…………

「……いい香り。ひさしぶりだな、この家のお風呂入るの」

唇のすぐ下までたっぷりと湯に浸かって呟く。
吐いた息で、お湯の表面が小さな波を立てる。

最後に平沢家のお風呂に入ったのはいつだっただろう。
小学生の時?中学時代に入ったことがあったかしら。
あの子たちと一緒にいた時間が長過ぎて、よく思い出せない。

「憂の、人生……か」

唯の言葉を反芻してみる。

憂が唯と同じ大学に入ってから、姉妹は都内のマンションで再び一緒に暮らし始めた。
唯なりに、自分でできることはするようにがんばっているようだけど、
場所が実家から賃貸マンションに移動しただけの、変わらないふたりの距離。

岐路に立ってなお、憂は姉の側にいることを選んだ。

私は進学で地元を離れ、母校の教員としてこの街に戻ってきた。
日帰りでは逢えない遠距離恋愛の4年間と、一緒には暮らせない中距離恋愛の今。

唯との将来を、考えたことがないといえば嘘になる。
実際、こうして今、漠然とした不安を抱えた自分がいる。

「……不安、なのかな」

頭に浮かんだ単語を口に出してみる。言葉にしてみると、少し違う気がする。

別に、憂に嫉妬しているわけじゃない。
憂との関係は極めて良好だし、以前よりも私を姉のように慕ってくれる。

控えめに桜の香りがする薄紅色のお湯を、右手で掬いあげる。
指の間からこぼれた雫が、ぱたぱたと水面ではねた。

「……ああ、そっか、」

唐突に、私は答えに辿り着く。
憂もきっと、私と同じ「こちら側」を選んだのだ。
私とはそのやり方が違うだけで。

気持ちが軽くなったら、無意識に歌のフレーズがこぼれた。
まだ少し、酔いが残っているのかもしれない。

「和ちゃん、さっきお風呂で懐かしいの唄ってたね」

部屋の灯りを点けた唯が振り返って笑う。

「聴いてたの?」

「トイレ行こうとしたら、聞こえたんだよ」

唯は私が抱えていた枕代わりのクッションをひょいと奪うと、
自分の枕の隣にそれを並べた。

♪お気に入りのうさちゃん抱いて 今夜もおやすみ……

私のつたない鼻歌と同じフレーズを楽しげに唄いながらベッドに腰掛け、
私を見上げてポンポンと布団を叩く。

「おいで子猫ちゃん。あれ、この場合うさちゃん?」

「ふざけてないで早く寝なさい。電気消すわよ」

眼鏡とアラーム代わりの携帯電話を唯の勉強机に置き、灯りを落とす。
儚い月明かりが射し込む部屋の中、唯の楽しげなハミングが響いた。


…………

日々は巡り、また校庭が桜色に染まる季節が訪れた。


今日最後の授業を終えて職員室に戻る途中、
入学したばかりの1年生2人に呼び止められた。

「あの、真鍋先生」

「はい、なあに?」

「先生ってHTTのメンバーと同級生ってほんとですか?」

ええそうよ、と答えると、生徒たちはきゃあと歓声を上げた。

「私、澪さんの大ファンなんです。それで軽音部に入ろうと思って桜高にしたんです」

「そうなの。がんばってね」

失礼しますと駆け出した2人に、走っちゃ駄目よと注意する。

職員室に戻ろうと振り返ると、丁度階段を降りてきた山中先生と目が合った。

「あら、真鍋先生」

「おつかれさまです、山中先生」

「おつかれさま。今日もいい天気ね」

「そうですね」

彼女とふたり、肩を並べて歩く。
もうずいぶん馴れたけれど、まだ少し不思議な感じ。

「今、軽音部に入るって1年の子から声を掛けられましたよ」

「へえ」

「澪のファンですって」

「そう。今年も盛況かしらね、軽音部」

「そうですね」


HTTがデビューして数年。時折ヒットチャートの上位に顔を出すようになってから、
軽音部はずいぶんとにぎやかになった。
音楽準備室だけではスペースが足りず、現在は音楽教室も練習用に開放されている。

「今年も充実したティータイムを過ごせそうねぇ」

「……山中先生、もう顧問ではないじゃないですか」

うっとりと頬に手を添えた彼女に、事実をひねることなく伝える。

私が桜ヶ丘高校の教員になってから、
彼女が吹奏楽部と兼任していた軽音部の顧問を私が引き継いだ。

それでも彼女は相変わらず、部の伝統となったティータイムに顔を出す。
……楽器が弾けない私に代わって時々生徒を指導してくれるのは助かるけれど。

「野暮なこと言わないで頂戴、あれが学校での唯一の楽しみなんだから」

「それもどうかと思いますけど」

「もう、和ちゃんのいじわる」

そう言って、さわ子さんは子供のように頬を膨らませる。
同じ教員という立場になって、職務以外ではお互いを名前で呼び合うようになった。

「しっかし、出世したわねえあの子たち」

「そうですね」

「もう私と会っても、仲良くしてくれないかしら」

「そんなことないですよ」

「唯ちゃんとはうまくやれてる?」

世間話の延長といった軽いノリでさらりと聞かれた。

「ええ、相変わらずです」

さわ子さんは、そう、と相槌を打って、ふと足を止めた。
彼女の視線を追うと、窓の外は青空を背景に校庭へ降り注ぐ桜吹雪。

「綺麗ねえ」

「……そうですね」

そう言ったきり、私たちはしばらく無言でその景色を見つめた。

運動部の掛け声や帰宅する生徒の笑い声に混じって、
かすかにギターの音が聞こえてくる。
あの曲は、たぶん2年生。まだ少しつたないメロディライン。

ふと、制服を着て楽しげにギターをかき鳴らす、かつての唯の姿を思い出す。

「……気が滅入っている時なんかにね、」

唐突に、さわ子さんが口を開いた。

「時々、自分はここに閉じ込められているんじゃないか、って気持ちになるの」

「……」

「おかしいわよね、自分で選んだ場所なのに」

私は何も答えず、さわ子さんの横顔を見る。
彼女は桜を見ているようで、どこかぼんやりとした視線を空に投げている。

「教え子が活躍してるの見てると、もちろん嬉しくて仕方ないんだけど」

「……はい、」

「どこかで、寂しくなっちゃうのよね」

「……」

「なんて、おかしな話しちゃったわね。忘れて」

さわ子さんは私に視線を戻して、少し困った顔で笑ってみせた。

「……護り人、なんですよ。私たち」

歩き出そうとした彼女の背中に向かってそう言うと、さわ子さんは立ち止まり、
半身だけ振り返って再び私を見る。

「まもりびと?」

「はい」

意味がわからないという顔で、さわ子さんは首をかしげる。

「唯に言われたことがあるんです。私がこの学校の先生になってくれて嬉しいって」

「……」

「ここにはいろんな宝物が詰まってるから、って」

「……あの子たちの歌に、確かそんな感じのフレーズがあったわね」

目を細めたさわ子さんに小さく頷いて、言葉を続ける。

「でも、ここは宝物を仕舞っておくだけの場所じゃなくて、」

「……」

「毎日、新しい宝物が生まれる場所でもあるんです」

私は、再び窓の外に視線を移した。さわ子さんもそれを追う。
真新しい制服を来た生徒たちが、桜吹雪に手を伸ばしながら歩いていく。

「……私たちは、あの子たちの宝物のまもりびと……ってことかしら」

「半分正解です」

さわ子さんの回答に、私は笑顔で応える。

「護り人は、宝物だけじゃなくて、」

そこで一旦、言葉を切る。
こちらを向いたさわ子さんと視線を合わせて、また言葉を繋ぐ。

「あの子たちの未来を見守ることも許された存在なんです」

……それがきっと、私の誇り。

「……数学教師の真鍋先生にしては、ずいぶんと歯が…こほん、詩的な表現ね」

「そうですか?」

「唯ちゃんたちに影響を受けてるのかしら」

「かもしれませんね」

さわ子さんは少し笑って、それから大きく伸びをした。

「あーあ、かつての教え子に、教えられちゃった」

「恐縮です」

「ねえ、和ちゃん、」

「はい?」

さわ子さんは私の名を呼び、いたずらっぽく小首を傾げてみせる。

「あの子にとっても、あなたはそんな存在?」


「……ずっとそうありたいと思っています」

真面目な顔でそう応えると、彼女は妬けるわねと呟いて、柔らかく微笑んだ。






おしまい



最終更新:2011年02月22日 22:57