回り道をして部室に行くのなんて初めてだった。
 放課後なんだからすぐ部室に行けばいいのにわざと遠回りしてしまう。
 今日は特別な日だからしょうがないけれど、もどかしいな。

 本当はすぐ唯ちゃんに会いに行きたいのに、足が、胸のどきどきがいじわるする。
 わざと二階で立ち止まってみたり、窓の外の枯れ枝に止まった小鳥を目で追ってみたり。
 りっちゃんたちはまだ掃除当番だけど、もう唯ちゃんは待ってるに違いない。
 でも胸のどきどきが私をうまく部室に連れていってくれない。

 どうしよう?
 私は握り締めた小さな袋に問いかける。
 大丈夫、だよね? 大丈夫だよ……何度も練習して、おいしく作れるようになったんだもの。……本当に?

和「――さっきからどうしたのよ」

紬「え?! ……うん、なんでもないよ。いま軽音部行くところ」

和「そんなに驚かなくてもいいのに……」

 見られちゃった。
 和ちゃんはちょっとあきれた、ふしぎそうな目で私を見てる。じいっと。
 なんだかどぎまぎしちゃって、逃げるみたいに階段をのぼる。
 ちょっとつんのめりそうになっちゃう。

 そんなことばかりしてるから、もう手の甲が冷えてきてしまいそう。
 でも。手が冷えたら、もしかしたら唯ちゃんにあっためてもらえるかも……。
 なんて、それはちょっとよくばりすぎかな。

和「唯はもう行ってるわよ?」

紬「うん、私もすぐ行くよ」

 ちょっとあせって音楽室への階段に向かう。
 ばれなかったかな? 和ちゃん、読めないところあるからこわいな……。

 なんだかたどたどしい私の足は、やっと部室に連れていってくれた。
 部室のドアを開けようとする。ドアノブをにぎる。指の隙間に冷たさが染みこむ。
 胸のどきどきが聴こえるほど大きくなる。
 ……うまくいかない。
 初めてこの部室に入った時みたいに、ドアを開けるだけで緊張してしまう。

 こっそり深呼吸をして、ドアをおそるおそる開けてみる。
 するとちょうどギー太くんを取り出した唯ちゃんが向こう側にいた。

 唯ちゃんはとってもかわいくて、あったかくって、だけどときどき別人のようにかっこよく見える。
 万華鏡のようにきらきらと姿を変える唯ちゃんは、実は私のあこがれの人。
 唯ちゃんがくれたホットミルクのように温かい気持ちは、もう私の心からあふれ出してしまいそうだった。
 伝わればいいな。伝わなくてもいいかな。でも、伝わってほしいな。
 ぼんやり思いながら、ギターをつまびき始めた唯ちゃんにしばらく見とれちゃった。

唯「……あ、ムギちゃん」

 どきん。
 ふいにふわっと笑顔を向けられてしまう。
 ひときわ大きく高鳴って、背中を押されたみたいに部室に入ってしまった。

唯「なんだあ、聞いてたんだ」

紬「ごめんね……あんまりきれいだから、盗みぎきしちゃった」

 唯ちゃんはにこにこと私を見つめる。
 幸せだったけど……手の中の袋が、また不安を呼んできてしまった。
 ぎゅっとにぎる手に汗がにじんで熱がこもってしまう。

 袋の中身はマドレーヌ。
 でも、いつものもらいもののお菓子じゃない。
 じつは自分で焼いた、特製のマドレーヌなのです。
 気に入ってくれるか、とっても不安。
 唯ちゃん、喜んでくれるかなあ?

紬「……ねえねえ」

唯「んー?」

 私は袋の中のマドレーヌを取り出そうとする。
 一人で食べるにはちょっと多すぎる量なのは、みんなの分も作ってきたから。
 だって唯ちゃんのためだけなんて、りっちゃんたちがかわいそうだもの。

 うそだ。
 本当は、唯ちゃんのために作ったのをばれないようにするため。
 でも、まずは一番に唯ちゃんに食べて欲しかったんだ。わがままだな、私。

 よし、言おう。唯ちゃんに食べてもらうんだ。
 そのためにがんばって何度も練習したんだから。
 喜んでくれるかな。くれるよ。うん、だから勇気を出して私!

紬「唯ちゃん、じつはね――」


唯「あ、りっちゃん!」

 勇気をふりしぼって、一番形がよくできたマドレーヌに手が触れたとき。
 ちょうどりっちゃんたちが入ってきてしまった。
 ええっ、どうしよう……考えてなかった展開にどきどきしてしまう。

 どうしよう、唯ちゃんに渡そうかな?
 だけど唯ちゃんだけに渡して、変に思われるとよくないし、

律「おー唯、ムギ。待たせたなっ」

唯「もう、おなかぺこぺこだよ!」

澪「まったく、お前らはお茶飲みに来てるのか」

 あー……タイミング逃しちゃった。
 手ににじんだ汗が急に冷えていくのが感じる。
 にぎりしめた袋が少し重くなった気がした。


梓「――ムギ先輩?」

紬「あ、ごめんね! ちょっとぼうっとしちゃって……」

 いつの間にか来ていた梓ちゃんに呼びかけられて、びっくりしちゃった。
 いろいろ動転してて気づかなかった。
 梓ちゃんの少し心配そうな顔が目に映る。ごめんなさい。

律「まったくさあ、唯じゃないんだから」

唯「えー、りっちゃんどういう意味さっ」

律「古典の授業で熟睡してただろ!」

澪「律、お前は世界史と数Ⅱの二時間だ」

 けらけらと笑いあうりっちゃんたち。
 その中で楽しそうな唯ちゃんのほほえみ。
 いつも通りの軽音部で、つかえていた心もほっこりしてしまう。
 だけど……今日はちょっとだけ、りっちゃんがうらやましいかも。

紬「みんな、お茶が入りましたよお!」

 みんなのおかげでちょっと元気が出てきた。
 考えてみたら、唯ちゃんだけじゃなくてみんなが食べてくれるんだ。
 いつものお菓子ほどおいしくないと思うけど……それでも、気に入ってくれるはず。

律「お、わりいな! そんでムギさん、今日のお菓子は――」

澪「食い意地はりすぎだ!」

梓「でも昨日のチーズケーキはおいしかったですよね」

唯「あれ食べたいなー」

梓「唯先輩は私の分まで食べたじゃないですかっ」

 みんなのカップにお茶を注ぎながら、楽しそうな声を聞きながら。
 冬でもあったかい太陽の光に少し冷えた手を暖めながら。
 ――その時ふと、いいことが浮かんじゃった。

 そうだ。
 これ、私が作ったってだまっててみよっかな?
 気づかないかな。でも……唯ちゃんなら気づいてくれるかもしれない。
 だって「ムギちゃんのお菓子が食べてみたい」って前に言ったの、唯ちゃんなんだもの。

紬「……ねえみんな、今日はちょっと違ったお菓子を持ってきたの」

 どきどきしながら話を切り出す。
 って、ダメだよ。「ちょっと違った」なんて言ったらばれちゃうって。
 言葉の裏を読むのはミステリの基本。あくまで私は、唯ちゃんにマドレーヌで気づいてもらうんだから。

澪「おお、どんなお菓子?」

紬「あ、えっとね……今度のは自家製っていうか、手作り風、みたいな?」

 ついついあせって変なことを言ってしまう。
 いけないいけない。

律「澪だって食い意地はってるじゃーん」

澪「と、特別なお菓子だから気になったんだ!」

 あれ。もしかして私、自分でハードル上げちゃった……?!
 どうしよう、これでもしおいしくないって言われちゃったら。
 急に不安の熱が胸の中に広がりだす。

唯「楽しみだねえ、ムギちゃんのお菓子はいつもおいしいもん!」

 唯ちゃんがいつもみたいに笑ってくれる。
 少し落ち着いたけど、やっぱり不安だな……。

 でも、いつまでも悩んでちゃもっとだめだよ。
 私は自分に言い聞かせる。
 絶対おいしいって言ってくれるはず。
 お抱えシェフの方に無理を言って、作り方を伝授してもらったんだもの。

紬「この……マドレーヌなんてどうかなあ!」

 あ、声がすこしひっくり返っちゃった。
 見た目くずれてないよね? いい匂いしてるよね?
 この時間が近づくごとに強く高鳴ってった胸のどきどきが、いま一番強く響いてる。
 思わず目をつぶってしまいそうになる。
 唯ちゃんが気に入ってくれますように――

唯「……わあ、おいしそう!」

 そんな私の不安を吹き飛ばすように、唯ちゃんの飴玉のような声が聴こえた。
 ふぅ……ちょっと落ち着く。
 って、ダメだよ。まだ食べてないんだから!

梓「なんかいつもよりおいしそうですね!」

律「ムギ、食べていいか? いいよな!」

 私がこっくりうなづくと、唯ちゃんたちがいっせいに手を伸ばした。
 神様、おいしくできていますように……!


唯「……ムギちゃん、これおいしい!」


 聞こえた声におそるおそる目を開いた。
 そしたら……いつもみたいに、口をほころばせて笑う唯ちゃんがそこにいた。


律「やっぱ甘いものは別腹だよなー!」

梓「あ、もう一ついただいていいですか?」

唯「あずにゃん、それ私の!」

 みんなが口々においしいと言って食べてくれる。
 いつもの軽音部みたいに、次々と手を伸ばしてくれる。
 それだけでなんだか認めてもらったような気がして、あったかい気持ちでいっぱいになった。

 それに……唯ちゃんが私のお菓子を食べて、笑ってくれる。
 いつも家のお菓子を持ってくる時もそうだけど、今日は特別まぶしく感じた。

梓「唯先輩は昨日たべましたー」

澪「お前ら子供か……あ、ムギ。もう一個いいかな?」

紬「うん、いいよ。どんどん食べてね」

律「澪だって食べてるじゃんかよう」

 でも、しばらくしてふと気づく。気づいてしまう。
 心の奥が、まだまだなんだかもどかしかった。
 唯ちゃんはいつも通りの笑顔をくれる。
 けど……本当はもっと喜んでほしいんだ。

 いつも通りじゃやだ。
 もっとおいしいって言ってほしい。
 私の作ったものだから特別なんだって、そう思っててほしい。

 ……欲張りすぎだよ、私。

唯「ムギちゃん、たべないの?」

紬「あ、うん……今日はちょっとおなかいっぱいだから」

 それとなくもう一個、唯ちゃんに勧めてみた。
 でも「ムギちゃんが食べなよ」って返してくれる。
 唯ちゃん、やさしいな。
 私は欲張りなのに。

 食べ終わってから、その日もみんなで練習した。

 マドレーヌの最後の一口をかじったとき、ふんわり甘いはずの生地がなぜかぱさついた気がした。
 錯覚っていうのかな。すぐに甘さがすぐ届いたけれど、変な苦味が口の中に残った気がした。
 口直しの紅茶の色も、少しくすんで見えてしまう。

 どうして、わがままなんだろう。
 どうして、よくばりなんだろう。
 子どもっぽい自分はいやだった。
 唯ちゃんだってそんな人はいやに決まってるのに。

律「じゃあそろそろ帰るか!」

紬「うん……そうだね」

 今日のお菓子もおいしかった。
 みんなそう言ってくれたのが、かえってつらくなってしまう。
 今日「も」じゃダメなんだって言ったら、絶対わがままなのに。


 帰り道。
 梓ちゃんと別れたあと、りっちゃんと澪ちゃんは寄るところがあると言って先に帰ってしまった。
 そそくさと離れるりっちゃんがどこかにやにやして見えたのは、なんでだったんだろう?

 そうして、唯ちゃんとふたりきり。
 並んで歩くと道路に伸びた影が重なる。
 足元の影みたいに、唯ちゃんにもっともっと触れてみたいな。
 そんなことを考えながら、わざと影が重なるように歩いてみたりして。

唯「ねえムギちゃん」

紬「なあに?」

唯「マドレーヌ、ありがとう」

 うれしいはずのその話なのに、どこか冷たいものを心に落としてしまう。
 ダメだよ。唯ちゃんがおいしいって言ってくれたんだから。……いつも通り。

 だけど、その後に続いた言葉はいつもと違った。

唯「ムギちゃんの作ったマドレーヌ、とっても甘くてふんわりしてたよ」

 え……?
 考えてもなかった通り雨みたいな言葉が急にふってわいて、少し息がつまる。
 またさっきみたいに、胸の奥がとくんとくんって高鳴る。
 え、えっ……それじゃあ、唯ちゃんは、

紬「……気づいてたの?」

 やだなあ、なんて唯ちゃんはぷふーっと笑う。
 夕陽に照らされた横顔がすてきだったけど、そんなどころじゃなかった。
 どきどきどき。次の言葉をさがす余裕なんてなかった。

唯「わかるよー。だって、ムギちゃんがあんなにうれしそうだったんだもん」

 そっか……見られてたんだ。
 とたんに恥ずかしくなって、うつむいてしまう。

唯「それにね」

 でも、唯ちゃんは言ってくれた。

唯「食べたとき、ムギちゃんみたいな味がしたんだあ。だから絶対手作りだ! って思ったの」


 私みたいな味……?
 どういうことだろう。私、たべられちゃうのかな?
 変な想像が頭をぐるぐる。って、いけないいけない。

唯「あのマドレーヌね、甘くて、ふんわりしてて、ほっこりしてたんだ」

紬「うん……がんばったもの」

唯「えへへ。それでね、ムギちゃんのやわらかさとか、きれいな髪とか、やさしいとことか、いろいろ思い出したの!」

 唯ちゃんは何かを見つけた子どもみたいにはしゃいで言ってくれる。
 いつのまにか、一人で考え込むのがばかみたいに思えちゃった。
 ……やっぱり、唯ちゃんの笑顔は魔法だな。

唯「ありがとうね、ムギちゃん。作ってくれるって、覚えててくれたんだよね」

紬「うん……忘れるわけないもの」

 すると唯ちゃんは私の手をぎゅっとにぎって、こう言ってくれた。

唯「私……また、ムギちゃんの手作りお菓子が食べたいな」

 わたあめが溶けるみたいにあったかくてふんわりした声が、私の胸の奥に響いた。
 やっと、最後につっかえてた物が溶け出した気がした。
 泣きそうなぐらいほほえみが浮かんできちゃう。変な笑顔になりそうでちょっと恥ずかしいな。



 それから駅まで、私たちは手をつないで歩いた。
 ふっと身体が軽くなったみたいで、スキップみたいに足がはずむ。
 うれしくてうれしくて、どうにかなっちゃいそう。
 ……だけど、やっぱり私はよくばりだった。

紬「ねえねえ」

唯「なあに?」

 でも私はもうこわくない。
 だって、唯ちゃんが分かってくれたから。
 ぜんぶお見通しで、なのにあんな風に笑ってくれたから。

紬「こんどね、……二人でいっしょに作ってみようよ」

 言えた。私、ちゃんと唯ちゃんを誘えた!

唯「うん! 一緒に作って、食べようね」

 こんな私のわがままに、唯ちゃんは笑顔でそう返してくれた。
 もうちょっとだけ。あとちょっと、そばにいたいな。
 私のよくばりは止まらなくなりそう。心からあふれてしまいそう。
 だけど……受け入れてくれそうな予感がしたんだ。

 それから私たちは駅までの道をちょっとだけ回り道して向かった。
 夕陽が沈みきるまで、手の温もりを感じてたかった。
 だって今日は、特別な日になったんだもの。

おわり。






最終更新:2011年02月21日 23:21