○   ○   ○

……さちゃん……ずさちゃん……!

―――誰かが呼んでいる

…あずさちゃん!起きて、梓ちゃん!

―――誰…?


紬「梓ちゃん!」


梓「………!」

梓は目を覚ました。
虚ろに瞳を泳がせ、ゆっくりと辺りを見回す。

紬「良かった!目を覚ましたのね!」

目の前には紬の姿があった。
梓は少しずつ意識を取り戻し、自分が眠っていたことに気がついた。

紬「私もさっき目を覚ました所なの。すぐ横で梓ちゃんも寝てたからびっくりしちゃった」

梓「…ムギ先輩?」

梓はろれつの回らない口で声を出した。

紬「今日はもう誰も来ないわ。早く帰りましょう」

目の前の紬はそう言うと、鞄を持って部屋から出て行ってしまった。
梓は体を起こし、時計を見た。

梓(…私は確か、ムギ先輩と融合して…それから…)

上手く働かない頭で記憶を辿っていく。

梓(気付いたら眠っていた…。そしてムギ先輩に起こされた)

時間はそんなに経っていない。

―――あれは夢だったの?



梓「…ムギ先輩?」

梓は自分に問いかけるように呟いた。

梓「そこにいるんですか?」

誰もいない部室に梓の声だけが響く。

梓(…融合は成功したの?)

梓はもう一度、自分の意識に耳を傾けた。

そして自分の中をどんなに探しても、紬の意識は見当たらなかった。



しかし梓は心で理解していたのだ。

今、自分の中に確実に紬がいるということを。

梓(私の中にムギ先輩を感じる…!どこにいるんですか?先輩…)


梓がどれだけ意識を沈めても、居るはずの紬は何も答えなかった。

梓(先輩…私の声が聞こえますか?)

梓は紬の存在を確かに感じながらも近づくことさえできない。




それもそのはずだった。

紬のゴーストは、梓の意識の及ばない無意識階層の遥か下に存在していたのだ。

もはや紬のゴーストは誰にも認識されることはない。

宿主である梓でさえも、その存在だけをほのかに感じることしかできなかった。



融合が終わったいま、紬が紬であることは紬以外の誰にも証明して見せることが出来なくなってしまった。


梓(そんな…!先輩は言ってたじゃないですか!私は消えないって…)

梓はなんとかして紬のゴーストを確かめようとした。

紬との会話を思い出す。

梓(…先輩は自分を証明するために私と融合したんだ。
  先輩が先輩であるために必要なこと…それを確認できれば!)


はっ、と梓は閃いた。


あの曲。

あの曲を弾くんだ。

そうすればムギ先輩は戻ってくる。


梓は急いで音楽室へ行った。


梓はゆっくりとピアノの前に座った。


梓(聞こえていますか?ムギ先輩)

梓(あの曲を…先輩が弾いていたあの曲を今、私の体を使って弾いてください!)

梓は震える手で鍵盤に指を置いた。

体はその場でぴくりとも動かないのに、梓の額には汗がにじんでいた。


それでも紬は何も反応を示さない…

梓(先輩……)

梓が望みを捨てかけたその時だった。




ポロン…


梓の指が、自然と白鍵に沈んだ。

梓「!」

梓は驚いた。
今のは自分の意志なのか、紬の意志なのか…
それ以上は続かず、また指は小刻みに震えたまま鍵盤を被っていた。

梓「………」

少し指に力を入れてみる。


ポロロン…


今度は並ぶように音が繋がった。

梓「…!」

次に梓は自分の思うように指を動かしてみた。

すると、今までピアノなんて弾いたこともなかったはずなのに
梓の指が自然な和音を作りだし、美しい旋律を奏で始めた。


梓「……これは…」

梓は次にどの音を出せばいいか分かっていた。

鍵盤を押す力加減や抑揚、腕の動きの全てが今の梓には分かっていた。

自分の内側から音が溢れ出て来るように指先へ伝わる。

誰もいない音楽室で、梓は一人ピアノを鳴らし続けた。


梓「そこにいるのは……ムギ先輩なの?」

梓は呟いた。

梓「それとも、私……?」


梓は自らの体で奏でる曲が、紬がかつて演奏していた曲ではないことに気付いていた。

梓(これは…ムギ先輩の曲じゃない…)

しかし、梓はもう一つ気付いていた。
ひとりでに紡がれる自分の演奏が、紬のゴーストによるものだと。

梓(ムギ先輩は確かに私の中にいる…じゃあこの曲は誰の曲なの?)


美しくも哀しい旋律は、梓を不安にさせた。

梓「これは、私の曲……?」

次第に曲は不協和音を織り交ぜ、不気味に膨らんでいく。

梓(違う…私の曲でもない…!?じゃあ……)

名もなき音楽を遮るように、梓ははっきりと口を開いた。



梓「そこにいるのは、誰?」



演奏が止まった。

梓の腕が、手が、指が、次に鳴らすべき音を見失ったのだ。



梓「……わたしは……誰?」


ひとつ、梓は理解した。

紬がいなくなってしまったことを。


自分の中でしか感じることのできない紬の存在は、もはや
外の世界において消滅したと同義だった。

ゴーストの、実質的な消失――


梓「そんな……嘘……」




梓は理解した。

私は殺してしまったのだ。

琴吹紬という、一人の少女を…




梓「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」



 ○   ○   ○

――月日は経ち、唯たちは卒業し梓は3年生になった。

放課後、帰り道。

梓「唯先輩たち、上手く大学でやってるかな?」

憂「一人暮らししてもう1カ月も経つんだし、もう特に心配する必要もなさそうだよ」

純「…先輩の心配よりも梓。あんたはどうなのさ」

梓「え?なにが?」

純「いや、ここんとこずっと落ち込んでたみたいだし…」

憂「…ごめんね、梓ちゃん。新入部員のこと…」

梓「ううん。憂たちが気にすることないよ」

純「でも…」

梓「いいんだ。私はもう十分楽しんだから」

憂「……梓ちゃん、変わったね」

梓「…そうかな」

純「私もそう思う。なんか優しくなったというか…」

梓「もとは優しくなかったってわけ?」

純「ち、違う違う!なんていうか、雰囲気が柔らかいというか…」

梓「………」

唯たちが卒業した後、軽音部には憂と純が加わり
軽音部は存続したかに思えた。

しかし、梓たちが3年生になっても新入部員は一人も訪れず
梓たちの必死の勧誘も虚しく、軽音部は廃部となってしまった。

純「それに、なんだか色々と吹っ切れてるようにも見えるよ」

梓「まあね。悩んでてもしょうがないから」

憂「…寂しくないの?」

梓「……寂しくないよ。会おうと思えばいつだって先輩たちには会えるんだし。
  それに私、気付いたんだ」

梓「先輩たちと一緒じゃないと、駄目なんだって。
  意味がないんだって。だから今年の軽音部はもう、いいんだ」

純「…そっか」

憂「梓ちゃん、私たちもいるからね?」

梓「ありがとう、憂。心配しなくても私はもう大丈夫だよ」

梓は笑顔で言った。

純「…やっぱり変わったよ」

梓「え?」

純「いや、なんでもない!
  私んちこっちだから、二人ともまたね!」

純は道を曲がり、行ってしまった。

梓「…純ったら、変なの」

憂と梓の二人は特に会話することもなく、
ただ並んで歩いた。

憂「…じゃあ梓ちゃん、私こっちだから…」

憂が梓に別れを告げる。

梓「うん…バイバイ」

梓(…寂しくない…私は寂しくなんか、ない)

梓は心の中でつぶやいた。



―――嘘。



梓はどうしようもなく孤独だった。

態度や口でごまかしていても、唯たちが卒業してから
梓の心にはぽっかりと穴が空いてしまっていたのだ。

そして何よりも梓は、紬を失ってしまったあの日から
毎日のように罪悪感に苛まれていた。

自分の中に居る、かつて好きだった人はもう私に微笑みかけてくれることはない…

優しい笑顔を向けてくれることもない…。

梓の好きだった紬は消えてしまったのだ。


梓(…ムギ先輩のいない軽音部なんて、私には必要ない)

梓(ムギ先輩のいない毎日なんて、意味がない)


梓は失って初めて、自分がどれだけ紬を求めていたのかを思い知った。

紬が梓を求めていたように。

梓もまた、紬を求めていた。


紬があの時話してくれた事が、今の梓には良く分かる。

梓(先輩は私と一緒になることを望んだ。
  そしてそれが、自分が自分であることの証明だと言った…)

梓(ムギ先輩…私はもう一度、先輩の笑顔が見たい)

梓(もっとたくさんおしゃべりしたかった。もっと先輩の事を知りたかった)

梓(その願いが、私が私であるために必要なことなのに…)



―――私は誰?



―――暗い闇


刺すような冷たさが足元の皮膚を伝わり、次第に体を蝕み始める









―――恐れ、不安、孤独…


そして、希望



孤立した自己は自分と他者の境界を曖昧にする。



夜の海に静かに溶け込んでいく、体。



朽ちてゆく肉体はやがて、そこに宿るゴーストを解き放つ。



…先輩は、自分を見つけることが出来ましたか?



…私の声が、聞こえますか?




死が、梓を孤独から救う



―――幸せな死を

                              おわり。





※EDはこの曲でどうぞ

最終更新:2011年02月13日 19:40