……

「律ー、いるのか?」

カッターナイフが振り上げられようとした瞬間、入り口のドアが開いた。
私がその名を呼ぶのと、彼女が振り返るのがほぼ同時だった。

「澪!」

「えっ」

澪は私を見て、それから一瞬遅れて、開けたドアの死角にいた彼女の存在に気付いた。
澪の口から声にならない悲鳴が漏れる。

「ッ、くそっ」

彼女が体を澪に向けたのを見て、咄嗟に腕を伸ばして彼女の右手首を掴んだ。

「澪!外に出ろ!」

「あ…う…」

「澪!!」

恐怖で立ちすくむ澪を怒鳴りつける。
澪はビクリと体を震わせ、よろけるように2歩、3歩と後ろへ下がった。

「早く、先生をーーーーー」

そう言いかけた瞬間、右手に鋭い痛みが走った。反射的に掴んでいた手を離す。

「っ……痛……」

「律……!」

悲鳴のような声で私を呼ぶ澪の声が耳に届く。

「いいから、早く先生呼んでこい!」

「あ、……う、うん」

開いたドアの向こうで転がるように走り出した澪を確認して、
私は再び彼女へと視線を戻した。

右手の甲を押さえる指の間から、じわりと血が溢れてタイルの上に落ちる。
心臓が右手に移動したかのように、そこだけが強く脈打って熱い。

彼女は無表情のまま、左手に持ち替えていたカッターナイフを右手で握り直した。

「どうして……?」

独り言のように、彼女が呟く。

「どうして私じゃないの?」

「……」

「どうして、あの人なの?」

「……何を、言ってるんだ?」

「何、って」

かくん、と彼女が首をかしげる。

「……決まってるじゃない。りっちゃんの、好きな人」

言われた意味が理解できなかったのは、右手の痛みのせいだろうか。

私の好きな人?

「一生懸命想い続ければ、りっちゃんはきっと気持ちに応えてくれるって」

「……」

「そう、思ってきたけど、」

「……」

「でも、ダメね」

「……」

「ダメなら、いっそ……」

「……ッ」


突然、どこからか携帯の着信音が鳴り響いた。

彼女がビクリと手を止めた隙を見逃さなかった。再び右手を掴んで力任せに壁に叩き付ける。
彼女は小さな悲鳴を上げ、カッターナイフを落とした。
蹴り飛ばしたカッターナイフは、耳障りな音をたてながらタイルの上を滑っていった。

「おい!なにやってるんだ!」

男の先生が数人トイレになだれ込んできて、彼女と私を引き剥がす。

呆然とした彼女が抱きかかえられる形で廊下に連れ出されるのと入れ違いに、
血相を変えたさわちゃんが飛び込んできた。

「あ、さわちゃん」

つい、間の抜けた声を出してしまう。

「りっちゃん大丈夫? ちょ、ちょっとその手……!」

「あ?……あぁ、そっか……」

言われて、自分の手から血が流れ落ちていることを思い出した。
上靴汚れちゃったなあ、洗濯して落ちるかなあ、と呑気なことを考える。

「とりあえず止血するから、傷口洗うわよ?」

さわちゃんはためらうことなく血だらけの私の手を取り、
手洗い用の蛇口まで引っ張った。
冷たい水が傷口に沁みて、ひぃっと情けない声が出る。

「取り乱した澪ちゃんがいきなり職員室に駆け込んでくるから、慌てたわよ」

「……へへ、ごめん」

「何があったのか、あとでちゃんと説明しなさい?」

「はーい」

さわちゃんは私の右手を肩の高さまで上げさせると、
ポケットから薄桃色のハンカチを取り出し、私の傷口を強く縛った。
肌触りの良い布地に血がにじむ。今度、似たハンカチを買って返そう。

「あ……そうだ、澪は?」

「澪ちゃんなら、そこにいるわよ」

ほら、とさわちゃんに促されてトイレの入り口を見ると、
顔を半分だけ覗かせた澪が、小動物のように震えながらこちらの様子を見ていた。

「……おい、いるなら声掛けろよ」

「だって……律、血、血が…」

「はあ?血なんか毎月見てるだろ?」

澪の頭上に一瞬クエスチョンマークが浮かび、次の瞬間、首まで真っ赤になった。

「!? こ、こんな時に何言ってんだばか!」

「真っ赤になってんじゃねえよ。小学生か」

「小学生はお前だ!」

裏返った澪の怒鳴り声に、思わず噴き出してしまった。
隣を見れば、さわちゃんも笑っている。

「じゃ、とりあえず保健室に行きましょう?話はそこで聞くわ」


…………

【夜 平沢家】

相手があまりに取り乱していて話を聞ける状態ではないとのことで、今日は家に帰された。
さわちゃんに自宅まで送ってもらい、私服に着替えてから、澪と一緒に唯の家を訪ねた。

「りっちゃん、澪ちゃん!」

和から今日の事を聞いていたんだろう、玄関先で唯に力いっぱい抱きしめられた。
心配掛けてゴメン、と謝る。

リビングに入ると、テーブルを囲んで座るムギと梓、それから憂ちゃんと和。
私たちを見て、皆が安堵の溜め息を漏らした。

「和、今日は色々ごめんな」

騒動に気付いた和はトイレの前に駆けつけて、
何事かと集まる野次馬たちをうまくかわしてくれたのだとさわちゃんから聞いた。
私が保健室で止血してもらっている間に、事の経緯を先生に説明までしてくれたらしい。

「いいのよ。何より律が無事でよかったわ」

「律先輩、お怪我は……大丈夫なんですか?」

憂ちゃんと寄り添うように座っている梓が、おずおずと私に声を掛ける。

「ん?ああ、ちょっと引っかけられた程度だから、たいした事ないよ」

包帯が巻かれた右手をひらひらと振ってみせる。
ちょっと、というのはとっさに出た嘘だけれど、梓を安堵させるには充分だったようだ。

「それより、私が梓を巻き込んだんだよな。ごめん」

「……もう、律先輩が謝ることじゃないですよ」

ほんの数時間前に私が言った台詞をそのまま返された。
梓を顔を見合わせて、互いに笑う。

「あー、それから。ありがとう梓。アレはほんと助かった」

「あ、いえ。ほんとに偶然でしたから。でも、よかったです」

「梓からも、鈴木さんにお礼言っておいてくれな」

「はい!」

あの時トイレで響いた着信音は、鈴木さんが置き忘れた携帯だったことをあとで知った。
そして、鈴木さんの携帯に電話したのが梓だったことも。

「……じゃあ今度、彼女もティータイムに招待しちゃおっか」

ムギがそんな提案をして、いいねと皆が声をそろえる。

「それじゃ、みなさん揃ったことですし、ご飯にしましょっか」

「おおっ、賛成!」

立ち上がった憂ちゃんに、手伝うわ、とムギと和が続く。
憂ちゃんがキッチンに向かうのと入れ違いで、唯が梓の隣に腰を下ろした。

「唯、ちょっとトイレ借りるなー」

「どぞー」

唯に一言ことわって、薄暗い廊下に出る。
トイレに向かおうと数歩進んだところで、突然足の力が抜けその場にへたり込んだ。

「あ、あれ……?」

体に力が入らず、それどころか全身が小刻みに震えている。
わけがわからずに軽くパニックを起こす。

リビングのドアが少し開いて、室内から漏れる光が私の顔を細く照らした。

「律?なんか物音がしたけど……そんなところでなにやってるんだ?」

ドアを閉めて近づいてきた澪が、私の異変に気付く。

「えっ、どうした、律?」

「だいじょぶ……だから、大きい声、だすな」

震える手をどうにか持ち上げ、澪の腕を掴んだ。

「……みんなの顔みたら、安心して……気が抜けた、みたい。はは、」

奥歯が鳴ってうまく喋れない。

「大丈夫、落ち着くまで待つから」

力の入らない体を澪が抱きしめてくれる。素直に体を預けて震えが収まるのを待つ。

「色々あったもんな。……すごく、怖かったし」

「うん……怖かった」

背中を撫でてくれる澪の手がやさしい。

澪の左肩にくっつけている額を収まりの良い位置までもぞもぞと動かすと、
澪はちょっと笑って私の頭を撫でてくれた。

「……なあ、澪」

「ん?」

「ちょっと……好き、って言ってみて?」

「は?  なんで?」

「なんでって、聞くなよ。好きって言うのに、理由なんているのか?」

どこかで聞いたような台詞を口に出してみる。

「えー。…………いや、いるだろ」

「……ですよねー」

「変なやつだな」

キッチンから、美味しそうな匂いが漂ってくる。
カチャカチャと食器が運ばれる音も聞こえる。
何の料理かなと考えたら腹の虫が盛大に鳴いて、澪が噴き出した。

「律」

「んー?」

「震え、止まってるぞ」

「あ」

抱きついていた私を容赦なくひっぺがし、澪はさっさと立ち上がった。

「ほら、トイレ行くんだろ?」

「あ、うん」

差し出された澪の左手に、自分の左手を重ねる。
ぐいと引っ張られ、よろけながらもなんとか立ち上がれた。

「ここで待ってたほうがいいか?」

「いや、大丈夫。先に戻ってて」

軽く手を振って澪に背を向ける。背後からパチッと音がして、視界が明るく照らされた。

「電気、戻る時に消せよ」

「サンキュ」

「……律」

「何?」

名を呼ばれ、首だけひねって澪を見る。

「早く戻ってこいな」

「……ん、」

白熱電球に照らされた幼馴染の柔らかな微笑みに、
ああ、と心の中で思い、気付けば私も笑顔を浮かべていた。




おしまい