授業が終わって、HRを済まし、放課後になる。

 まだ動き出す気が起きなかったが、りっちゃんに促されて私はギターを背負った。

 階段を降りて、憂の教室に向かう。

 憂が来てくれるとは思えなかったけれど、

 かと言って迎えにいかない訳にもいかない。

 それこそ、憂との全てが終わってしまう気がした。

 階段を降りて、教室のドアを開ける。

 憂は教室の奥にいて、純ちゃんと話をしていた。

 そして、私が入って来たのを見つけるとぱっと目を輝かせた。

憂「お姉ちゃん!」

唯「わ、わわっ!?」

 あまりに突然のことに、パニックを起こしかけた。

 そんな私のもとに、憂はカバンを置いて駆け寄ってくる。

 夢か幻覚でもみているようだった。

 倒れ込むように憂が私に抱きつく。

 私の身体は、なんとかかつての習慣を取り戻し、飛び込んできた体を抱きとめた。

唯「う、憂?」

憂「ごめんね、びっくりした? お姉ちゃん」

唯「……うん」

 憂が分からない。

 いたずらっぽく笑って私から離れると、

 あきれ顔の純ちゃんからカバンを受け取る。

純「いやぁ、抱きつき姉妹復活ですねぇ」

 にやにや笑いながら、純ちゃんは私の肩に手を置いた。

純「心配してたんですよ? 二人が別れたんじゃないかって」

 冗談めかして純ちゃんはとんでもないことを言う。

唯「別れるはずないよ。私たち姉妹だもん」

純「まはっ、そうですね」

 とっさに答えてしまったが、私はちゃんと笑っただろうか。

 混乱がおさまらない。

憂「お姉ちゃん、部活いこっ」

 憂がぎゅっと手を握る。

唯「あ……うん、部活くるの?」

憂「うん。良いでしょ? ほら、雨降ってるのに私傘忘れちゃったし」

唯「そだね。……って、お姉ちゃんも傘忘れちゃったけど」

 戸惑いが消えたわけではない。

 だけど、憂が私に近付いてくれるのを断る理由なんてない。

 私は憂の手を握り返す。

唯「じゃあね、純ちゃん」

憂「またね」

 ちらっと振り返って、教室から出る。

 梓ちゃんは既に部室に向かったみたいだ。

 階段を上がり、部室の前までやってくる。

憂「ねぇ、お姉ちゃん」

唯「ん、なぁに?」

憂「……もう大丈夫だよ」

 憂はそっと私に寄り添った。

 吹奏楽部が音を出し始めていたが、雨の音ははっきりと聞こえてくる。

 これは軽音部に入ってからムギちゃんに言われたことだけれど、私はすごく耳がいいらしい。

 確かに私は小さな音でもよく聞こえるし、聞き分けられる。

 ただできれば、今は雨の音は聞こえてほしくなかった。

唯「……そっか」

 軽くその頭を撫でる。

唯「いこう憂。遅れちゃったら悪いよ」

憂「うんっ」

 音楽準備室のドアを開ける。

 すでにみんな集まって、ティータイムの準備をしていた。

紬「あれっ、憂ちゃん!」

憂「急にお邪魔しちゃってすみません。私のぶんのお茶はいいですから」

紬「いいのよ、すぐ用意するわ」

 憂は断ったが、ムギちゃんは手早くティーポットを大きいものに替える。

 軽音部に入ってから知ったことだが、ムギちゃんは意外としたたかだ。

 テーブルを囲むと、たくさんのクッキーが出される。

 みんなでつまみながら紅茶を飲み、世間話をする。

 雨は激しかったけれど、みんなはさほど気に留めていないようだ。

 昨日とは打って変わって和気あいあいとした始まりだった。

 ただ憂のほうを見ると作り笑顔をしてるのは明らかで、

 お茶にもまったく手を付けていなかった。

唯「うい、食べないの?」

憂「お腹いっぱいで」

 そう言って歯をのぞかせるが、笑っているようにはとても見えなかった。


唯「ほら憂、あーん」

 クッキーを一枚取り、憂の口もとに近づける。

憂「……あ、あーん」

 くちびるを震わせてから、意を決したようにクッキーをかじる。

唯「おいしいでしょ?」

憂「うん、おいしい……」

 さくさくクッキーを噛みながら、憂は顔を伏せた。

唯「憂?」

憂「……んと、ごめんね。ちょっと、トイレ行ってくるよ」

 すっと立ち上がって、逃げるように憂は部室を後にする。

 様子がおかしかったのは、トイレを我慢していたからなのだろうか。

澪「……なんだか、変だったな」

 澪ちゃんがドアを振り返る。

 やっぱりみんなの目にもおかしく映ったらしい。

唯「どうしたんだろ……」

 不安が胸に重くのしかかり、潰されそうになる。

律「やっぱりトイレじゃないかな……」

 冗談めかして言おうとしたりっちゃんの声が沈む。

 なぜだか、会話に参加していなかった憂が出ていったことで、

 ティータイムは雨音に包まれてしまった。

梓「……あの」

 梓ちゃんが遠慮がちに言った。

梓「憂でしたら、昼からずっとあんな調子でしたよ」

唯「え……?」

 その一言だけで、なぜか悪寒が走る。

梓「最近は憂と仲良くしてて、お昼も一緒に食べてるんですけど、その時に話したんです」

唯「なにを」

梓「昨日のあの話ですよ。身近にレズがいたらどう思うかって」

澪「梓、あんな話ペラペラ周りにするなよ」

梓「……そうですよね」

律「全部話したのか?」

梓「いえまぁ、皆さんの意見だけですけど」

 途中からもう、梓ちゃんの話なんて聞いていなかった。

唯「……憂?」

 憂の足音は分かる。

 何が特別というわけじゃないけれど、必ず聞き分けられる。

紬「どうしたの、唯ちゃん?」

 雨がはじける音にまじって、空から聞こえる憂の足音。

 憂はトイレに行ったはずなのに。部室の上には、屋上しかないのに。

唯「……わたしも……トイレ」

 震える脚を無理矢理立たせる。

 急がないといけない。足音はまだ聞こえている。

律「あ、あぁ……平気か?」

 その質問には答えずに、ドアに向かって駆け出す。

 部室を飛び出して、階段の裏にある大きな扉を引く。

 激しい雨音が耳を衝いたが、迷わず屋上へ飛び出す。

 憂の足音は頭上から聞こえた。恐らく給水塔のある屋上まで上っていったのだろう。

 あっという間に服が雨に浸されていく。

 憂も今頃同じように濡れてしまっているはずだ。

 すぐに暖めてあげないと。

 手すりのさびた階段を駆け上がる。

 雨だまりが撥ねて、上履きの中がずぶぬれになる。

 一段上がるごとに、ぐちゃぐちゃと水が動く。

唯「はぁ、ぁ!」

 口に入ってくる雨を吐き出し、階段を上り切った。

 撥ねる雨のせいで、その後ろ姿は灰色の宙に浮かんでいるように見えた。

 一瞬、間に合わなかったかという思いがよぎったが、

 憂はまだ屋上のふちに立って、地面を見つめているだけだった。

唯「ういいぃ!!」

 風と雨が唸る中、あらんかぎりの大声で叫ぶ。

唯「行っちゃだめええぇぇ!!」


 憂がゆっくりと振り返る。

 結んだ髪がいつもより低く垂れていた。

唯「……憂っ」

 体が冷えて重たい。

 引きずるように、憂のもとへ歩いていく。

 憂は虚ろな瞳で私を見つめて佇んでいる。

 あと数歩すすんで手を伸ばせば届くぐらいに近付いた。

唯「……」

 そして、それ以上進めなかった。

 雨をかぶった憂の顔は、あまりにみじめに見えた。

 私では救いだせそうにないほどに悲しく沈んでしまっていた。

憂「……何しに来たの、お姉ちゃん」

唯「何しにって……」

憂「私が何しようとしてるか分かってるよね……どうして掴まえてくれないの?」

唯「……うん」

 走って来たときの呼吸が、まだ落ち着かない。

 泥くさい雨の味が口中を打つ。

憂「……やっぱり、そうなんだね」

 憂が目を伏せる。

憂「お姉ちゃん、私が死んでもいいんだ」

唯「……いいわけないよ、そんなの」

憂「うそつき。同性愛なんてありえないんでしょ? カンベンしてほしいんでしょ?」

唯「憂、それは方便だってば。私たちは……」

憂「女の子同士だから、姉妹だから、お姉ちゃんに傷つけられなきゃいけないの?」

 雨粒にまぎれて、憂の目から涙が零れる。

 伝う涙の軌線は、激しい雨にも溶けずに憂の頬に残り、私の瞳に焼きついた。

憂「律さんが言ったんだよね。私たちがレズじゃないかって」

唯「……うん」

憂「どうして認めなかったの? 言っちゃえばよかったのに」

唯「だ、だめだよ。気持ちは分かるけど、みんなには言えない」

憂「わたしを傷つけても?」

唯「……そんなこと言ったって。どっちにしたって憂は傷つくよ」

憂「お姉ちゃんと一緒なら、私はいくら傷ついたって平気だよ。……耐えられないのは」

 憂が拳をぎゅっと握る。

 震えているのは、雨に打たれて冷えたせいではないみたいだ。

憂「なにより嫌なのは、お姉ちゃんが私より、軽音部と仲良くなろうとしてることなんだよ」

唯「違うよ、私は……」

憂「……いいよ。いいんだ。私たちはもう愛し合ってないもんね」

 憂の言うことは、半分当たっていた。

 確かに私は、憂よりも軽音部のみんなに受け入れられることを優先している。

 けれど、そのために憂を傷つけるくらいなら、そんなことは二の次にできる。

唯「……」

 そう、思っていた。

唯「もう、愛し合えないのかな……」

 誰かを傷つけたくないなんて、当たり前のことだ。

 愛している相手ならなおさらのこと。

 だけど、私は私の行動で憂が傷つくことぐらい分かっていたはずだ。

 そうだ。なんのことはない。

 私は憂を傷つけてでも、軽音部のみんなに私を受け入れてもらいたかったんだ。

 私は、普通に、こんな日常に、憧れていたんだ。

 妹を愛してしまうことのない、平穏な毎日に。

 襟足から首筋に、ぬるい雨が垂れる。

 このまま、憂が雨の中へ消えてしまえば。

 私は憂を愛したことを忘れて、どこにでもいる人間になれる。

 みんなと嘘をつかずに仲良くできる。

唯「うい……」

 私が最後の言葉を考えようとした瞬間、突如大きな手が肩を掴んだ。

 強い力で振り向かされると、すぐ前に澪ちゃんが恐ろしい剣幕で立っていた。

 視界の端をりっちゃんが横切る。

唯「っぶ!?」

 その瞬間、私は横薙ぎに吹っ飛ばされた。

 足が滑って体が宙に浮き、一瞬空いて水たまりに落とされる。

 痛みをこらえて起き上がり、辺りを見回す。

 ――憂を見失った。


律「澪ぉ、ムギい!」

 切羽詰まった叫びが届く。

 水たまりがはじける音が二人ぶん。揺らぐ視界に、ムギちゃんのブロンドが映る。

憂「嫌だっ、離してください!」

律「離すもんかバカがぁっ!!」

 屋上のへりに、澪ちゃんとムギちゃんの背中が並んでいる。

 りっちゃんの黄色いパンツも見えた。

律「観念しろっ、せえ、のおっ!」

憂「ああっ……」

 まるで釣りあげられた巨大魚みたいに、憂が引き上げられて屋上に落とされた。

唯「うい、ういっ」

 私のほうもそれと大差なく、倒れている憂に這い寄る。

憂「お姉ちゃん……」

 息を切らしながら、私たちの傍らにりっちゃん達が膝をつく。

律「お前ら……いったい何なんだよ」

唯「……それは」

 もう一つ、階段を上がってくる足音がある。

 雨が傘を打つ音もしていた。

 階段の方を見やると、

 大きな傘を差した梓ちゃんが3本の閉じた傘を腕にかけて現れた。

澪「正直に言おう、唯。……こんなことになって、もう二人だけで抱え切れる問題じゃないだろ?」

紬「話してくれるかしら?」

 みんなには、言わずとも予想がついているのかもしれない。

 けれど、だからといってこれを濁してこの場を去ることはできそうにない。

唯「……わたし、憂と付き合ってるんだ」

律「……やっぱりか」

 りっちゃんは梓ちゃんから傘を奪い、紐をほどく。

澪「でも、どうしてこんなことに?」

唯「わたしが、軽音部に構いすぎてたから……憂を傷つけちゃったんだ」

 りっちゃん達がばっと傘を開く。

 雨は靴下を濡らすだけになった。

 かわりに雨粒は傘のビニールに当たって、よりうるさく騒ぎ出した。

唯「こんなつもりじゃなかったんだ……将来、憂と二人で生きてけるように変わりたいだけだった」

紬「それで軽音部に……?」

唯「そうだよ。……なのに私バカだよね。みんなに受け入れられたいだなんて思っちゃって」

 澪ちゃんに叩かれたところが痛む。

 叩かれたのは頬だけではないな、と思った。

唯「嘘ついた自分を受け入れてもらったって意味ないのに。……そんなの、私じゃないのに」

憂「お姉ちゃん……」

 私は、ようやく根本的な間違いに気付けたのかもしれない。

 自分がどういう風に生きたいのか。

 受け入れられたい自分とはどういう人だったのか。

 憂にあんな選択をさせてしまった時点で、気付くのは遅すぎたのかもしれないけれど。

唯「……ごめんね、憂」

 私は、横たわる憂に手を伸ばす。

 しかし指が憂の頬に触れる前に、急に空が暗くなった。

梓「そんなもののために……」

 梓ちゃんが私の顔を覗きこんでいた。

 いや、覗きこむなんて言い方をするには、

 その表情はあまりに憎しみを抱きすぎている。

梓「フザ……ケないでくださいっ」

澪「梓?」

 梓ちゃんが傘を投げ捨てた。

 傘を持っていた両手が私の胸倉を掴む。

梓「そんな身勝手な理由で、私たちの軽音部を壊したっていうんですか……!」

唯「え……」

 まったく予想もしていなかった糾弾だった。


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最終更新:2011年02月25日 21:03