午後四時の赤く染まりだした空にしゃぼん玉が浮かんでいる。
 ふらふらと、ふわふわと。この河川敷の上空、橋の向こうへとゆらゆら浮かぶ。
 三つ四つの大きな玉は空を虹色に透かして私と唯先輩を見下ろしていた。

 吹いているのは唯先輩だ。
 透き通るような白い指先でストローをつまみ、笛を吹くように玉を浮かべる。

唯「あずにゃん、見てて」

 薄膜の命にゆっくり、ゆっくりと息を吹き込む。
 真剣そうな表情も見入ってしまう。
 しゃぼん玉は膨らんでいく。唯先輩の吐息を詰め込んで。
 けれども、ある時突然ぱちっと消えてしまった。

唯「えへへ……あずにゃんも吹く?」

 困ったように笑った唯先輩が、シャボン液を差し出した。
 でも、思わずその腕から目を背けてしまう。
 なぜなら、袖から覗いた彼女の手首がもうずいぶん透けてしまっていたから。

 プリズム病は半年前にヨーロッパのどこかで発見され、瞬く間に広がった。

 ある日突然身体が透けていき、そのまま消えてしまう。
 それも十代の女の子ばかりが発症するらしい。
 学者たちはこの奇病の研究に今も腐心しているが、対策はおろか原因すらも見つかっていない。

 人は理由の分からないことが嫌いだから、無理矢理にでもこじつけようとする。
 この間、駅のロータリーで「プリズム病は神の怒りだ」と声高に訴える人々がいた。
 彼らはこの奇病に乗じて急激に勢力を伸ばした新興宗教だという。
 私はテレビが好きじゃないから、よく知らないけれど。
 学級閉鎖が起きて以来見なかった友達の青白い顔を見つけ、逃げるようにその場を後にした。

 日本でも、いや桜高でも数多くの女生徒が命を落としたと聞いた。
 彼女たちはみな苦しむことなく、ぱちっと消えてしまったらしい。
 純もそうして、先輩の一人を看取ったと言っていた。

唯「しゃぼん玉みたいだね」

 妹を亡くした唯先輩は他人事みたいに笑う。
 私も合わせて笑おうとした。
 でも、ちょうど目の前のしゃぼん玉が消えてしまって言葉が出ない。


 最初にムギ先輩が消えた。

 十月の昼下がり、私たち軽音部は音楽室に集まっていた。
 高校はとうに臨時休校だったけれど、さわ子先生が無理を言って開けてくれたらしい。
 私たちはそこで五人の演奏を満喫して、一休みしていたところだった。

 ムギ先輩が紅茶を煎れてくれる。
 窓から差し込む光が彼女の白い肌や流れるような髪を通してアップルティーの水面に降り注ぐ。
 白い指と、一杯一杯を慈しむようなまなざし。部屋に広がる甘い香りが、鼻の奥をちくちく刺した。

唯「ムギちゃんのお茶はおいしいね」

 言葉を奪われた私たちの中で、唯先輩はいつもみたいにそう言って微笑んだ
 ――そう、唯ちゃんがそう言ってくれてうれしいな。
 思い入れを一つずつ減らしていくような、葉が散るような淋しさの中でムギ先輩はようやく笑った。
 お母さんに誉められた子どもみたいに、屈託のない笑顔で。

 私はいま、一人きりで紅茶を飲むことができない。
 あの紅葉のような色を見ると、どうしてもムギ先輩の幼い笑顔を思い出してしまうから。



 次に律先輩、後を追うように澪先輩が透けていった。

 律先輩も、最後の場所に桜高の音楽室を選んだ。
 最初から弟さんの聡君がぼろぼろに泣きじゃくっていて、はじめは私の涙も引っ込んでしまう。
 うまく泣くことができる聡君が少しだけうらやましかった。

 澪先輩も、はじめはぼんやりした顔で場つなぎの会話に参加しているみたいだった。
 ムギ先輩を亡くして二週間足らず、実感がまだ追いついてないのかもしれない。
 もっとも、大切な人を失う時の正しいスタンスなんて私は今も分からないけれど。

 鍵盤の物足りなさを感じながら、その日もいつもどおり練習を始める。
 演奏中、澪先輩は何度も何度もやり直しを申し出た。
 一度ぐらい完璧な演奏をしたい、なんて言うけどあれは嘘にきまってる。
 怖かったんだ。
 演奏が終わって、完全に音が鳴り止んでしまうのが。

 すると雰囲気を察した律先輩が、のど渇いちゃったから私お茶淹れるよ、なんておどけて見せた。
 私も思わず「律先輩いれられるんですか」なんて言ってしまう。
 言ってしまった後、後悔した。――そしてその後悔に、また罪悪感を覚えてしまう。

 私は、ムギ先輩を忘れたがっているんだろうか。


 律先輩が淹れたお茶をみんなでいただく。
 いつも飲んでたのよりさっぱりしていて、心に染み渡る温かさがあった。
 お茶はいれる人の心で味が変わるものなの――ムギ先輩の言葉を思い出してしまう。
 あの人のいれる紅茶は甘くて、やさしくて、包み込むような温かさがあって、

 ……つい二週間前のことを過去形で思い出してしまうことが、ふいに恐ろしくなった。


律「――あはは。どうしたんだよ、みお」

 堰を切ったように泣き出したのは、澪先輩だった。
 澪先輩は席を立って、飛びつくように律先輩を抱きしめた。
 何かを必死で伝えようとして、でも言葉にならず、ただ強く腕に力を込める。
 そんな子どものような澪先輩の頭を律先輩はのんびり撫でていた。

 しばらく頭を撫でていた律先輩は、思い出したようにこんなことを言う。

律「……でもあれだよなー。澪が透けたらさ、またパンツ丸出しだな」

澪「……あはは、ばかりつ」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったひどい顔の澪先輩がようやく微笑んだ。

 それから澪先輩は、ずっと律先輩を抱きしめていた。
 律先輩が姿を消しても、下校時刻に憂と聡君に抱き起こされるまでは同じ格好で動きもしなかった。
 少しでも律先輩の体温を堰き止めているかのように、まるで巡礼者のように。



  ◆  ◆  ◆

唯「――ねえあずにゃん」

 ふいに唯先輩に呼びかけられた。
 驚いて振り向く。大きな瞳の向こう側に、うっすらと通学路の橋が見えた。
 とっさにどんな言葉を返していいか分からなくなる。
 同意? 共感? 応答? ……自分の不器用さに腹が立つ。語彙が足りないんだ。

唯「あずにゃん、どうしたの?」

梓「……いえ、なんでもないです」

 川の色がだんだん夕陽の赤に染まっていく。
 水面のきらめきがムギ先輩の淹れた紅茶のように見えた。
 匂いを、温かさを思い出してしまう。


唯「私ね、むかししゃぼん玉になりたいって思ったことあるの」

 ……いきなり何を言い出すんだろう、この人は。
 しゃぼん玉をもうひと吹き、浮かべたあとにくすくすと言うのだ。

唯「きらきらの空にふわふわ浮かんで、そのままどこまでも飛んでみたいなって」

 あはは、唯先輩らしいですね。
 しゃぼん玉は茜色の空に広がっていく。上昇気流に乗って、川岸の向こう側へと。


唯「澪ちゃん、きれいだったなあ」

 こちらに向けてというより、ひとりごとのようにつぶやく。
 いや……唯先輩は頭上に浮かぶ小さなしゃぼん玉の群れに語りかけてるのかもしれない。

 相変わらず私はうまく言葉を返せない。
 もう何人も看取ってきたつもりなのに、やっぱり慣れてくれない。
 歯がゆさがつのる。……人の死を前にして、正しい言葉なんてあるとは思えないけれど。

唯「あ、そうそう」

梓「なんですか?」

 唯先輩は、おつかいでも頼むような気楽さで私に言う。

唯「和ちゃんのこと、よろしくね」


 ……いやです。いやですよ。
 なんでみんな、そんな悟ったようなことを言えるんですか。
 置いてかれる身にもなってくださいよ。

 唯先輩が不思議そうにほほえむ。
 瞳の向こう側で輝く水面の光が、さっきより強く射した気がした。
 私は言葉を探す代わりにしゃぼん玉をひと吹きする。
 ぶくぶくと小さな泡の粒が乱反射しながら空に舞い上がる。


 しゃぼん玉は浮かんでいく。
 ふわふわと、浮かんでいる。

 うたかたの夢。
 いつかどこかで耳にした、そんな言葉が頭をよぎった。

梓「唯先輩、この世って夢みたいなものなんでしょうかね」

 誰もいない土手の寝ぼけたような空気の中で、つまらない質問をしてみた。
 悪い夢だったらいいのに。
 目が覚めたら、また五人で演奏して、お茶を飲んで。

唯「どうかな。夢だったら寝過ごしちゃったかもね。ムギちゃんたちは目を覚ましただけなのかも」

 唯先輩も寝ぼけたようにつぶやいた。
 早く目覚めればいいのにね、こんな悪い夢。
 天に唾を吐く代わりに、しゃぼん玉を遠く浮かべる。


 どちらからともなく、そっと手を握った。
 もし本当にこの世が夢なら、諦めもつくかもしれない。
 でもそう信じるのには、唯先輩の手のぬくもりはあったかすぎた。

 唯先輩は人の死を看取ることをどう考えているんだろう。
 聞いてみたくなった。
 けれども、人に聞くのははばかられる気がする。タチの悪いカンニングみたいに思えた。

 唯先輩は憂を二人きりで看取ったらしい。
 いつかに憂と会って話したとき、お姉ちゃんにそうしてもらうと言っていた。
 その時には憂ももう透け始めていたから、二人でゆっくり話し合った結果なのだろう。

 だから、憂のその時のことを私は知らない。
 私も憂の最期を看取りたかったのに。


純「憂たちはずるいよ」

 その日の帰り道、憂と別れた後で純がそうこぼした。

純「そんな綺麗に死んじゃうなんてさ、生きてくの馬鹿らしくなるって」

 純は怒っていた。
 だから、私もそんな死に方に憧れてしまうなんて言えなかった。
 でも――先輩たちは、やっぱり綺麗だった。

唯「あ。そろそろ、かも」

 その言葉にしゃぼん玉を吹く手を止めて振り向く。
 いつの間に唯先輩の瞳の奥から夕陽の強い光が射し込んでいた。
 逆光でふわふわした笑顔がかすんでしまって、たまらなく心細くなる。

 気づくとだいぶ陽が落ちていた。
 赤く染まった川面の向こう側に、夜の青が差し込みかけていた。
 鳥の声が遠く聴こえる。

唯「ねぇあずにゃん。何か言い残すこととかある?」

 おどけて言った。
 遺言みたいじゃないですか。わざとそう付け加えると自分の声が重く残った。
 手の温もりは強く伝うのに、その姿は静かに薄れていく。

 耐え切れず、私は唯先輩の腕を強く引っ張ってしまう。
 澪先輩の気持ちがちょっとだけ分かった気がした。

唯「……あずにゃんからは初めてだねえ」

 うるさいです。

唯「やっとなついたねえ……よしよし」

 なんですかそれ。
 猫みたいじゃないですか。
 心の中でつっこむけれど、言葉にならなかった。
 唯先輩みたいに悲しむことも、律先輩みたいに元気付けることも、純みたいに怒ることもできずに泣きじゃくる。
 正しい感情なんてないのに、正しさにすがろうとしてしまう。
 ぬくもりに依存していく。

 どうしようもない私を唯先輩はずっと抱きしめてくれた。
 ぎゅっと強く抱きしめられているのに、怖くて目を開けられない。
 腕の中に射し込む光が怖くて、ぎゅっと目をつむる。

 あずにゃん、怖くないよ。
 大丈夫だよ。ずっとそばにいるからね。

 ――唯先輩、あなたはうそつきです。
 ムギ先輩も、律先輩も、澪先輩だっていなくなってしまって。
 あなただけはいなくならないって、あなただけはいなくなってほしくないって……そう思ってたのに。

 唯先輩の髪の毛がいい匂いだった。
 でも、もうすぐ消えてしまう。
 汗のしずくも、体温も、この匂いも消えてしまうんだ。
 手の甲が冷たく感じた。

 目蓋の裏側までが赤い光に染まる。
 アップルティー、ギブソンレスポール、部室に射し込む夕陽――染み込む光を涙が溶かしていく。

唯「あずにゃん、私もしゃぼん玉になるね」

 飴玉のような声でつぶやいた。
 けれども、少しくぐもった声。
 このままじゃいけない。
 もう、唯先輩に会えないのに。

 透けてゆく身体を見る怖さを押し殺して、私は首を上にあげた。
 唯先輩は微笑んでいる。
 その大きな瞳に涙を浮かべて。

 そして私は背伸びして、最初で最後の口づけをした。

 濡れた唇の感触はとてもやわらかくて、どこまでも溶け合えそうな気がした。
 けれどもやがてその唇を外気が乾かし始める。

 涙でぼやけた視界をそっと開く。
 赤く輝く水面がどこまでも広がっていた。
 しゃぼん玉はいつしか、みんな空の向こうへと消えていた。


 あの日から今日で一ヶ月経つ。

 十一月の半ば、急に全世界でプリズム病が姿を消した。
 テレビの中の有識者たちは首をかしげるばかりで、未だに原因究明なんて騒いでいる。
 後追い自殺はやめましょう。そんな公共広告のCMにも慣れきってしまった。

 あの日に駅で見た、入信したクラスメイトのことを思い出す。
 原因に救いを求めるのは、宗教だって科学だって変わらない気がした。
 だから私は、あの子を笑うことができない。

 昨日の夜、クラスの電話連絡網で高校の授業再開を知った。
 学級の人数が大幅に減少したため、クラス割りを再編成するらしい。

 純と私と和先輩はここに残された。
 和先輩とはあまり会って話したことがなかったけれど、いろいろな話をできたらいいと思う。
 とりあえず、純とまた同じクラスになれたらいいな。


 学校が始まる前の日に私はなんとなく散歩に出かけた。

 いや――なんとなく、というのはたぶん嘘だった。
 自分の中で割り切りを済ませたかったんだと思う。
 あの日までのことに一度区切りを入れなくては、先輩たちの死に引きずられてしまいそうだから。

 向かった先はちょうど二人で過ごした土手だった。
 手にはあの日のしゃぼん玉セット。
 花を手向けようかとも考えたけれど、この芝生に花は場違いな気がした。
 そんなものより、あの人は小学生が遊ぶようなしゃぼん玉できゃっきゃと喜ぶだろう。

 なんとなく芝生に腰掛けて向こう側の水面を見る。
 午後四時。まだ日は沈みそうにない。


 ひと吹きした。
 ぶくぶくといくらかのしゃぼん玉が空に飛んでいく。
 三つほどの玉が虹色に離れていく中、一つだけふらふらしている玉があった。

 目をつむり、祈る。
 どうか消えないで。
 どこか遠くで、私を映していてください。

 ――そんな時、頬に風が吹き込んだ。

 目を開けたとき、澄み渡るような青空だけが広がっていた。

 消えはしなかったんだ。
 どこか遠く、見えないところで今もふわふわ浮かんでいるに違いない。

 あの人のことだから。
 そう言い聞かせて、もう一度しゃぼん玉を吹く。
 今度は、空の向こうのあの人のもとに届きますように、と祈りながら。
 ぶくぶくと散らばっていく小さなしゃぼん玉の群れは、どこか花束のようにも見えた。

 家に帰ったら、あったかい紅茶でも淹れて飲もう。
 そう決めて立ち上がる頃には、水面に赤い光が射し始めていた。

おわり。