私の名前は信代。古臭い名前で、不細工な名前。

名は体を表す、とは良く出来た言葉で、私の顔も不細工だ。顔に自信はない。

3年2組で、私だけ浮いている。みんな美人なのだ。顔が整っていて、テレビに出てくるモデルと大差ない。

……私なんかとは、大違いだ。つくづく、自分が嫌になる。

ただ、そんな私にも恋は訪れたようだった。

恋と言えるかも怪しい、それは片想いにすぎないけれど。

私、中島信代は、クラスメイトの田井中律に恋をしてしまった――。

信代「……なんて、ね」

私は携帯電話の画面を見ながらつぶやいた。液晶画面はメールの送信画面になっていて、『律、大好き』とだけ書かれている。

このメールを送ったら、律に私の想いは届く。届くだけで、叶うわけではないのだが。

信代「……卒業してからも、ずっと片想いのままなんだろうな」

ため息が漏れる。憂欝。

律の顔を脳内に思い浮かべる。三年間ずっと恋い慕ってきた彼女の顔は、容易に思い出せる。

信代「……私みたいなデカ女が、律に釣り合うわけないのに……、何考えてるんだろ、私」

目を瞑る。ふと、澪の顔が浮かんだ。律と澪はいつも一緒で、私はそれに嫉妬している。

信代「私が、澪だったらなぁ」

長く艶やかな黒髪。凛とした顔。スマートな体格。私とは縁のない、美貌。

胃がきりきりする。

信代「……いいや、寝よう」

ちらりと、横目でカレンダーを見る。28日のところで×印が付いている。

明日は、3月1日。――卒業式だ。

明日以降、律と会える機会はほとんどなくなるだろう。律と澪は、大学が同じだけれど、私は違うし。

行き場のない恋心を抱えたまま、私は眠ることにした。


夢で、律に会った。

彼女は私に微笑むばかりで何も言わない。

だんだんと、律の姿が遠ざかる。

待って、とも私は言えず、律が遠くに行くのを見ていることしかできなかった。

律――

私は彼女の名を呼んだ。彼女は微笑んでいる。微笑むばかりで何も言わない。彼女の姿が点になっていく。

もう、律とは会えない。

夢の中の私も、そう思った。

そこで、目が覚めた。


太陽はカーテンの向こう側で、さんさんと輝いていた。朝独特のひんやりとした空気が、起きたばかしの私を襲う。寒い。

信代「……あぁ、早く起きなきゃ」

卒業式。今日で私は、高校生を卒業するのだ。

それが誇れることなのか、悲しむべきことなのか――私にはわからなかった。

信代「……律」

無意識のうちに呟いている自分に気づいて、私は首を振った。


早めに学校に行くことにした。いつも遅めに登校しているので、最後の日くらいは早く登校しようという、ほんの気まぐれだった。

まだ七時半を回ったばかしだからか、人気はない。いや、あった。いちごがいた。

信代「おはよう、いちご」

いちご「……おはよう」

いつも通り無愛想な声。顔は可愛いのに、もったいない。

信代「今日で最後だね」

いちご「…………」

信代「寂しくない?」

いちご「…………別に」

彼女はそっぽをむいた。本当は、寂しいのかもしれない。

それきり、いちごと私の間に会話はなかった。十分ほどたって、ぽつぽつと生徒が学校に来た。

手をつなぎながら教室に入ってくるエリとアカネ。

ぴしっ、とした面持ちで席に座る風子。

大股で歩く姫子。

そして――。

二人仲良く談笑し合っている、澪と律。

信代(……律、楽しそう)

自分の席に座りながら、彼女たちを眼で追う。

教室の後ろの方から、唯と紬の声。けいおん部メンバーは全員、唯の席に集まった。

盗み聞きする趣味はないので、律たちの会話には耳を貸さなかった。ただ、時折律の笑う声が聞こえて、胸が痛くなる。

信代(……私もあの中に入りたい)

ふと、そんな欲求が湧く。

律ともっと、会話したかった。律ともっと、遊びたかった。律と同じ壇上で、ロミオとジュリエットを演じてみたかった――。

その願い事はもうかなわないということを知っているのに、それでも願うことを止めれなかった。

直に朝のホームルームが始まって、さわ子先生が教室に入ってきた。出席をとって、卒業式の並び方を確認する。

まだ式は始まってもいないのに、なんだか感傷的な気持ちになる。寂しい、という気持ちとはちょっと違う。切ない、と言った方が的確かもしれない。

ホームルームが終わり、教師がクラスを出ていく。卒業式は九時に開かれるらしい。まだ、二十分ほど空いている。

春子「もう終わりだね」

私の席に、大きな影が出来る。近田春子。私の友人。

春子の顔を見る。気のせいか、うっすらと目に涙がたまっている?

信代「切ないねー」

ため息が自然に漏れ出た。


春子「いいねぇ、けいおん部は。楽しそうで」

信代「行く大学もみんな同じらしいからね。仲が良くて何よりじゃん」

胸が痛むのを理解する。

私は後ろの方を向いた。律たちが集っている。

律の顔を見つめる。目が合うことを期待しながら。でも律は、向こうでの会話に夢中らしい。私の方を振り向くことはなかった。

春子「何見てるの?」

信代「律」

春子は得心した顔つきになる。私は春子にのみ、自分の想いを伝えている。律が好きなんだ、と。

春子「……するの?」

信代「なにを?」

春子「告白」

信代「まさか」

春子「でも最後だよ?」

信代「律の返答は知っているから」

春子「…………そっか」

沈黙が下りる。

私はじっと、律を見つめる。

律は笑っている。微笑んでいる。微笑むばかりで、私の方は振り向かない。

信代「……律」

春子「声、出てるよ」

私は口を固く引き結んだ。

時計が九時の針を刺しても、律と私の視線が交錯することはなかった。

卒業式は、あっけないほど早く終わった。卒業証書をもらって、校歌を斉唱して、校長やら二年生の言葉を聞いたら、すぐ閉式してしまった。

三年生はいったん教室に戻った。この時点ですでに泣いているものも、若干名いた。

春子「……早かったね」

春子が私に近づいてくる。今度は気のせいではない。彼女は泣いていた。

信代「ハンカチ、いる?」

春子「……泣いてる? 私?」

信代「泣いてる」

春子「いけないなあ……泣かないって決めたのに」

信代「なんで?」

春子「最後くらい、笑って終えたいでしょ」

後ろの方で、ぽん! と大きな音がした。卒業証書を入れた丸筒で、誰かが遊んでるんだろう。

唯「ハイパーソード!」

どうやら、丸筒で遊んでるのは唯のようだ。もう一度、ぽん! と音がする。

律「なんのー!」

律まで、丸筒で遊んでいた。

情緒も何もなくなるね、と涙を拭いながら春子が言う。

信代「そうだね」

でも、あの中に雑ざりたい、と私は思ってしまうのだった。


帰りのホームルーム……高校最後のホームルームは、それから数十分後に行われた。

そこで、さわ子先生に寄せ書きが贈られた。優勝旗返還の歌とともに、唯が渡す。

さわ子先生のお別れのあいさつ。春子の方を見やる。肩がふるえている。涙をこらえているのかもしれなかった。

もう、終わりなのだと。

私の冷静な部分が、そう思う。

寂しい? 悲しい? 切ない? むなしい? はかない?

ごちゃ混ぜになったたくさんの感情が、私の心を薄霧のように覆っていた。

もう、終わり。

私の青春は、今日を持って閉幕です。自分自身にそう言い聞かせた。

うれしいことではないように、思えた。


学校を出たのは、太陽が西に傾き始めたころだ。

春子「終わった」

信代「終わったね」

春子「楽しかった? 高校三年間。私は楽しかったな」

信代「私も楽しかった……かもしれない」

春子「そっか」

信代「…………」

春子「顔、暗いよ?」

信代「…………そう?」

春子「心残り、あるんじゃない?」

信代「…………」

図星、だった。

信代「……最後なのになぁ」

言葉が、口から滑り落ちる。言いたいことや伝えたいことが、私の中で氾濫する。

信代「告白したいな」

春子「律に?」

信代「うん」

頭の中に、律が浮かぶ。律は微笑んだまま黙して何も言わない。だんだんと、私との距離が離れていく。

律が私から遠ざかっている?

それとも、と私は思う。

私が律から遠ざかっている?

信代「……せめてさ、想いくらいは伝えたいな」

きっと、後者が正解だ。私が律から遠ざかっているのだ。

春子「もう、同窓会くらいでしか会う機会はないんだろうしさ」

色白で背の高い友達は空を仰いだ。

春子「少しくらい大胆になってもいいんじゃない?」

信代「でも、結果はわかりきっているよ?」

春子「結果がわかりきっていても、伝えるか伝えないかの違いは大きいと思うな」

信代「…………」

伝えたい? もちろん伝えたい。律に私の気持ちを知ってほしい。理解してほしい。

大胆になろうか? どうせ最後なのだから。

心の中で、何かが燃え上がる。

私は携帯を取り出した。

律の電話番号は知っていても、今までかけたことはなかった。これが初めての電話。

律に電話番号をコールする。

数秒して、律が出た。

もしもし、というその挨拶は、聞きなれた律の声。

信代「あのさ、律――」

信代? と聞き返す律。

信代「うん、私。信代」

それよりさ、と私は言葉を重ねる。

信代「ちょっと、言いたいことがあるんだよね」

なに? と律は尋ねてくる。

電話越しでも、告白するのには、結構勇気が必要だった。

信代「今から言うことはさ、冗談なんかじゃないよ?」

ああ、わかったよ――と律は答える。

信代「律、私ね、律のこと大好きなんだよ」

え、とうろたえる声。

信代「友達同士の好き、じゃなくてさ、愛してるとかの好き、なんだけど」

電話の向こう側で、律が慌てふためいている様子が目に浮かぶ。

信代「律、どう?」

数十秒の沈黙。答えはわかっている。律の返答は知っている。なのに緊張してしまうのは、彼女が了承してくれるのを期待しているから。

律「…………悪い」

たった二文字の、返事。かすれかすれの律の声。その答えが返ってくると理解していたのに、やはり、辛い。

信代「ううん。いいよ。伝えられて、満足したし」

律「…………いや、何か私も、悪かったな」

信代「ごめんね、最後なのに」

律「いや、気にしないでいいよ。あれだ、これからもさ、友達だからな?」

信代「……うん」

声が震えていない、自信がない。

通話が切れる。耳につーつー、という音がこだまする。

こうして、私の初恋は青春と同時に終わったのだ。


春子が大丈夫? と声をかけてくれた。

うん、平気。ちょっと悲しいけどね、と私は答えた。

私たちの会話は、そこで終わった。その沈黙が心地よかった。

思う。

私の青春は、もう手遅れだ。終わってしまったものをどうにかしようなんて出来ない。覆水は盆に返らないのだ。

同じく私の初恋も、実らぬまま終わってしまった。

だけど、私たちの毎日はまだ続いていく。大人になってもまだ続いていく。私はまだ十八歳、人生のプロローグ地点だ。

もしかしたら、いずれ律と会えるかもしれない。同じ会社に入ったり、町で偶然会って一緒にお酒を飲んだり。

青春も初恋も終わってしまった。だけど、人生が終わったわけじゃない。

春子「信代、空が綺麗だ」

その声に、私は空に視線を移した。

深い深い青色の春空。それが限りなく広がっていた。

                                 終わり



最終更新:2011年02月13日 23:09