるばかりにしか思えない。

 私たちは黙ったまま、次の言葉を待つ。

 時計の音を聴き、雨音を聴く。

 そして、お父さんが顔を上げた。

父「……これは、もしかしたら多分、二人はもう知っているかもしれないけれど……」

 暗い顔だった。

 悲しみに暮れて、けれど意志ある目をしているようにも見える。

父「二人がいじめられているのは……父さんたちに原因があるんだ」

憂「……へっ?」

 拍子抜けた声で、憂は首をかしげた。

唯「お父さんたちが……どうかしたの?」

父「どうかしたというわけじゃない。ただ……そうだなぁ」

 お父さんは少し顎を撫でると、こんな風に訊いてきた。

父「唯、憂。母さんの旧姓は知ってるか?」

唯「旧姓? ……えー」

 少し思いだそうとしてみるが、それらしいものはない。

 記憶のパズルからピースが抜け落ちて空白になっている感覚さえない。

憂「分かんない……聞いたことないかも」

母「そうだと思うわ。唯たちには、内緒にしてたから」

唯「……なんで?」

父「知らないほうが良かったからさ。……けど、こうなっては仕方ないよな」

 お父さんは、深くため息をついた。

父「母さんの旧姓は……今と変わらずに、平沢というんだ」

唯「……どういうこと?」

父「もちろん父さんも、生まれてから今までずっと平沢だ」

 お父さんは意味ありげに言う。

 けれど、私は何の事だかまるで見当がつかずにいた。

憂「おんなじ平沢同士で結婚したの?」

母「そうよ。けど、それだけじゃないの」

 軽い沈黙になる。

 私はもう少し考えてみる。同じ名字、けれどそれだけではない。

唯「……ぁ」

 と、すると。

 法律上は認められていることは知っていた。憂と結婚がしたくて、その辺りは色々調べたのだから。

 けれど、まさか、こんなにも身近にその人たちがいるなんて。

唯「お父さんたちって……いとこ同士なの?」

 ゆっくりと深く、お父さんたちは頷いた。

憂「……ほんとに?」

母「嘘ついてどうなるのよ」

憂「……それは、そうだけど」

父「隠していて済まない。……色々気にしてしまうだろうから、墓場まで持っていきたかったんだが」

唯「あ、えっと……」

 頭が冷静さを取り戻してくる。

 いつまでも驚いている場合ではない。

唯「……近親婚、なんだね」

父「ああ。……だから恐らくそのことが学校の生徒に知れたんだと思う」

唯「そう……かな」

父「唯たちがこんな目に遭うとしたら、それぐらいしか原因が無いだろう」

 お父さんは眼鏡を外し、汚れたセーターを指先で撫でる。

父「ほんとうに……父さんたちのせいで……」

 誤解を解くべきか解かないべきかと迷っているうち、

 お父さんの声が震えだす。

 はっとして見ると、お母さんは目からぼろぼろ涙をこぼしていた。

父「すまないっ! ……こんな家庭に産んでしまって」

母「本当にごめんなさい、唯、憂っ……!」

 藪をつついて蛇どころか龍を出してしまった、いかんともしがたいこの状況。

 肩をすくめて泣いている両親からひとまず目を外し、憂を見てみる。

唯「……憂、どうしよう」

憂「どうしようって……とりあえず、えっと。怒ってないよね?」

唯「うんっ、怒る理由がないよ」

 深く頷く。

 イジメの事実なんてないのに、怒ったふりまではさすがにできない。

唯「顔上げてよ、お父さんもお母さんも。私たちぜんぜん気にしてないから」

父「だが、唯も憂も……」

 イジメられていないと言えれば話は早いのだが、

 そうなると制服の汚れた理由を考えなければならない。


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