…………

夕飯直後、突然お腹の中が音を立てて暴れ始めた。
1時間近くトイレで激痛と闘い、心配する母親に身振りで大丈夫と伝えて
フラフラしながらもなんとか自室に辿り着く。

携帯を掴んでベッドに倒れ込み、履歴の一番上を選んで発信ボタンを押す。
2コールのあと、いつもと変わらない声を確認した。

「ああ……澪は無事か」

『え、何? ていうか律、なんか疲れてる?』

「夕飯前だったらすみません、トイレの神様と小一時間仲良くお話してました」

『……夕飯前だけども。何、お腹壊したのか?大丈夫?』

「ああ……うん、なんとか……。なあ澪、あのクッキーもう食べた?」

かすかに澪のお母さんの声が聞こえて、
今電話中だからあとでー、と澪のくぐもった声が応える。

『ごめん。で、クッキー?まだだけど』

「えーと、あれ、食べない方がいいと思います、多分」

『……?意味がわからないぞ。ちゃんと説明しろ』

説明を始める前に、ベッドの上で横向きに寝直す。

夕飯を食べた家族も、一緒にムギの紅茶とクッキーを口にした澪も体調に変化はない。
昼に食べたお弁当が傷んでいたのなら、もっと早く症状が出るだろう。
そこまで一気に伝えて、はあ、と深く息を吐き出す。

『つまりあのクッキーが、傷んでたってことか?』

「ん……、多分」

そう答えながら別の可能性が頭に浮かんでいたけれど、とりあえず今は言わずにおく。

『じゃあ、食べるのやめとく。……なんかごめん、私が律にあげたから』

「澪が謝ることじゃないって。澪がなんともなくて良かったし」

『……うん、』

「それでさ、あれの贈り主って誰だったんだ?」

『えっと、ちょっと待って』

澪が移動する気配と、例の紙袋を探っているらしき音が受話器から漏れてくる。
少しして、あれ、という小さなつぶやきが聞こえた。

『名前……書いてない』

「匿名、か」

『書き忘れたのかな』

それならいいけどな、と内心で思う。

「手紙の内容は、普通だったんだよな?」

『うん、普通に、受験がんばってくださいって……。あのさ律、』

「ん?」

『なんでそんなこと聞くんだ?』

ああ、しまった。余計なことを聞いたか。

『もしかして、律の手紙と私が貰ったプレゼントに何か関係あるのか?』

「……えーと」

『……私に、隠し事はナシだぞ』

「……」

『律』

あ、この声色は。本気で心配してて、本気で怒る一歩手前。
やっぱ誤摩化すのは無理……っていうか、もう隠さないほうがいいか。

「……わかったよ。でも、みんなにも話しときたいから」

『ん、』

「明日の放課後、みんなが部室に揃ったときでいいか?」

『わかった。じゃあ、今夜は大人しく寝るんだぞ。ちゃんと水分も摂るようにな』

「うん、サンキュ。おやすみ」

『おやすみ、お大事に』

通話を切って枕元に携帯を放り投げ、体の向きを変える。
鞄に突っ込んだままの手紙を思い出したら、無意識に溜め息が出た。

さて、あの手紙のこと、みんなにどう伝えたものか。


…………

【昼休み 3年2組 教室】


「唯ー、お客さん」

唯を呼ぶクラスメイトの声に振り返ると
教室の入り口に、赤いタイを着けた二人が立っていた。

「あれー、憂! 純ちゃんも」

唯は立ち上がり、オイデオイデと手招きで二人を呼んだ。
一緒にいるのは確か憂ちゃんと梓のクラスメイトの鈴木さん。

「みなさん、お昼休み中にすみません」

「どうも、お邪魔します……」

ぺこりとお辞儀して教室に入ってくるふたり。あれ、なんだか表情が硬い。
上級生の教室に来て緊張してるのか?

どうした、と私が聞くよりも早く、唯が妹の顔を覗き込んだ。
「憂、どうしたの?何かあった?」

姉の問いに、憂ちゃんの瞳がみるみる潤んでいく。

「えっ、う、憂?」

「あのねお姉ちゃん、梓ちゃんが……」

「あずにゃん?あずにゃんがどうかしたの?」

梓の名前を出したまま、憂ちゃんは言葉に詰まってしまった。
唯は唯で、妹の涙に動揺している。
鈴木さんが憂ちゃんの背中をさすり、言葉を繋ぐ。

「3時限目のあとの休憩時間に、梓、階段から落ちたんです」

梓が。
瞬間、全身の肌が粟立つのを感じた。


「あっ、でも軽い打撲だけで酷い怪我はしてないって、」

憂ちゃんの手を握ってオロオロと取り乱す唯を見て、鈴木さんが慌ててフォローを入れた。

「唯、落ち着きなさい。それで、梓ちゃんは今どうしてるの?」

「あっ、梓は先生が病院に連れて行ってくれてます。もうすぐ戻ってくるそうです」

冷静な声で和が訊ね、鈴木さんは少し背筋を伸ばしてそれに答える。

「そう。大事にならなくてよかったわね」

「……えーと、それが……」

言い淀んで、2年生ふたりが視線を交わす。
小さく頷いた憂ちゃんは、目に溜まった涙を拭って私たちに顔を向けた。


「梓ちゃん、階段を降りてたら後ろから突き飛ばされたって……」

「えっ」

憂ちゃんの言葉に、皆が絶句した。

「目撃した人もいなかったみたいで、誰なのかわからないそうなんですけど……」

「……梓がそう言ってたのか?」

私の問いに、憂ちゃんは不安そうな顔で頷いた。

「それで、あのね、お姉ちゃん」

「うん?」

繋がれた手を握り返す憂ちゃんに、唯が優しいまなざしを向ける。
憂ちゃんは少し上目遣いで、言葉を続ける。

「梓ちゃんすごく動揺してて、でも今日家に誰もいないらしくて」

「うん」

「今夜はうちに泊めてあげていいかなって、それを聞きにきたの」

「もちろんOKだよ憂。あずにゃんのこと安心させてあげよう!」

「……うんっ」

ぎゅっと手を握り合う姉妹の様子に、ほんの少し気持ちが和む。


「……じゃあ、今日は部室での勉強は中止だな」

「え、でも律、」

口を開きかけた澪を、無言で制す。

「憂ちゃん、鈴木さん、教えてくれてありがとう。もう予鈴鳴るから教室に戻りな」

「あ、はい。それじゃ失礼します」

ふたりの背中がドアの向こうに隠れるまで見送ってから、私は改めて4人の顔を見た。

「梓ちゃん、大丈夫かしら……」

全員の気持ちを代弁するようにムギが呟く。皆伏し目がちになり、空気が重い。


「……なあムギ、今日もおやつ持ってきてる?」

「え、うん、あるけど……?」

ムギの返答を聞いて、今度は唯に顔を向ける。

「唯、今日、私たちも家に行っていいか?」

「え?……あっ!」

唯の顔がぱっと晴れた。私が言わんとしていることに気付いたらしい。

「もちろんだよりっちゃん、今日はうちでティータイムだね!」

「そういうことだ」

笑顔でサムズアップしてみせると、皆ようやく表情を緩めた。




【放課後】


「……ご迷惑お掛けして、すみません」

「梓が謝ることじゃないだろー」

俯いて鼻をすする梓の頭を撫でてやると、はい、と消えそうな声が返ってきた。

「それじゃ、唯、ムギ。梓のことよろしくな」

「任せてりっちゃん!」

自分と梓の鞄を両肩に掛けてギー太を背負った唯が、私にピースを返す。
梓のギターケースは、ムギの右肩に掛けられている。
一旦着替えを取りに家へ戻る梓に、唯とムギが付き添ってくれることになった。

3人を見送って、さて、と腕を組む。

「律、私たちも一度家に帰るか?」

「いや、直接唯の家に行こう。……その前に、ちょーっと付き合って」

「え?どこに?」

首を傾げた澪に軽く口角を上げてみせ、じゃ行こうぜ、と目的の場所に向かう。


ドアを2回ノックして、返事を待たずにノブを回した。

「よっ、お邪魔するぞー」

「失礼しまーす……」

「あら、律? 澪も」

いつもの席で書類をめくっていた和が顔を上げ、私たちを見て眼鏡を上げ直す。
生徒会室にいたのは和ひとり。私にとっては好都合だ。

「今日は唯たちと一緒に帰るんじゃなかったの?」

「唯とムギには梓の家に付き添って貰ってる。私たちはあとから唯の家に行くよ」

「そう」

「で、ちょーっと和にお願いがあってさ」

「何かしら」

「今の2年生の、去年と今年のクラス写真を見せて欲しいんだけど」

「下級生のクラス写真?そんなもの見てどうするの?」

「んー、ちょっとなー」

言葉を濁した私に、和が眉をひそめる。

「……理由が言えないなら、閲覧は許可できないわね」

「えっ」

和に頼めば簡単に見せてくれると思ったんだけど、思惑が外れた。
言い訳のひとつくらい考えてくればよかったと思うが、時既に遅し。

「見たいならちゃんと理由を言いなさい」

「あー……えっと……」

「……なあ律、もしかしてM美って子のこと調べるのか?」

私が答える前に、澪にそのものズバリ指摘された。
まあ昨日の今日だから、澪にはバレバレか。

「M美?」

和が、澪に視線を移す。

「律が昨日貰った手紙の差出人」

「ああ、あれね。それで、どうしてその子の事を調べるの?」

「……私もそれを知りたい。律、ちゃんと説明しろ」

澪と和の目が私に向けられる。
私は息を吐くと、肩にかけた鞄に手を突っ込んで例の手紙を掴み、
ふたりの前に黙って差し出した。


3
最終更新:2011年02月15日 19:56