鼻をすする音が混じった。

唯「……どうしたの憂? 聞かせてみて?」

 毛布を手のひらでぽんぽんと叩く。

 憂は私に背を向けて、丸まっているようだった。

憂「わたしから、誘ってばっかりだったから……たまにはお姉ちゃんからがいいなって思ったの」

 くぐもった声で、憂はこぼすように話しだした。

憂「だからお姉ちゃんが我慢できなくなるまで誘わないで、部活にも顔出さないようにしたんだ」

唯「でも、部活に来なくなったころと、最後にエッチした日は違うよね?」

憂「それは、だって。ね。……でもだんだん、我慢できるようになってきて」

唯「……ああ」

 梅雨の時期から感じていた、原因不明の物足りなさ。

 あれは、私のほうから誘ってほしいという憂の願望が、

 おのずとセックスや憂からの愛撫に影響を与えていたのかもしれない。

憂「……でも、我慢できなかったらよかったよ」

 小さな嗚咽が布団の端から漏れてきた。

憂「わたし今、すっごく悲しいよ……お姉ちゃんのこと、好きじゃなくなっちゃった」

唯「……憂も?」

 びくりと毛布が動く。

 小さくすすり泣く声がする。

唯「ばかみたいだね、私たち……体で繋がってただけなんだ」

 こんなことを言っていいのかさえ、私の頭では分からなかった。

唯「気持ちいいだけだったんだ……」

 ただ、とにかく。

 愛し合っていたはずの私たちは、

 たった数日セックスを休んだだけで、その愛がまったく消失してしまっていた。


 どうして消えてしまったんだろう。

 それとも初めから、愛なんてなかったんだろうか。

 ただ私たちは肉体の快楽におぼれて、

 精神の快楽を得るために愛し合っていると錯覚していただけなんだろうか。

 そして快楽がなくなって、

 その呪いもとけてしまったんだろうか。

唯「……ねぇ、憂」

 私たちは間違っていたんだ。

 2年前の、今日と違って凍るように冷たい夜。

 憂が14の誕生日を迎えた日から、道を間違えてしまったんだ。

 私が姉として言うべき言葉が、胸に浮かぶ。

 同時に、目の端が熱くなった。

唯「元の姉妹に……もどろっかぁ」

憂「……それはっ」

 突如、毛布が宙を舞った。

憂「それはやだっ! お、お姉ちゃんは、だって、そしたら」

 涙を散らして、憂はとにかく大声をあげた。

憂「……そんなっ、元に戻れるはずないじゃん!」

唯「うい……」

憂「私たち姉妹なんだよ!? なのにここまでやっちゃって、今更……そんな」

 急に勢いを失ったようにしょげて、憂はまたぐすぐす泣きだした。

憂「お姉ちゃんが愛してるって言ってくれて……それは、忘れられないし……」

唯「でも、忘れなきゃだめだよ。普通に生きていくんだから」

 どさり、と憂がベッドに倒れる。

憂「……なんで?」

唯「へ?」

憂「なんで元に戻ろうとするの?」

唯「なんでって……何言ってるの、憂?」

 愛し合っていない以上、恋人の関係を続けるのはよくない。

 ただでさえ私たちは姉妹なのだから、こんな関係は即刻やめなければいけないのに。

憂「……わたしは、やり直そうって思ったよ」

 その声色か、言葉にかは分からないけれど、私はハッとして背筋が凍った。

憂「私はお姉ちゃんが好きだった時に戻りたいって思った」

唯「わ、わたしだって」

憂「普通に生きていくんでしょ?」

 勝手に口から滑っていく、言い訳じみた言葉を遮られる。

憂「おかしいって思ってた。練習や勉強がいそがしくなって、最初に削ったのは私との時間だもんね」

唯「でもっ……」

 勉強の時間を削っては大学に落ちるかもしれないし、

 練習の時間を削っては軽音部に受け入れてもらえないじゃないか。

憂「お姉ちゃんは普通になりたかったんだね。……私をこんな、異常な人間にしといて」

唯「そ、そんなことないよ。私は憂と一生……」

憂「少なくとも」

 憂はまた、毛布を頭まですっぽりとかぶった。

憂「最近のお姉ちゃんは、私との人生のことなんて考えてなかったはずだよ」

唯「憂っ……」

憂「もうお部屋に行って、お姉ちゃん。……このままだと私、お姉ちゃんにとどめ刺されちゃいそう」

唯「……ぅ、ん」

 今はきっと、何を言っても伝わらないと思った。

 ベッドから立ち上がって、壁に手をつきながらドアに向かう。

唯「あのさ、憂……誤解だからね?」

 部屋から出る前に、それだけ告げた。

 少し待って返事がないのを悟り、ドアノブをひねった。

――――

 翌日、浮かない気持ちのまま私は軽音部へ向かった。

 教室に行って憂を誘ったが、やはり今日も帰るようだった。

 今日の部活も、ティータイムから始まる。

 20分ほどの放課後ティータイムの後で練習になるのだが、

 話が盛り上がった時はその限りでない。

律「そういえばさー」

 りっちゃんが紅茶をさましながら思い出したように言う。

律「みんな知ってる? よそのクラスの子から聞いたんだけどさ」

紬「なに?」

律「エリとアカネのことなんだけど……」

 みんなは「知らない」と首を振る。

 エリちゃんとアカネちゃんは、私たちと同じ3年2組のクラスメイトだ。

 2人に何かあったんだろうか。

律「エリん家の近くに住んでる奴の証言なんだけどさ、昨日二人エリん家で遊んでたらしいんだ」

澪「それで?」

律「そんで、そいつがたまたまエリん家の前を通った時な」

 りっちゃんがすぅっと息を吸う。

律「あああああああぁぁぁぁっ!!」

澪「っひ!?」

 澪ちゃんがいくらか紅茶をこぼした。

律「と、すごい声が聞こえてきたそうなんだ」

澪「いきなりでかい声出すなよ……」

梓「それって、どういう意味ですか律先輩?」

律「だから、つまり……エリとアカネ、できてんじゃないかって噂なんだよ」

梓「……あぁ」

 梓ちゃんは露骨に嫌そうな顔をする。

澪「でも、声だけなのに……」

紬「そうよね、ふたりでエッチなビデオを見てただけかもしれないし」

律「いや、それもどうかと思うが……あくまでウワサだよ、根も葉もないさ」

澪「たちが悪いな」

律「まぁ私だって信じちゃいないよ。たださぁ」

 こくん、とひとくち紅茶を飲み、りっちゃんは本題を切り出した。

律「実際どうよ、そういうのが近くにいたら」

澪「……なんだ、『そういうの』って」

律「だから、レズだよ」

 唾を吐き棄てるようにりっちゃんは言った。

 いやな話題になってしまった。

 私は平静を装いつつ、警戒を始める。

澪「急にそんなこと言われても……別にいいんじゃ」

律「そうか? 私やだけどなぁ」

梓「私も……考えたくないですね」

紬「どうして、二人とも?」

律「いやだって、なぁ。流石に女にこう、抱かれるっていうのは……」

澪「……今は、身近に同性愛者がいたらって話をしてるんじゃないのか?」

律「そうだけどさぁ。それに、そんなことしてる奴がいるって想像すると気持ち悪いわ」

澪「そこまでか? 私は別に好きにしていいと思うけど」

紬「りっちゃんが想像しなければいいんじゃない?」

律「そういう関係だって分からなければいいんだよ」

梓「ですよね。あからさまにされるのは普通の人からして迷惑だと思います」

澪「それは分からなくもないけど……」

律「おとなしくしてたら別に構わないんだ。それこそ好きにしてもらってさ」

紬「……そうかもしれないわね」

 みんなため息をついて、深く椅子に掛けた。

 議論になりそうなのを察知して、もう話は終わるかに思われた。

律「……そういやさぁ」

 歯切れ悪く、りっちゃんは話を引きのばす。

律「唯と憂ちゃんって仲良いけどさ。どうなの?」

 話題が自分に向く可能性はいくらか考慮していた。

 冷静に、ただ焦ったふうな演技をする。

唯「……ど、どうなのって!?」

律「だから、つまりさ……今の話の流れで分かるだろ?」

紬「りっちゃん、そうじゃなくて。なんでそんなこと訊くのよ」

 険悪な雰囲気がさらに広がる。

律「そりゃだって、ずっとなんか怪しいと思っててさ。ハッキリしたいっていうか」

紬「さっきと言ってることが違わない?」

唯「いいよいいよムギちゃん。だいじょぶだって」

 私のせいで喧嘩になったら悪い。

 ただでさえ未だ軽音部になじめていないのに、これ以上距離はとられたくない。

澪「座ろうよ、ムギ」

紬「……ごめんね、澪ちゃん」

 澪ちゃんも梓ちゃんも、りっちゃんを咎めはしなかった。

 私と憂はもしかしたら、とっくにムギちゃん以外のみんなから疑われていたのかもしれない。

 その疑いは、ここできっちり晴らさないといけない。

紬「けど、りっちゃん……」

律「いや別に、唯がほら……同性愛者だからって、唯に関してはどうこう言うつもりはないよ」

 ムギちゃんはまだ、りっちゃんを嫌悪を含んだ目つきで見つめている。

律「ただもやもやするから、唯の口から教えてほしいんだよ。唯がそうなのかどうか」

 あまりに信用できない言葉だ。

 どうこう言うつもりがないなら、最初からはっきりさせる必要なんてない。

 言いたいことがあるからもやもやするのだ。

 りっちゃんは分かっていないのかもしれないけれど、とにかく馬鹿正直に答えてはいけない。

唯「ひどいなぁりっちゃん。私だって女の子なんだよ?」

律「……だよな」

唯「そういうのはないっていうか、流石にごめんだよ」

 心の中で、憂に謝る。

 けれどこれは、蔑視を逃れるためには仕方のないことだ。

律「わるいな、疑っちゃって」

唯「もう。ケーキひと口没収だ!」

律「しょうがないな……ほれ」

 差し出されたショートケーキにはまだイチゴが生き残っていた。

 ひどいことを言われた仕返しに、赤い大きなイチゴを奪い取る。

 口に運ぶと、それは見た目よりずっと酸っぱくておいしくなかった。

律「……い、ちご……?」

 りっちゃんが上下に細かく震えだす。

 イカン、やりすぎた。

律「……ゆいー貴様ぁーっ!!」

 結局、その日の練習が始まるのはいつもより1時間遅れて、

 どうもやけに機嫌の悪い梓ちゃんが、たいそう憤慨していた。

――――

 これまでとは違う日常的な夜を過ごし、

 翌朝、また二人で学校に行く。

 今年も早速猛暑が始まっていると言うが、私はまだ制服の冬服を着たいくらいだ。

 夜も裸では過ごせない。

 一人はこんなに寒いんだ、といやでも思わされる。

 授業中にも、憂のことばかり想う。

 このまま憂と仲直りできなかったら、私が今やっていることに何か意味はあるんだろうか。

 そう思うと、授業の内容が右から左へ抜けていくようだった。

 気付くと昼休みになっていた。

 窓の外は暗くなって、今にも雨が降りそうだった。

唯「……傘持ってきてないや」

 昨日から天気予報も気にしていない。

 憂は傘を持ってきていたっけ。

 確か、手ぶらで登校していたように思う。

 昔はこんな時、どうしていただろう。

 二人で雨にぬれて、抱き合って暖めあいながら帰った記憶がある。

 子供のころだったか、付き合いだしてからかは分からないけれど、

 どちらにしろ、今はそんなことはできないだろうなぁと思う。

 そして、ついに雨が降り始めた。

 窓の中から空を見上げる。

 灰色の空は徐々に重たくなる水を落としてきていた。

 あっという間に雨は本降りになる。

 この分では、放課後まで待っても止みそうにない。


 昼食の後、午後の授業を受ける。

 授業に集中できないのは変わらなかった。

 雨は先生の声にかかるほど激しくなって、窓際にいる私はまるで雨に包まれているようだった。


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