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「おはよう、唯……ちゃん」

「あ、和ちゃんおはよう」

初体験、それは、この幼馴染を呼び捨てにすること。
小学校までは「ちゃん」だとか「さん」を付けないで友人のことを呼ぶと先生に叱られていた。でも、中学校に上がるとそんな制約は無くなり、周囲の友人たちは思い思いに互いを呼び合っている。
そこで、私もそれに便乗して幼馴染を「唯」と呼び捨てにしてみようと思うのだけど、なんだか気恥かしくてその度ごまかしてしまう。

そんな訳で、今日も失敗。
「初体験」までの道のりは、どうやら中々険しいらしい。

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その日も結局失意に沈んだまま下校することになった。家に帰りつき、夕食、お風呂を済ませると居間でテレビを見ることもなく部屋に閉じこもる。さっさと宿題を終わらせ、翌日の授業の準備を済ませるとなんだか手持無沙汰になる。
そんな時、頭に浮かぶのはいつだって同じ人のことだった。

あのうっかり者の幼馴染は宿題を忘れてはいないだろうかと思って念のためメールを打つ。「文字ならいけるかも知れない。もし何か言われれば打ち間違えたと言えばいいのだ」とも一瞬考えた。
しかし、そんな風に逃げ道を用意している自分が嫌になって、結局「宿題ちゃんとやった?」と、彼女の名前抜きの文面にした。
それはそれで逃げなのかもしれない。頭の中で色々渦巻いて訳がわからなくなる。

そのままベッドにもぐりこんだところで、あれこれ考え込んでしまって目がさえてしまって眠ることなど出来やしない。
布団を頭から被って、唯、唯と口に出してみる。それだけでなんだか恥ずかしくて頬が熱くなる。

なにをやっているんだ、私は。

― ― ― ― ―

転機が訪れたのは、その次の日だった。
その日も今までと同じように呼び方を変えることはできず、鬱屈としたまま放課後を迎えることになった。

「唯ちゃん、帰ろうか」

「うん」

いつものように、一緒に教室を出ようとする。
「またね、真鍋さん」だとか「唯ちゃんまた明日」だとか、クラスメートたちは思い思いに私たちに声をかける。
そんな中、誰が投げかけたのかもわからない言葉に、思わず耳を疑った。

「唯、バイバイ」

彼女も、自然にバイバイと返す。
ただ、余りのショックに打ちのめされてしまって、相手の名前までは耳に入らなかった。

先を越されてしまった、というのと同時に、なんだか幼馴染を取られてしまったような感覚に襲われる。
それが悔しくて、悲しくて仕方なくて、気が付いたらその場から走って逃げだしていた。

― ― ― ― ―

勢いで学校を飛び出してしまった。
今の私はきっと酷い顔をしている。息は上がって、髪はぼさぼさで、涙はぼろぼろと溢れ出している。
こんな顔のままじゃ家にも帰れない。仕方がないので、いつもの通学路にある公園に立ち寄り、ブランコに座って心を落ち着かせようとした。

なにをやっているんだ、私は。

今まで散々繰り返してきた自問自答だった。
自分自身の中にある、幼馴染への思い。それは陽だまりのような温かい気持ちであったり、底冷えしてしまうような醜い独占欲だったりして、どうやってそれと付き合っていけばいいのか、私にはわからなかった。

しばらくきいきいとブランコを軽く揺らしていると、公園に駆け込んでくる人影が一つ。
それは、私の幼馴染。

ぜいぜいと肩で息をしている様子をみると、彼女も走って追いかけてきたのだろう。なんだか申し訳なくって、また泣いてしまいそうになる。

「和ちゃん……よかった、見つかった」

私の前まで駆け寄ってくると、息も絶え絶えに言葉を絞り出し、そのまま彼女はわんわんと泣き出した。

「ごめんね、私頑張るから、私のこと嫌いにならないで」

「私が、唯ちゃんを、嫌い?」

「だって、私と一緒に帰りたくないから、和ちゃんは先に行っちゃったんでしょ?」

「そんな訳ないでしょう。私たち、幼馴染じゃない」

「でも、なんか最近和ちゃんよそよそしかったし……」

「それは……」

それは、あなたのことをずっとずっと考えていたから、なんて言えるはずもない。
だけど、私が言い淀むのを見て、更に向こうの誤解は深まってしまったかもしれない。

「和ちゃんが言ってくれれば、頑張って私の嫌なところ直すから。だって、和ちゃんには、これからも大好きな幼馴染でいてほしいから」

その言葉を聞いて、やっと何故私がここまで呼び方なんて細かいことにこだわっていたのか理解できた気がする。

私も彼女のことを大好きで、だからこそ二人の間の距離を縮めたかったのだ。

その関係の変化の象徴、わかりやすい形として「唯」という呼び名にこだわっていたのだろう。

そしてそれに対するわだかまりは、単なる恥ずかしさだけじゃなくて、拒絶される恐怖。

でも、もう迷うことはない。
自分のために泣いてくれる幼馴染相手に、何を恐れる必要があるだろう。

もやもやとした気持ちに整理がついても、まだ少し恥ずかしさはある。
けれど、ここで勇気を出さなければ彼女の幼馴染でいる資格などない。
ブランコから立ち上がり、彼女の眼を見つめて、必死に言葉を紡ぐ。

「嫌なところなんてないわ。だって……唯は、私の大切な幼馴染だから」

やっと言えた。
胸のつかえが取れたようで、なんだかほっとしていると、唯がいきなり抱きついてきた。
驚きながらも、私も片手を唯の体に回しながら、彼女の頭をそっと撫でる。
抱きつき癖は昔と全然変わらない。

「これからもよろしくね、唯」

返事の代わりに、唯は腕に込める力を強めた。
今はただ、こうやって唯の温もりを感じていたかった。




おしまい!



クリスマスが今年もやってくる、なんて歌が街中にあふれる季節に、私はキリストの誕生日ではなく幼馴染の誕生日について思いを馳せていた。
マフラー、手袋、コートと防備を固めてもなお耐え難い寒さの中、マッチ売りの少女が幻影の中に幸福を見出だしたように、私は誕生日プレゼントに喜ぶ和ちゃんの姿を思い浮かべ、必死に気を紛らわせようと試みる。
そのプレゼントの包みの中が決まらないために、私はこんな凍える街を彷徨っているのだけど。

何が欲しいかなんてことは本人に聞ければ一番良いのだろうが、実際質問してみると「欲しいもの?今は特にないわね」とあっさりかわされてしまった。
その上「唯はいつも月末財布の中身がピンチじゃない。クリスマスまで重なるんだし、無理しないでいいわよ」と見事なカウンターまで食らう始末である。

無理するとかしないじゃなく、私はただ、和ちゃんに喜んでほしいだけなのに。

もうすぐ、離れ離れになってしまうから、せめて、同級生として過ごせる最後の誕生日には今までで最高のプレゼントをしたい。

受験、か。
もし和ちゃんが滑り止めの大学に来ることになれば、私の目指す大学に比較的近くなるんだよね。そしたら、ずっと一緒にいられるのに……なんて、我ながら酷いことを考えるものだ。ちら、とでもそんな考えを抱く自分自身が嫌になる。

物心ついて以来、私はずっと和ちゃんと一緒にいた気がする。
楽しい思い出もそうじゃない思い出も、全てのシーンに和ちゃんが写っている。
そんな幼馴染とついに別の道を歩むことになるなんて、何だか実感がわかない。今の私には和ちゃんのいない生活が想像できない。

決して大学が違うからといって一生会えないなんてわけじゃないのは分かっている。今の時代、連絡を取ろうと思えば距離なんて問題ではないだろう。
それでも、離れ離れになって、日常の中から私が消えて、いつしか私は和ちゃんに忘れられてしまうかもしれないという漠然とした不安は胸の底に澱となって積み重なる。

私自身の覚悟ができていようといまいと、別れの時は刻一刻と近づいていて、その歩みは止めようもない。

思わず吐いた白いため息が、冬の厚い雲に覆われた空に吸い込まれていった。

― ― ― ― ―

問題演習が一段落し、軽く伸びをする。
今頃、唯もちゃんと勉強してるかしら、なんて、ふと頭に浮かぶのはあのどこか危なっかしい幼馴染のこと。余計なお世話なのはわかっているが、それでもつい心配してしまう。

私が第一志望の大学に通ってしまえば、唯とは離れた土地に住むことになる。それは仕方のないことだけど、やはり心苦しい。
単に寂しいという以上に、私がいなくて唯は大丈夫だろうかなどと思ってしまう。言葉にしてしまえば傲慢としか言いようのない不安なのだけど。

私は、唯になにを望んでいるのだろう。
傍にいてくれることだろうか?確かにそれはその通りだ。でも、それが一番であるとは思えない。
じゃあ、唯が自立して、一人で立派に……なんて、親じゃあるまいし。

色々考えてはみたが、多分、私が願うのは極々単純なことなのだ。
つまり、唯が笑顔でいてくれること。

それを今までのように隣を歩みながら見守ることができればそれが一番いいのだろう。でも、ずっと一緒にいることなんてできないから、私がいなくても笑顔でいられるようになって欲しい。

別離を前提とした、考えようによっては寂しい望みではあるけれど、それでも切に願わずにはいられなかった

― ― ― ― ―

終業式が済み、私たちは高校生活最後の冬休みを迎えることになる。誕生日前に和ちゃんと帰る機会もこれが最後になってしまう。

「ねえ和ちゃん、一緒に帰ろう?」

その一言を発するのに何故か妙にためらってしまう。以前は何も考えずに誘えたのに。
和ちゃんは特に意識する様子もなく「ええ」とだけ返した。

冬の通学路は憂鬱で、せっかく隣に和ちゃんがいるのについつい黙りがちになたしまう。
口を開くだけで寒いというのも一因ではあるが、それ以上に私の中で和ちゃんへの思いが複雑に渦巻いていて、言うべき言葉をその奔流の中から探し出すのに必死だった。

「唯、大丈夫?何か悩み事?」

そんな私を見かねたのか、和ちゃんが先に口を開いた。一緒に帰ろうと誘った側が黙り込んでいるのだ。怪訝に思うのも無理はない。

「あ、いや、その……プレゼントどうしようかなって思って」

「前にも言ったけど、別に気にしないでいいのに」

またもやあっさりと返される。違うんだ。プレゼントは何がいいかなんていうのはあくまで表面的な話で、本当はもっと違うことに悩んでいるのに。少しずつまとまりつつある思考の中から、必死で言葉を拾い上げた。

「和ちゃんにとって、幸せってなに?」

その問いの形が正しかったのかはわからないけど、今の私にできる精一杯の問いかけだった。
和ちゃんにとってこの質問は予想外だったと見え、黙り込んでしまった。お互い無言のまましばらく歩くと、ぽつりと和ちゃんは答えを発した。

「唯が幸せでいてくれること、かしらね」

意外な返事だった。そこで私の名前が出てくるなんて思いもしなかったから。
私の幸せが、和ちゃんの幸せ、か。正直想像もしていなかった答えだった。
その回答を吟味していると、逆に和ちゃんに問い返される。

「じゃあ、唯にとっての幸せって?」

「和ちゃんが、ずっと傍にいてくれること」

とっさにそう返してしまった。それを聞いて、和ちゃんの表情が少し動く。
そのわずかな変化の中には様々な感情がないまぜになっているように見えて、私はそれ以上和ちゃんにかける言葉を見つけられなかった。
和ちゃんは「そう」と短く返事をし、その他には何も言わなかった。

重い沈黙に支配されながら、馴染んだ通学路を二人並んで歩く。
その道は、何故かいつもより長く感じた。

― ― ― ― ―

無事に家にたどり着くと、思わずため息を吐いてしまう。結局あの後、一言も話せないまま和ちゃんと別れてしまった。
先に帰ってきていた憂は元気なく居間にへたり込む私を心配そうに見つめてくる。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「うん……」

和ちゃんの言葉を改めて思い返していたため、つい生返事になってしまう。

私が幸せなら、和ちゃんも幸せになってくれるの?
じゃあ遠くになんて行かないでよ。ずっと傍にいてよ。
そうじゃなきゃ、私幸せになんかなれないよ。

そんな考えがぐるぐる渦巻いていて心の整理がつかない。
和ちゃんのために、私はどうすればいいんだろう。私の幸せってなんだろう。

黙り込む私に、憂が改めて話しかけてくる。

「なにかあったの?」

「……憂にとってはさ、何が幸せ?」

質問には答えずに、逆に問い返す。
和ちゃんにしたのと、そして私が投げ掛けられたのと同じ問い。

憂は少し考え込んだけれど、割合すぐに答えを出してくれた。

「私は、大切な人たちがみんな笑顔でいてくれたら幸せかなあ」

「なんで、そう思うの?」

「だって、大切な人が笑顔なら、私も笑顔になれるから」

それはよく理解できた。私がプレゼントを探していたのも和ちゃんに笑顔になってほしいからで、和ちゃんが喜んでくれたら私だって嬉しい。

ただ、もう一つの問いは胸の中に仕舞い込んだ。それは憂に聞くべきことではないから。

「もし、その笑顔を直接見ることができなくても、幸せになれる?」

その答えは、私自身が出さなくてはいけない。

― ― ― ― ―

学校が冬休みに入り、クリスマスイブも終わり、ついに私の誕生日がやってくる。
私の家での誕生会が行われる前に、日付をまたぐ瞬間を平沢家で過ごそうという誘いを唯から受け、私はありがたくその提案に乗ることにした。

軽音楽部の部員らが集まるクリスマスパーティーはイブに済ませている。
25日の「本番」には結局私と平沢姉妹だけでゆっくりささやかに祝うことにした。

「和ちゃん、お誕生日おめでとう!」

日付を跨いだ瞬間に、二人からお祝いの言葉をもらう。
そして姉妹揃ってハッピーバースデーを歌い出した。二人の笑顔につられて私も頬が緩んでしまう。
歌が終わり、ひとしきりわーわーぱちぱちと騒いだ後、二人はプレゼントを差し出してくれた。

「まずは私から」と憂が包みを手渡す。さっそく開けさせてもらうと、そこには暖かそうなセーターが入っていた。

「受験生だし、風邪を引かないようにと思って」

「ありがとう。大切に着させてもらうわね」

手にとって柔らかな感触を何度か確認した後、そっと包みに戻す。
憂らしい思いやりを感じられるプレゼントだと思った。

「次は私だね」

唯が少し緊張したような面持ちで言う。
差し出された紙袋は小さく、その表面には近所の神社の名前が表記されていた。

「これって……」

中身を確認する。赤と紫のお守りが一つずつ。
そこに書かれているのは「学業成就」「健康祈願」の文字。

「えへへ、学業に関してはまず私が頑張らなきゃなんだけどね」

唯は恥ずかしがるように俯いて頭を掻いた。少し照れたような微笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「私にとっての幸せってなんだろうってあれからずっと考えてて、それで、たとえ和ちゃんと離れ離れになっても、和ちゃんが夢をかなえてくれて、元気にしていてくれたら私は幸せなんだって気がついたんだ」

私が志望校に受かるということは、即ち唯とのお別れを意味する。
それがわかった上で尚「学業成就」のお守りをプレゼントしてくれた唯の思いは想像するに余りある。
そして、私とずっと一緒にいるのが幸せと言ったときの、唯のどこか縋るように目を伏せた姿をふと思い出す。きっと今まで築いてきたものが崩れ去るのが不安だったのだろう。

「昔のアルバムを全部引っ張り出してきて、和ちゃんとの思い出を一つ一つ確かめて、それでわかったんだ。ちょっとくらい遠くに住むことになったって、私たちは何も変わらないって。そう信じていれば、きっと大丈夫だって」

でも、唯はその不安を立派に乗り越えることができた。

唯は強い。
私がすぐ傍にいなくたって、きっとずっと笑顔でいられるくらいに。

それがとても嬉しくて、私は思わず唯を抱き締めていた。
私からこんなことをするなんて記憶にはなく、唯も驚いているようだけど、誕生日なのだから少しくらいはいいだろう。

「唯、大好き」

誕生日だから、いつもは言えないようなことを言ってみてもいいだろう。
正直とても恥ずかしく、唯はいつもこんな台詞を言っているのかと思うとある意味尊敬できる。

「じゃあ私は大大好きだもん」

なんたって、こんな風に平然と返してくるのだから大したものだ。
でも、私だって。今日は特別だもの。

「じゃあ私は、愛してるわ」

「私だって、あ、愛してるよ!」

愛、なんて日頃は到底使えないようなその言葉が、きっと今のお互いの気持ちを表現するには最もふさわしいのだろう。
それは、互いの幸せをただひたすらに願う気持ち。

一晩遅れではあるけれど、神に祈ってみようか。

遠い、けれども同じ空の下、愛する人が笑顔でありますように。


これでおしまいです。



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