「今日、学校来なかったんですね」

電話越しに私が言うと、彼女は焦ったような、批難がましいような口調で言った。

「二日酔いなのよ」

それを聞いて、私は少し嫌な気持ちになる。
今日くらいは、いや、なにがなんでも今日だけは、彼女は学校に来ないといけなかった、はずなんだ。
窓から外を見てみると、水平線の近くから、空が鈍色に染まり始めていた。

「こんなものなのかしら」

つい呟いてしまう。
彼女の心配そうな声が聞こえたが、半分は機械を通ったせいでやけに無機質で、
なんだか滑稽に感じられるほどだった。

「和ちゃん、どうかした?」

「なあんでも」

妙に間延びした言葉に、我ながら驚いてしまう。
空には太陽が見えない。じゃあ、今日は月も見えない。
それを窓から再度確認して、私は続けた。

「ないですよ」

じゃあ、いいけど。
それだけ伝えて切れてしまった携帯電話を見つめて、馬鹿みたいだ、と思った。

誰がって、そりゃあ……

私は憮然として教室へ戻った。
すると、唯が目を輝かせて私の側に寄ってきた。

「ねえねえ和ちゃん、日曜日はさ、このお菓子屋さん行こう?」

唯が持っているパンフレットには、お菓子のデザイン、お好みで。と書いってあった。
お好みで、お好きなように、お好きにどうぞ。
私も確かに、彼女にそういった筈だ。
それがこの仕打、すこしあんまりじゃないかと思ってしまう。

「はいはい、場所は唯が調べておいてね?」

そうして、そんなことを思うほどに自分が幼稚であることを知って、驚いた。

幼稚園児じゃあるまいし、白馬の王子様なんて夢見ない。
そもそも彼女は女だ。
けれど、軽自動車でどこかへ無理やりさらっていく魔女くらいは、望んでもいいんじゃないかと思っていた。

「えへへ……楽しみだなあ。ねえ、和ちゃん、今日も一緒に帰れる?」

今日は先生が私と同じ道をわざわざ車で帰ってくることもない。
だから、遠慮無く唯と帰ってもいいのだけれど。

「ごめんね、ちょっと用事があるのよ」

断ってしまった。

唯が妙に怯えた顔をしていたから、頭を撫でて理由を訊いたら、
私が泣くのか怒るのか分からないような顔をしていると言われた。
ちょっと、嬉しくて、悔しかった。

学校から出て、彼女に電話をした。
その時になって、私は生徒会を無断で休んでしまったことに気がついた。

「先生、平気ですか」

開口一番そう言う私に、彼女は不満そうに

「寝てたのよ」

と答えた。なんだか素っ気無い。
私は携帯電話を耳に当てながら、一本道を歩き続ける。

「まだ寝てたいから、切ってもいいかしら」

彼女にそう言われて、私はぎょっとした。
心なしか、昨日よりも態度が冷たくなっている気がする。
私は慌てて取り繕うように言った。大層滑稽だろうと思う。

「あの!今から家にお邪魔しても良いですか。氷嚢と、あと他にも色々……買ってきますから」

彼女の返事は存外淡白だった。

「お好きに」

ぷつ、と電話の切れる音がした。
空の色はどんどんと重くなっていて、つられて私の鞄も重くなっていくようだ。

お好きに、と彼女は言った。私も言った。
互いにお好きなようにして、こうなんだろうか。
そんなものなのだろうか、恋人って。

色々買っていく、と言ったから、私は途中のスーパーで色々と買った。
氷嚢と、スポーツドリンクと、酔い止めと、あと念の為に風邪薬など。
お陰で荷物はまた重くなって、歩くのが馬鹿らしくなるほどだった。

暫く歩いていると、少しずつ影が伸びていった。
すっかり伸びきって、影が真横に半永久的に伸びていくようになった頃、私は先生の家に着いた。
アパートのその部屋の扉の前に立って、また振り返った。

空はもうすっかり曇っている。
夕焼けが見えるから、明日は晴れるのだろうけれど、今日晴れておいて欲しかった。
鈍色と茜色が混ざった空は綺麗だが、憎らしい。

しかし考えていても天気は変わらない。
気を取り直してチャイムを鳴らしたが、何の反応もなかった。

嫌な予感が頭を過ぎって、私は恐る恐る、ゆっくりとその扉を開いた。

予想に反して、扉は簡単に開いた。

「山中先生……?」

小さな声で呼びかけると、その声が消えた後で、小さな寝息が聞こえた。
それで安心して、無用心だな、と笑った。

先生は居間のソファで横になっていた。
髪の毛に夕日が当たって、茶色い髪の毛が真っ赤に染まっている。
曇っているせいで灯りの点いていない部屋は少し暗くて、余計に赤が映えた。

そこまで考えて、いよいよ私も馬鹿だな、と思った。

先生が寝ているソファの空いたところに腰を下ろして、寝顔を見下ろす。
赤いところと黒いところが、はっきりと別れている。
長いまつげが少し湿っていて、柔らかそうな肩はゆっくりと上下している。
まるで赤ん坊だ。

そういえば、この人が私に告白した時も、こんな感じだった。
どこまでも子供っぽかった。
つい可笑しくなって私は、お好きにどうぞ、なんて済まして答えたのだけれど、あれは正解だったろうか。

先生の額に手を当ててみると、少し熱かった。
二日酔いだけでなく、風邪も患っているのだろうと思い、私は氷嚢を彼女の額に当てた。

「……・気持ちいい」

先生がゆっくりと目を開いて、寝ぼけたように言う。
起こしてしまった、悪いことをした、と思った。
思っただけだった。

「風邪ひいたなら、そういえばいいでしょうに」

「ごめんね」

弱々しく先生は笑った。
つい、私はたじたじとしてしまう。

弱っている彼女を見るのは、辛いようで、嬉しいようで、妙な感じがした。
私は彼女の髪を撫で付けて、言った。

「先生は、もしかしてと思いますけど」

「ねえ」

先生は遮って、髪を撫でていた私の手を優しく握った。

「昨日はさわ子さんって呼んだわよね。なんで?」

「なんでって……」

そう言われるまで、私が普段と違う呼び方をしたことさえ忘れていた私は、碌な答えなど出来うるはずもない。
ただ、昨日は先生の態度に妙にがっかりしたのだけを覚えている。

「もっかい呼んでほしいな。そうしたら治るわ」

「馬鹿なこと言ってないで」

私はそう呟いて、彼女の耳を指で優しくつまんだ。
気づくと、私の口から勝手に微笑が漏れていた。

しばらく黙っていると、先生はまたうとうととし出した。
目が開いたり、閉じたりしている。

「寝ていいですよ」

「やあよ」

先生は半分しか開いていない目で、ぼうっと窓の外を眺めていた。
寝ぼけたような調子で、誰に言っているのかも分からないような言い方でいう。

「そろそろ満月になるのね」

私は返していいものか迷ったが、ただ、頷くだけはしておいた。

「じゃあ、もうちょっとで一ヶ月だ」

そう彼女が言ったとき、私は胸の鼓動が早くなるのを感じた。
外はすっかり暗くなっている。

「ごめんね、忘れてたわけじゃないんだけど」

彼女は極々自然に私の足に頭を載せて、ごろんと一つ寝返りを打ち、私を見上げた。
顔にかかった髪を払おうともせずに私を見つめてくるから、私はそれを指で払ってやった。

「今度の日曜日よね、確か……どっか行きましょうか」

「……唯と、約束がありますから」

「つれないな、意地悪」

先生はふふ、と小さく笑った。

「でもさ、唯ちゃんとの約束が終わった後だったらいいわよね」

「もう、夜になってますよ」

「それでも、連れてく」

「どこへ?」

「山。月見でもしましょう」

私もいい加減馬鹿らしい。
恋人って、思ったより楽しいものだ。
私は彼女の額を人差し指で弾いて、笑った。

「お好きにどうぞ。私、乗り気はしませんけどね」

「意地悪ねえ」

彼女の髪の毛が、笑うたびに私の腿に当たってくすぐったい。
山の中で、助手席に座って彼女の髪を撫でながら、お月見なんてしたら、さぞ楽しいだろうと思った。

「好きな子ほど云々、ってやつよね」

先生が唐突にそう言ったので、私は真っ赤になった。


おしまい