今日もホームルームが始まったあと、軽音部が駆けこんでくる。
山中先生の注意がそこそこで済むのは、軽音部の顧問も兼任しているからだろう。
りっちゃんによれば、「暇そうなさわちゃんを拉致って買収した」らしい。
買収と言っても具体的にどう、とは教えてくれなかったが。
軽音部に入れば、そのあたりのところも分かるのかもしれない。
軽い注意を受け終えて席に着くと、りっちゃんが私のほうを振り向いた。
唯「にぃ」
りっちゃんにしても気がかりなようだし、私も早く伝えたかったから、
歯を出して笑い、Vサインを作る。
りっちゃんが軽く頷いた。
休み時間になったら、詳しい話をしよう。
今は、始まる授業に意識を向けてみることにした。
――――
律「……おつかれさん」
りっちゃんが50分戦い抜いた私の肩に手を置いた。
澪「唯が真面目に授業受けてたから驚いたよ」
唯「まぁ、たまにはね……」
机につっぷしたまま呻く。
見かねたムギちゃんが後ろから抱き起こしてくれる。
澪「いいよムギ、寝かせておこう」
唯「いや大丈夫……大事なお話だしさ」
りっちゃん達の顔を見回す。
唯「昨日はあんな風になっちゃったけど、憂は納得してくれたよ」
澪「それじゃあ、入部できるの?」
唯「うん。そっちがよければだけど」
紬「大丈夫よね、りっちゃん?」
律「おう。それで、パートについてなんだけど……唯にはヴォーカルをやってもらおうと思う」
唯「ヴォーカルって!」
和「ちょっと律、本気?」
言い渡された責任重大な役柄に、和ちゃんまでもが驚いた。
律「だってよ、学祭まで7ヵ月しかないんだぞ?」
わかってないなぁ、と肩をすくめるりっちゃん。
律「受験勉強しながらじゃ、披露できるぐらいの演奏の腕にはならないだろ」
唯「じゅけ?」
律「うん、受験」
さらりと言われる。
りっちゃんの口から受験なんて言葉が、こうも淀みなく出てくるなんて。
紬「私たち、大学でも放課後ティータイムを続けるつもりだから」
放課後ティータイムというのは、りっちゃん達が組んでいるバンド名だ。
それは知っているが。
唯「だいがく……」
澪「うん、大学。そうそう、唯にはヴォーカルと並行して、ギターの練習もしてもらうからな」
律「大学生になったらすぐギター持ってステージに立てるようにな」
それは目に見えないながら、大量の課題のプリントを目の前に置かれたようだった。
律「……怖気づいたかぁ、唯?」
唯「……そんなこたぁないよっ!」
渡された課題は確かに重い。
まず、大学に行くこと。そしてギターとヴォーカルの練習。
憂も可愛がってあげたいし、可愛がらなければいけない。
けれど、ここですぐ無理だと音を上げていては、私は一生変われない。
だめ人間のままじゃいけないんだ。
憂に辛い思いをさせてまで変わろうと決心したのに、
私が頑張ろうとしないでどうするんだ。
唯「ギターの練習ってことは……ギター買わなきゃいけない?」
律「備品がないわけじゃないけど、卒業したら使えないわけだから自分用を買った方がいいわな」
唯「ふむ……いくらぐらいするの?」
澪「後輩の梓のが、確か6、7万したとかだったか?」
紬「そのくらいって言ってたわね」
唯「そんなに高いの?」
澪「安いのもあるよ。1万くらいの。でもそこまで安いのでもよくないんだ」
律「まぁ5万くらいが相場かなー?」
唯「5万円……」
私が口座からひと月に引き出していい額の10倍だ。
もっともお小遣いを使う機会は少ないから、いくらか貯金はあるけれど。
唯「……お母さんに言うしかないか」
律「唯はバイトしてないしなー」
唯「ニートを後悔する日が来るとは……」
今日はちょうど両親も帰ってくる。
久々に顔を合わせるのだから、小遣いを数ヶ月前借りするぐらいはたやすいだろう。
そこで休み時間終了を告げるチャイムが鳴った。
律「んじゃ、また次の休み時間な」
唯「あ、うん」
そういえば、まだ憂のことを切り出していない。
それを知ってか知らずか、りっちゃんはそう言って席に戻っていった。
次の時間は数学だった。
これまでの内容はちっとも理解していなかったけれど、
教科書にかじりついて先生の説明に耳を傾けていれば、問題を解くことはできた。
問題が複雑になるとついていけなかったけれど、
今までに比べたら絶大な進歩だ。
そして休み時間になり、再び私の席の周りに軽音部が集まってきた。
唯「それでさ、妹の……憂のことなんだけど」
紬「やっぱり何かあったの?」
唯「……うん、まぁそれなりに」
昨日の憂の錯乱ぶりを思えば、こう言われてしまうのも仕方ないだろう。
唯「軽音部には入らないんだけど、憂は見学がしたいんだって」
澪「へ? 入らないのに?」
唯「そう。ちょっと変だけど、憂も一緒にいさせてもらっていいかな?」
紬「問題ないわよね、りっちゃん」
律「んまぁ、別に邪魔になるってことはないだろうし」
唯「じゃあオッケー?」
律「好きにしていいぞ」
難航するかも、と少し思っていたが、みんなは憂に対して何も感じていなかったらしい。
あるいは関係を疑われることが一番恐ろしかったけれど、
やっぱり普通はそこまで考えないらしい。
私たちはあくまで絆の深い姉妹と考えられているようだった。
唯「……えへへっ。ありがとね、みんな」
律「なーに言ってるんだか」
唯「うへぇ、りっちゃんが照れてる」
律「なんだよその酸っぱいものを見る目は」
なんとか力尽きずに授業をこなし、放課後になる。
週末までにお金を工面し、日曜に楽器をみんなで選ぶことになった。
お金はおそらく問題ない。
来週までは部員集めに奔走するらしく、活動はまだ行わないらしい。
することのない私に、りっちゃんはひとまず楽譜とカセットテープを渡して、
律「なんとなくでいいから、覚えといて」
と自習課題を出した。
それをカバンに詰めてから、ようやく憂を迎えに行く。
教室に行き、飛びついて来た憂を抱っこして、憂の見学が認められたことを伝える。
あやうくキスされそうになったが、ほっぺたを差し出してごまかした。
純ちゃんがへらへら笑っている。
この教室では、意外とこのぐらいまでやっても問題ないのかもしれない。
くちびるにキスしたらどうなるかな、と試したくなったけれど、
もちろん実行はしない。
憂を降ろし、手を繋いで家へ帰る。
校門を出たあたりから、憂の顔が少し緊張し始めた。
私も気を引き締める。
昼に帰る、と言っていたから恐らくもう家には両親がいるはずだ。
私たちが姉妹の関係を外れたことをもっとも悟りやすく、
もっとも悟られてはいけない相手。
初めて一線を越えた日にも、まず最初に内緒にしなければいけない相手は両親だった。
両親は、私たちが一緒に生きる上では最大の敵になる存在なのだ。
まず間違いなく、私たちを引き離そうとするだろう。
それが私たちを思ってのことだというのは理解できる。
だけど、たとえどんな安寧の暮らしがあっても、
憂が隣にいなければそれは私にとって価値のある人生ではない。
当然、いつかは両親に私たちのことを話さなければならないだろう。
けどそれは、私たちが自立して、私たちだけで暮らせるようになってからのこと。
今はまだ、引き離されてはいけない。
お母さんたちに気付かれてはいけない。
なるべく顔が強張らないよう繕いながら、少しゆっくりとした歩みで家へと帰る。
証拠は昨日のうちに隠滅してある。
大丈夫、大丈夫と言い聞かせ、また手汗をかきながら歩いていた。
白い我が家が見える。
憂がぎゅっと手を握った。
唯「気を引き締めていこう、憂」
憂「ん。油断しちゃだめだね」
顔を見合わせ頷いてから、玄関のドアノブに手をかけた。
唯憂「ただいまーっ!」
――――
積もる話をでっち上げつつ、4人で夕食をとる。
唯「今度はいつまでいられるの?」
父「一晩寝たら帰るつもりだよ。今回も無理やり詰めて戻って来ただけだし」
唯「そっか……」
落ち込んだ風な顔をする。
最初のころは、お父さんやお母さんに会えなくなるのは確かに辛かった。
お母さんたちだって家族なのはもちろんで、会えなければ寂しいのは当然だ。
今だってその気持ちが完全にないわけではないけれど、
お母さんたちが一晩しかいられないと聞いて悲しい顔になるには多少の演技が必要だった。
母「代わりに今夜はお母さんが添い寝してあげよっか?」
唯「そこまで子供じゃないよぉ」
母「憂は?」
憂「いや、いいってば」
憂は苦笑しながらも、断るというよりは拒絶するような調子だった。
甘えんぼうのくせに、私以外が隣で寝るのは嫌らしい。
父「しょうがないなぁ、じゃあ父さんが一緒に寝てあげるとしよう」
唯「なおさらだめだってば!」
憂「やめてよ、お父さん!」
父「ふ……いつからだったかなぁ、一緒に寝るのをいやがるようになったのは」
しばらく会わなかったから忘れていたけれど、うちの父さんはちょっとバカだ。
父「あー、初めてお前たちにお風呂を断られた日のトラウマが蘇ってきた……」
頭を抱えてお父さんはテーブルに突っ伏した。
唯「年頃の娘の前でそういう話ってする?」
父「年頃……ふふ、唯ももうそんな年か」
ふてくされた顔を上げ、眼鏡を外して畳む。
父「唯が8つのときさ、もう一緒には入らないって言い出して……そしたら憂まで」
憂「だってお姉ちゃんがいないんじゃ、ねぇ?」
母「憂はいつもお姉ちゃん、お姉ちゃんね。子供の時から」
憂「いけない?」
憂がむくれる。
ちょっとでも怪しい言動はやめてほしいのだけど、この状況にあっては言い咎めることも出来ない。
気の抜けたような顔を作り、憂を見つめる。
母「そんなことないわよ。見えないところにいる以上、べたべたしてくれてたほうが安心だし」
唯「ん……」
皮肉な言葉だった。
母「仲悪くされるよりはよっぽどね。ひとりじゃ心配だけど、唯と憂ふたりなら平気だって思うし」
唯「……えへへ、そうかな」
父「さてと、じゃあ父さんは一人さびしくお風呂入ってくるよ」
おもむろに立ち上がり、お父さんがリビングを出る。
憂「お母さん、お父さんがすねちゃってるよ」
母「一緒にお風呂入るほど新婚気分じゃないのよ」
唯「どの口がそんなこと言うのさ……」
お父さんとお母さんは今年で結婚20年目だ。
お父さんは43、お母さんが42歳。
それにも関わらず、よその夫婦に比べてずっと仲良くしているように見える。
キスをしているところも、両親が帰ってくるたび目撃している。
私たちもこんな風におおっぴらになれればいいのに、と思う。
憂「私もそろそろ部屋戻ろうかな」
テーブルに手をついて、憂も立ち上がった。
リビングには私とお母さん二人きりになる。
憂も刺激しないで済むし、言い出すなら今がいいだろう。
普段だったら捏造しなければ話せない私たちの近況を、
久しぶりに包み隠すことなく伝えることができる。
唯「ねぇお母さん」
母「なにかしら?」
唯「私ね……あの、ギター始めたいんだ」
母「……ギター?」
お母さんの眉がぴくりと動いた。
唯「ギターと! 大学も目指すっ」
慌てて付け加える。
お母さんたちだって、私の将来がいい加減心配だった所だろう。
別に大学が将来をひとまず先送りにしてくれるものだとは言わないが、
高校を卒業して何もしないよりはずっとお母さんを安心させられると思う。
母「大学って、どこの大学?」
唯「それはまだ決めてはいないんだけど、和ちゃんぐらいのとこにはって……」
母「へぇー、そう……」
お母さんはにたにた笑った。
和ちゃんぐらいのとことは言いすぎたかもしれないが、撤回するのも心証が悪い。
母「まぁ頑張りなさい。応援するわ」
唯「うんっ、ありがとう! それで……ギターのことなんだけどね」
母「あぁ、お小遣い? いいわよ、多めに下ろして」
予想していたよりはずっとあっさり、お母さんは承諾してくれた。
唯「いいの?」
母「唯が決めたことだからね。お母さんたちだって我を通させてもらってるし」
そのおかげで私たちは助かってるけど、と皮肉を言いたくなる。
母「でも、やっぱり親子ね。やると決めたら無鉄砲なあたり」
唯「無鉄砲っていうか……いや、そうかもしれないけど」
私なりに将来を考えて決めたのに、心外な言葉だった。
強く文句を言うつもりはなかったけれど、少しむくれてしまう。
母「そんなに嫌な顔しないでよ。いいのよ、人生ってがむしゃらにやればなんとかなるから」
唯「ん……そんなもんかな」
お母さんたちはそうだったんだろうけれど、私の人生はそうもいかない。
妹を愛して生きていくのだから。
真っ黒な煙に包まれるような不安を感じる。
けれど、それをお母さんに訴えるわけにはいかない。
私と憂だけで抱えなければいけない問題なのだ。
唯「とにかく、ありがとう」
私も椅子から立ち上がって、部屋へ戻ることにした。
軽音部の作った歌を覚えないといけない。
最終更新:2011年02月25日 20:57