窓から見える景色は、知らないものだった。

それは、今までは目を向けていなかったからかもしれないし、

目に溜まった、涙のせいなのかもしれない。


カバンからオーディオプレイヤーを取り出し、イヤホンをはめる。

聴きたい曲は決まっている。

優しいピアノとギターの音色、それに乗せるフェイク。

表面張力の限界を超えて、涙は薬指に流れ落ちた。

つい先ほどまで、そこで光っていたものの代わりのように。


キッカケは何だろう。

考えても思い出せない。

ただ好きにならない理由が、なかっただけなのかな。

人生の半分以上を一緒に過ごして、

泣くのも笑うのも、隣にはいつも律が居たんだから。

思い出と呼べるものほぼすべて、律と分かち合ってきた。

忘れたくないものばかり。

思い出を抱え過ぎて、たとえ両手が塞がれていても、

わたしはそれを捨てたくない。


また窓の外に目をやる。

やっぱり、知らない景色だった。

電車に乗り込んで数分。

ほんの数分で、こんなに変わるんだ。

きっとこの気持ちもいつか、いい思い出になる。


You are always gonna be my love

――あなたはいつまでも、わたしの大切な人。


律「なあ澪、一緒に暮らそうぜ」

澪「んー、どうしようかな」

律「何で迷うんだ?」

澪「だって…」


大学進学も決まった冬の日。

少しずつ大人に近づいていく過程を実感し、その中で気付いたもの。

わたしのこの気持ちは、世間一般では『異常』と思われるらしい。

それを否定は出来ない。

この気持ちを言葉に出来ないのは、何処かでそれをわかっていたから。

言葉にすれば終わる。

それなら静かに、思いが薄れていくのを待つ方がいい。

そんな日がいつか来てくれる。


そう、思っていた。


律「…あのさ」

澪「何だ?」

律「わたし、な…」

澪「…」

律「…聞いてる?」

澪「あ…うん、話すの待ってた」

律「あ、ごめんごめん…」

澪「うん、どうした?」

律「…わたしさ、好きなんだ」

澪「…え?」

律「…変だと思うよな、やっぱり」

澪「えっと…」

律「澪のこと、好き」

澪「…ありがと、わたしも好きだぞ?」

律「…ごめん、そういう意味じゃないんだ」

澪「…よくわかんないよ」

律「澪が思ってる好きではないんだ、付き合いたいとか…そういう好き」

澪「…」

律「ごめん忘れろ!わたしも忘れるから!…これからもいい友達で居てくれな!」

澪「…律」

澪「…わたしもそういう、好きだよ」

律「え…マジ?」

澪「…うん」

律「嘘だ…」

澪「ほんとだよ」

律「…気遣わなくていいんだぞ、友達のままで居れるって思ってるから」

澪「…でも言えなかった。嫌われたくなかったから」

澪「…そしたら律から言っちゃうんだもん、悩んでて存した気分だ」

律「そっか…」

澪「うん…」

律「…よかった、嫌われないで」

澪「…嫌いになるわけないだろ」

律「でも怖かったもん」

澪「まあ…そうだな、わたしも怖かったから」

律「…あのさ、1回しか言わないからちゃんと聞いて」

澪「…はい」

律「…愛してる、付き合って欲しい」

澪「…えっと」

律「…返事は?」

澪「…うん」

律「…よっしゃー!」

澪「…ははっ」

律「え…何で?」

澪「…何が?」

律「泣いてるじゃん…」

澪「笑いたいのにな、変なの」


溢れてくる涙に気付かされる。

自分がどんなに、律を好きなのか。

好きな人に思われていることが、どんなに嬉しいことか。

わたしの初恋は実を結んだ。


大学は遠いから。

家賃も半分になるから。

1人で暮らすのは不安だから。

…律と一緒だと、楽しいから。


色んな理由を口にした。

思えば今まで、こんなに何かをお願いしたことはなかったと思う。

愛情たっぷりの一人っ子で、欲しいものは大抵与えてくれた。

わがままだって聞いてくれた。

その分、過保護気味な両親を説得するのは、思った以上に大変だった。

自分が必死になればなるほど、親にも言えない恋をしてることを辛く感じた。


「…勝手にしなさい」


言っても聞かないわたしに、両親は呆れた顔をした。

それでも、わたしはこれからの生活に胸を躍らせた。


律「どうだった?」

澪「ああ…結構大変だった」

律「…だろうな」

澪「うん、でも大丈夫だよ」

律「その分、澪のこと大切にするから」

澪「ほんとに?」

律「当たり前だろ?」

澪「ふふ、よかった」

律「…みんなには話す?」

澪「わたしたちのこと?」

律「うん、澪はどう思う?」

澪「わたしは…全員、には話さなくてもいいと思う」

律「嫌か?」

澪「そうじゃないけど…話したところで、みんなが賛成してくれるとは限らないし」

律「そりゃあそうだな…」

澪「悲しい気もするけどな。でも誰かに間違ってる、なんて言われても…律と居たいから」


ごく親しい友人たち、つまり軽音部の3人にだけわたしたちのことを話した。

3人は自分のことのように喜んでくれ、その後も何ら変わらず接してくれた。

それ以外は、親にも、友だちにだって、言えないものだった。

話すことが出来れば楽とは限らない。

もし話して、誰かが間違いだと言っても。

…わたしは律と歩んで生きたい。

それが幸せだって、思ってるから。


大学に入って、律との生活も始めて。

変わったことと言えば、軽音部5人で集まる頻度。

受験生の梓を無理に誘うことは出来ないし、梓抜きで練習する気にはなれなかった。

4人で会っては、ただ目的もなくお茶して。

梓が出てこれる日には、スタジオを借りる。

それでも結局部活と同じで、今まで以上に律は唯とふざけあった。

わたしとムギはそれを笑って、梓はもう、それを怒らなかった。

目的もなく、ただ趣味としてバンドを続ける。


「目標は武道館」

そんな大それた言葉は、ただの冗談になっていった。


そのうち、お互いバイトも始めた。

実家からの仕送りはもらっていたけど、それにはほとんど手をつけなかった。

いつか返そう、ふたりでそう決めた。

これから背負うであろう人生への、せめてもの償いの気持ちだった。


律は入学すぐ、楽器店で働き始めた。

わたしは少し経ってから、結婚式場。

会場設備や配膳だとか、後片付け。

たまたま見つけたバイトだったけど、時給も良くて。

きっと自分は経験しないから、それを外側から見る。

幸せそうな会場で、わたしも手を叩く。

時々、感動で本当に泣きそうになることだってあった。

今思えば、少し自虐的かもしれない。


律「結婚式場?」

澪「うん、時給良くて」

律「…そっか」

澪「何か、やっぱりダメかな?」

律「いいんじゃない?別に」

澪「でも、律ちょっと怒ってるじゃん」

律「違うよ、そうじゃない」

澪「じゃあ何?」

律「…悲しくなんない?」

律「自分たちじゃ出来ないこと、遠くから見てさ」

澪「…いつかしようよ」

律「自分たちで?」

澪「うん、唯たち呼んでさ」

律「…じゃあさ、指輪いるよな?」

澪「お揃いの、シンプルなやつな」

律「安くても文句言わない?」

澪「言わないよ」

律「良かった…もう買ってあるんだよな~」

澪「…え?」

律「給料3か月分、とは言えないけど」

澪「冗談だろ?」

律「違うよ、やっとバイト代入ったからさ」

澪「…サイズとか、知らないくせに」

律「何となくだけどわかるよ、カバンに入ってるから見てみ?」

澪「…これ?」

律「そう、開けてみて」

澪「…ほんと、お揃いだ」

律「りつ、って入ってるのが澪のだから」

澪「ねえ、はめていい?」

律「ダメ」

澪「ダメなの?」

律「わたしがはめてやる、おいで」

律「ほら、ピッタリじゃん」

澪「ほんとだ…」

律「わたしよりちょーっとだけ、サイズ大きくしてもらったんだ」

澪「…聞きたくなかった」

律「そういう意味じゃなくてさ、利き手の指のが太いから」

澪「…何でもわかってるな」

律「当たり前だろ~?」

澪「ねえ、律にもわたしがはめていい?」

律「…お願いします」

澪「ピッタリ」

律「いや、わたしはサイズ測ったし」

澪「…そうだった」

律「わたしのには、みおって彫ってもらったんだ」

澪「何か、変なの」

律「自分の名前が良かった?」

澪「ううん…律がいい」

律「繋がってる感じ、するだろ?」

澪「するな、いつも一緒に居るみたい」

律「…なくすなよ?」

澪「大切にする、ありがとう」

律「…なあ澪、キスしよう」


答える間もなく、自分から唇を触れ合わせた。

その日から、ふたりの薬指には同じものが光った。

宝物だったけど、今はそれもなくなった。


外では手を繋ぐことも、抱き合うことも避けた。

わたしたちのことを知らない相手には、お互いを嘘で語るしかない。

表情では笑っても、心の奥は寂しさが積もる。

それを腐食するように、家では身体を重ねた。

ふたりの素肌が癒着して、ほどけなくなれば良いと思った。

それを言葉にすると、律は悲しそうに笑う。

そんな顔を見たくなくて、そっとキスをした。

またふたりは、重なり合っては果てた。


薬指が真実を語ってくれる。

それだけが、ただ一つの自信だった。


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最終更新:2011年02月15日 22:54