ーーこの学校の先生になってくれて、私嬉しかったんだ。


雪景色の校庭で彼女はそう言って、無邪気な顔で笑った。


…………


「あ、おいし……」

お猪口の温燗をクイとあおって、ほう、と幸せそうに息を吐く。

「なかなかの飲みっぷりね」

そう言うと、憂は少し恥ずかしそうに微笑み指先で唇を拭った。

「お父さんがね、娘とお酒飲むの夢だったんだって」

「へえ、」

「でもお姉ちゃんがこんなだから、付き合うのはいつも私で」

「……なるほどね」

憂から視線を落とすと、そこには妹の膝枕で気持ち良さそうに眠る姉の姿。

「雪見酒だなんてはしゃいでたくせに、潔いくらいの下戸だものね」

「和ちゃん、お姉ちゃんが晩酌に付き合えないの、寂しい?」

「そうねぇ。でも憂とふたりでこうやってのんびり飲めるのも嬉しいわ」

「お姉ちゃんが聞いたら拗ねちゃうよ」

「いいのよ、拗ねさせておけば」

憂は姉を起こさないように、口元を両手で覆ってクスクスと笑う。

前日から降り続いた雪はあっという間に街を白く覆った。
カーテンを半間ほど開けた窓から、雪景色を淡く照らす朧月が見える。

「あ、和ちゃん、そろそろ作っちゃう?」

スープと少量の具が残った土鍋を指差し、憂が私に訊ねた。
憂を見て、壁の時計に視線を移す。22時を少し回ったところだった。

「そうね。ご飯は私が持ってくるから唯を起こしちゃいなさい」

「うん、冷やご飯が冷蔵庫に入ってるよ」

「わかった」

コタツから出てキッチンに向かう。灯りを落としたキッチンの冷えた空気に身震いする。
リビングから、お姉ちゃん起きて、と憂の声が聞こえた。

冷蔵庫からご飯の入った器と生卵を取り出し、ラップを外してリビングに戻る。

「唯、起きた?」

「ううん、ダメ」

姉の頭を膝に乗せたまま、私を見上げた憂が苦笑いをした。
卓上のカセットコンロは既に土鍋の底を炙り始めている。

「お姉ちゃん、雑炊作るから起きて」

「ん~」

「ねえ、」

「う~ん……」

「もう、お姉ちゃんってば」

憂が肩を揺すっても、唯は唸るばかりでなかなか起き上がらない。
子供みたいな姉と、母親みたいな妹。見慣れた光景につい笑ってしまう。
私の笑みに気付いた憂が、頬を膨らませた。

「もう、和ちゃんも笑ってないでお姉ちゃん起こしてよ」

「どうせ雑炊が出来る頃には勝手に起きるから、放っておきましょ」

「えー……。ちょっと、足痺れちゃってるんだけどな……」

そう呟きながら、憂は困った笑みを浮かべて姉の髪を優しく撫でた。


…………


「ふぁー、おなかいっぱい!ごちそうさまでした!」

ぱん、と音を立てて、唯が両手を合わせる。

「ごちそうさまでした。憂、ほんとに美味しかったわ」

「ふふ、お粗末さまでした」

3人分のお茶を注ぎながら、憂が微笑む。

「ねえ、和ちゃんもアイス食べるよね?」

一直線にキッチンへ向かった唯が、
ハーゲンダッツのミニカップを3つこちらに掲げてみせる。

「ええ、いただくわ」

少し首をのばしてキッチンを見やり、唯に答えた。
私の前に置かれた湯飲みから、ふんわりと暖かい湯気が立つ。

「ありがと」

「ほうじ茶とハーゲンダッツじゃ、ちょっと合わないかな?」

憂がいたずらっぽく笑う。

「ねえねえ、ストロベリーとグリーンティーとハニーミルク、どれがいい?」

「唯が先に決めていいわよ」

「おぅふ……そう言われると迷うなぁ」

「どうせ私と憂のぶんもひとくちずつ食べるんでしょ?」

「えへへ……よくお分かりで……」

唯は再びコタツに潜り込んで、自分の前にハニーミルクとスプーンをひとつ置く。
残りのふたつを差し出されて憂に視線を送ると、先に選んでいいよと目で応えてきた。
少し迷って、グリーンティーを受け取る。

「やっぱりそっちを選んだねぇ」

計算通り、と唯がちょっと悪そうな顔で笑って、ストロベリーを憂の前に置いた。

「お姉ちゃん、アイス食べたらお風呂入っちゃってね」

「私はあとからでもいいよー?」

「片付けがあるし、ちょっと酔いも醒ましたいから」

「そっか、わかった」

そう言い終わるか終わらないかのうちに、
唯はひと掬いしたハニーミルクをぱくりと口に入れた。


…………


「……憂は、ほんとうにそれでいいの?」

卓上の片付けを終えて台拭きを滑らせる憂に、私は尋ねる。

「うん、それがいいの」

憂は私の目を見てまっすぐに答える。私はそう、と小さく息を吐く。

もうじき大学を卒業する憂は、もう進路を決めておかないといけない時期だ。
就きたい職業のためではなく、姉を追って同じ大学に入った憂の将来を
私は少し気にかけていた。

「それにね、お姉ちゃんのお世話をするっていうよりも、」

「うん?」

「お姉ちゃんだけじゃなくて、みなさんの活動をサポートしたいって思ったの」

「そう」

「だって、私、HTTの音楽大好きなんだもん」

「……そうね」

姉が所属するバンド、HTTのマネージャーになる。それが彼女の選択だった。

元々、HTTがメジャーデビューして所属事務所のマネージャーが付いてからも
唯のスケジュール管理は自然と都内で一緒に暮らしている憂の役目になり、
その正確さと献身ぶりを事務所社長がいたく気に入って、話を持ちかけられたらしい。

「正社員になるのは卒業してからだけど、ちょっとずつ仕事を教えてもらってるの」

「そう。がんばってね」

「うん、ありがと」

煎れ直してくれたほうじ茶を、ひとくち啜る。
ほう、と溜め息を吐くと、おばあちゃんみたいだよと憂が言った。

「……私も憂も、唯からは離れられないってことか」

「それ、ちょっとノロケに聞こえるよ?和ちゃん」

「あらそうだった?そのつもりはなかったんだけど」

真面目に応えた私が可笑しかったようで、憂が声を出して笑う。

「なに~?ふたりで何の話してるの?なんか楽しそう」

肌を桜色に染めた唯が、タオルで髪を拭きながら戻ってきた。
湯冷めするからちゃんと乾かしなさいと言うと、
唯はハーイと間延びした返事をしながら再びコタツに潜り込む。
憂が馴れた調子でドライヤーを手渡し、じゃ、私入ってくるね、と脱衣所へ向かった。

「ねえ、何の話してたの?」

栗色の柔らかな髪をドライヤーの熱で踊らせながら、唯がもう一度聞く。

「唯の悪口言ってたのよ」

「えぇー……。和ちゃんの冗談は時々冗談に聞こえないよ」

顔をしかめる唯に少し笑って、憂から話を聞いたことを報告すると、
唯は、あー……と呟いて目を泳がせた。

「うん。なんか、そういうことになっちゃって」

「まあ憂が側にいてくれるなら、私も安心だけど」

「うーん、でもね、ホントにこれでいいのかな」

そう口にした唯に、どうして?と聞き返す。
ドライヤーのスイッチを切り、乾いて広がった髪を整えながら唯は言葉を続ける。

「憂を、私の生活に縛り付けていいのかなって」

「……」

「憂には憂の人生があるし、もっとやりたいことあるんじゃないかなって」

「……あんたの口から人生なんて単語が出てくるとは思わなかったわ」

「もう、和ちゃん、私は真面目に悩んでるんだよっ!」

唇を尖らせ、コタツの天板を両掌で叩く。
その手を握ってやると、唯はむぅ、と唸って上目遣いに私を見た。

「憂とは、ちゃんと話し合ったの?」

「……うん、ホントにいいの?って聞いたよ。何回も」

繋いだ手に視線を落として、唯が答える。

「それで、憂はなんて?」

「うん、聞くたんびに、私がやりたいからやるんだよって言われた」

「そう」

「……でも、」

「唯」

静かに名前を呼ぶ。唯は言葉を切って視線を私に向けた。

「唯自身はどう?憂があんたたちのマネージャーをすること。憂の気持ち抜きで」

「…………」

唯は私と視線を合わせたまま、考える。
ひとつ瞬きして、少し俯いて口を開いた。

「……嬉しい」

「ならいいじゃない。それがあの子が選んだ人生、よ」

「なんか重いな、人生って言い方」

「あんたが言ったんじゃない」

「そうだけどさぁ」

子供のように拗ねる唯の頭を撫でてやる。
ドライヤーの熱が少し残っているのか、ふわふわと暖かい。

「唯は、憂が路頭に迷わないようにちゃんと練習していい歌うたってあげなさい?」

「……うん」

唯はコクリと頷くと、ようやく柔らかい笑顔を見せた。

…………

「和ちゃん、お湯張り直したからあったかいうちに入って」

リビングに戻ってきた憂にそう言われ、
今日泊まる気は……と応えかけたところで唯にじろりと睨まれた。

「ない、なんて言わないよね?和ちゃん」

「……言うつもりだったんだけど」

「嫌だよこの子ったら、その冗談は笑えないよ」

「ええと、私明日も仕事なんだけど」

「早めに起きるって手もあるよね?」

「……着替え、持ってきてないわよ?」

「……」

これで諦めるだろう。
そう思った矢先、唯は突然立ち上がってどたどたとリビングを出ていった。
階段を上る音、ドアが開く音、閉まる音、階段を降りる音と続いて、
再びリビングのドアが勢いよく開く。

「はぁ、はぁ……、わ、わあ不思議、こんなところに新品のおぱんつが!!」

肩で息をしながら唯が突き出したのは、
値札付のビニールパッケージに入れられたままの下着。

「…………。憂、お風呂いただくわね」

溜息を落として立ち上がると、洗いたての髪をドライヤーで乾かしながら、
パジャマはお姉ちゃんの置いておいたから、と憂がにっこり微笑んだ。


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