唯が突然、お金が無いと言い出した。

ギターメンテナンスに料金が発生すると言うことを唯は知らなかったのだ。

もともとそのギターも同じ店で、紬が10万以上の値引きを店員に強制させ、唯の手に入ったものなのだが。

困り果てる唯を見た紬は、軽音部のメンバーに気付かれないように、店員を睨みつけた。

店員は直立不動になってしまい、即座に料金をサービスということにした。

一瞬の出来事だったので紬は誰にも見られていないと思ったが、実は横で一部始終を梓が見ていた。

梓は普段のムギ先輩とのギャップに心底、驚き、恐がり青くなった。

紬は軽音部のメンバーとはどこまでも対等だったが、父親の経営する会社の社員は、自分の命令に従わなければならないと考えていた。

もし、そう考えていないで、店員を睨みつけたのだとしたら、手に負えない金持ちのわがまま娘ということになってしまうだろう。

実際、紬は大学を卒業すれば、父の会社に入り、経営を勉強するつもりでいた。

普通の会社に就職する気にもなれないし、紬は世の中の現実のシビアさを知っているくせに、アンバランスに世間知らずでもあった。

律や澪と初めてファーストフードに行った。

一緒にアルバイトも体験した。

自分の家の別荘での合宿だったが、初めて友達との宿泊を伴うイベントを経験した。

クリスマス会、年明けパーティ、勉強会・・・。

軽音部のメンバーと体験した紬にとっての初めてのことは数え切れないほどだった。

しかし、世間の女の子にとって当たり前のことが、紬にとっては新鮮だと言うことは、それだけ紬が世間離れした環境で育ってきたと言うことだ。

今更、身についてしまった感覚の違いは埋めようもなかった。

だから紬は、一歩離れて、軽音部のメンバーがはしゃいでいるのを見るのが、自分にはあっていると思っていた。

そう、一般とは違う価値観を持っている紬。

それはヒエラルキー、階級社会の上流としての常識であった。

紬は、自分の社会人との人生を、いきなりある程度の会社の経営なり、プロジェクトのリーダーなり、そういう立場でスタートしたいと思っていた。

紬は澪に一番好意を持っていた。

頑張ってリーダーシップをとっている澪。

その姿はけなげだった。

対等な関係の中でリーダーシップをとっていかなければならないのは大変だろう。

紬は、上から指示を与えるということになれていた。

相手は黙ってそれに従う。

しかし、軽音部ではそうではない。

律と唯はいわば野生の獣だ。

生半可なことでは従わない。

実際、澪が怒鳴ってもなだめすかしても、遊びまくっていた。

律などはそれを根にもって澪に仕返しする始末。

(澪ちゃんは本当に大変だなぁ)

そういう紬の心境をある程度察しているのか、澪は紬を頼りにしているところがった。

律や唯にいじめられて放心している澪を慰めるのは紬の役目だ。

律と澪がケンカしてるのをなだめるのも澪の役目だ。

りっちゃんと唯ちゃんは、すごすぎる・・・。

紬は、澪のような有能な女性と一緒に経営が出来たらなぁと思う反面、律と唯の野生にも強く惹かれた。

結果、軽音部にいる間は、澪に悪いなぁと思いつつも、律と唯に感化され、しだいに悪ふざけをするようになっていった。

それが紬には楽しくてしょうがない。

紬が出来なかった、小学校、中学校で普通の子供がしてきたこと、

紬のとっての置き忘れてきた刻をひとつひとつ取り戻していくことであった。

買い食いも、友人と喫茶店でおしゃべりすることも、何もかもが新鮮だった。

刻には唯や律と一緒に澪を困らせてしまうほど悪のりをしてしまう。

しかし、たまに悪のりしても、澪は紬には説教はしなかった。

(やっぱりちょっと遠慮してるのかな?)

紬は思った。

律は紬の頭を平気ではたくし、唯は紬のことをしげしげと観察してはたまに抱きついてくる。

一番、共感できるはずの澪とは体重の話くらいしか話題がなかった。

紬は両親との海外旅行よりも、メンバーと一緒に過ごす時間の方が楽しく、大切になっていった。

海外旅行もあきあきしていたところがあったのだが。

澪などは、

澪「いいのか?ムギ?どう考えても旅行に行った方が・・・」

と心配さえしたが、海外旅行に飽きた等とは、心配してくれる澪には悪くて言えなかった。

律は唯はそんな事情はどうでもよいらしく、紬がそこに居て当然という風だった。

それがまた紬には嬉しい。

紬は徐々に変わっていった。

自分でも気付かないうちに徐々に。

友達の大切さ、友達と過ごす時間の豊かさ、それを学んでいったのだ。

しかし、紬にはタイムリミットがあった。

それは自分で決めていたことでもあるのだが、もともと自分が住んでいた環境に帰るときが来るのだ。

紬はやはり琴吹家の人間であり、社会に出れば、大企業の令嬢である。

世間は高校の大切な友人達のように、一人の当たり前の女性としては見てくれない。

彼女の家が持つ財力、経済力が生み出す身分、どうしてもそれがつきまとうだろう。

そして、それはやはり紬の持って生まれた運命だった。

これまではそれに対して何の疑問も持たなかった。

進学し、大学を出れば父親の会社に入り、経営の道を歩むつもりだった。

しかし、軽音部で過ごした三年間は、紬の中で予想以上に大きくなっていた。

(私は本当は何がしたいの?)

紬の心にうっすらと疑問が生じ始めていた。


ついに桜ヶ丘高校を卒業する日がやってきた。

紬は全国有数のお嬢様大学に合格していた。

その大学は商学部、経済学部に良い教授もいたし、自分が住む世界へ戻るという意味合いもあった。

浮世離れしたお嬢様達が多いだろうとは想像していたが、変に気を遣わなくてもいいだろうと思っていた。

しかし、それは見通しが甘かったのだが。

卒業する前に、思い出作りのつもりで「放課後ティータイム」で、ライブハウスや桜ヶ丘野外音楽堂でのライブをした。

紬は正直、そこから先、軽音部のメンバーとバンドをするかどうかは決めかねていたが、二つのライブはともに素晴らしい経験だった。

この一体感。

この感動。

多くの観衆が私たちの演奏に感動し、喜んでくれる。

こんな経験はそうそう出来るものではない。

お金では買えないもの。

この友人達との友情、そして積み上げてきた三年間。

この宝物があれば、私はこれからも頑張っていける・・・。

しかし、紬の心は見えないところで揺らいでいた。


最近、澪の様子がおかしい。

紬は、ライブハウスでの演奏の前後からそう感じていた。

感情の起伏が激しいような気がする。

唯へのコンプレックスか・・・。

紬は学校の成績は澪とほとんど変わらなかった。

ともに、学年で常に10位以内には入っていた。

唯は、一年生のときは全学年、240人中、238番とか平気で取っていた。

そりゃ、クラスでただ一人の補習とかならそのくらいだろう。

唯が澪と紬を抜いて、学年5位に入ったときは、紬もおどろいたものだ。

しかし、いくらヤマをはったとはいえ、まぐれで、澪や紬は抜けないだろう。

それまでの基礎学力というものもある。

誰でも出来ることではない。

(でも、唯ちゃんなら・・・。)

全く理解できないと言うこともない。

いや、そもそも理解しようというのが間違いなのだ。

紬はクールに思った。

しかし、澪はそうはいかないらしい。

唯が赤点をとる度に勉強を教え、唯が一人で勉強すると宣言すれば、

「お!えらいぞ!」

と子供を褒めるような態度をとっていた。

澪は唯にいろいろ思うところがあるのだろう。

澪の様子がおかしいのは、唯のギターが進化し初めてからだった。

(澪ちゃん、自分と比べちゃうからなー。)

バンドの練習をしているときに、ベースを演奏する澪の横顔を見ながら紬は思う。

その間も、紬の綺麗な指先はよどむことなく、キーボードの上を滑っていく。

(もうちょっと楽になれないのかな?)

しかし、よりにもよって唯と自分を比べなくてもいいだろうに。

そう、よりにもよって、澪は唯をライバル視しているらしい。

紬は、いつものように微笑ましく見守ることが出来ない。

(唯ちゃんとなんか、自分を比べたら、私だっておかしくなっちゃうよ。)

紬は以前から危惧していたことだった。

澪ちゃんは唯ちゃんのこと、悪い言い方をすれば舐めすぎてた。

りっちゃんとの関係は幼なじみだし、あれでいいと思うけど・・・。

唯ちゃんを見損なってるとその内、困ったことになるんじゃないかしら・・・。

紬は唯と澪の関係を心配していた。

しかし、そこに割ってはいることはしなかったし、出来なかった。

紬は、軽音部ではもう長い間、人間関係の傍観者だったからだ。

例えば、唯は何かと澪の手を握る。

紬は微笑ましくも、その光景に萌えるものがあった。

唯は男性的、澪は女性的であり、二人の関係は何か、危うさを感じさせ、紬を陶然とさせるのだ。

唯が王子様で澪がお姫様。

(なんだか素敵)

そう、澪のことは、これまで通り困った笑顔で見守るしかないのだ。

紬は傍観者、いや、事態の成り行きの観客でもありたかった。

もちろん、人間関係自体が崩壊しそうになれば、紬もなんらかの手を打たねばとは思っていたが。

(私が絡んじゃうと、我慢できなくなってきつく言っちゃうかも知れない。)

紬は軽音部の人間関係は自分が一番良く見えていると確信していたし、自分の出来る範囲で、みんなのバランスをとろうとしていた。

しかし、それは澪のサポートをするという形が一番良く、紬は出しゃばることを望んでいなかった。

(私がリーダーだったら、りっちゃんや唯ちゃんには我慢できなくて怒っちゃうだろうな。)

そんなわけで紬は控えめでいたかったし、それでも、澪はバンドの運営という意味では紬を一番頼りにしていた。

また、作詞作曲は紬と澪のチームで行っていたのだし。

しかし、時には律や唯と一緒にハメを外してしまう紬。

律や唯と一緒に、澪に説教されてみたかったが、澪が紬に説教することはなかった。

澪には、やはり紬を頼りにしているという思いと、少しの遠慮と、更に少しの恐怖があった。

澪はうっすらと紬の本性を感じているらしかった。

紬には後悔していることがあった。

それは澪との電話中に、執事の斉藤をしかり飛ばしたことだ。

澪に聞かれてしまった。

案の定、次の日から、澪の紬に対する遠慮ははっきりと感じられるようになった。

澪も普通の女の子なのだ。

初老の男性を叱り飛ばす同級生など、怖いに決まっている。

澪は、その話題を紬に振ることはなかった。

律や唯なら、真っ正面から尋ねてきただろう。

律「むぎ、お前、家では執事さんを叱り飛ばしてんのか?」

唯「ムギちゃん、ムギちゃんって、執事さんを怒鳴ったりするの?」

ムギもこの二人には自分を出せるような気がする。

だからこそ、一緒にはしゃぐことも出来るのだ。

しかし、澪には見せられない。

澪は本当の紬を知れば、確実に悩むだろう。
バンドでの人間関係に。

(本当に澪ちゃんはなんでも背負いたがる。)

紬も澪には少し遠慮しているた。

紬は澪に友情を感じていたし、澪もそうだ。

しかし、この二人が本音で話すことは非常に難しかった。

澪の動揺は傍目で見てもよく分かった。

律もああ見えて、澪のことをいつも気にかけているのだが、今回のように微妙で繊細な心の問題は、律には見えないようであった。

律は「元気」か「元気でないか」、おおざっぱに思っている。

澪が、「あ、大丈夫だよ」と言えば、律はそれ以上は問わない。

澪にとってはそれが楽でもあった。

もし、本当に私が大変な目にあったら律は心配してくれるという確信が澪にはあったし、良い関係と言える。

しかし、紬にはそうはいかない。

なんとかしてあげたい・・・でもどうにも出来ない。

下手に声をかけると、それはより澪を傷つけてしまうだろう。

唯はメンバーそれぞれの心の葛藤には全く気付いていなかった。

紬は思った。

(唯ちゃんってモンスターだわ。プリティ・モンスター)

唯のギター、ギブソン・レスポール。スタンダードは、紬の父親が経営する楽器店で、大幅に負けさせたものだ。

ギターメンテナンスも唯にはタダでさせたこともある。

唯は、紬に満足にお礼も言っていない。

しかし、紬は不快には思わなかった。

唯は、ギターのことしか見えていなかった。

紬のことも、値段のことも頭になく、

「このギターが欲しい」という純粋な気持ち以外は持っていなかった。

その気持ちが紬を動かした。

25万円(注)のギターを5万円に値引きさせるという暴挙に出たのも、唯の純粋な気持ちが伝わったからだ。

このギターは唯ちゃんが持たなければならない。これは運命の出会いに違いないわ。

それは唯と澪の関係を陶酔しながら見ている紬と、同じところから来る感情かも知れなかった。

唯は感謝を知らないわけではない。

ただ、目の前のものに夢中になってしまっているだけなのだ。

しかし、心に余裕のあるものでなければ、唯のことは理解できないであろうとも思った。


(注)原作では15万円。しかし、ギブソン・レスポール・スタンダードの市価からすると
25万円というアニメの設定の方が妥当。原作者かきふらい氏も流石に高校一年の初心者の女の子には高額すぎると思ったのかも知れない。


そんなこんなで紬は、澪と唯の関係に・・・、いや、澪の唯に対する感情に気を揉んでいた。

唯は徹頭徹尾、変わっていない。

澪と唯の人間関係は澪の唯に対する感情だけが問題だった。

唯のギターが劇的に変わった日、紬は思わず

紬「私たちの演奏じゃない見ない!」

と、感想を漏らした。

ついに唯ちゃんの才能が開花したんだわ。

紬はかすかにこういう日がくることを予感してた。

唯の独創性が何か、新しいものを生み出すのを。

唯が練習で上手くなるというような話ではなく、新しいものを創造する、クリエイトする日が来るのを。


しかし、その感動とともに、もう一つの心配が紬の胸にわだかまる。

演奏が終わると同時に紬は澪の方を見た。

澪は呆然としているようだった。

紬の心配していたことはほとんど当たっていた。


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