紬「わたしはね、梓ちゃん。過去の記憶がほとんどないの。
  これがどういう意味か、分かる?」

紬が問いかけた。

梓「過去の記憶が…ない…?」

梓はショックを受けた。

紬の体が全身義体だと知らされた時のように、信じられないという思考だけが
梓の脳を支配していた。

紬「正確には高校入学以前の記憶がないの。
  前に梓ちゃんに話した新女子学院中学校のこととか、4歳からピアノを弾き始めたとか…
  記憶ではなく、記録として私の過去に残っている…」

紬「だから私の過去をどんなに探っても、断片的な点の情報しか記録されていない。
  それらの前後にあるはずの記憶…想い出と呼べるものが、私にはないの」

紬「だけど、私が桜ケ丘高校に入学してからははっきりと覚えている。
  そのなかでも軽音部での想い出は他の何物にも替えられない、大事な想い出…」

紬「そして、私にとって私が私たるべき存在の根拠はそこにあるの」


紬が立ち上がり、梓の目をまっすぐに見つめた。

梓はその感覚に覚えがあった。

遊園地での事件の後、紬が梓に義体であることを明かした、あの時と同じ感覚だ。

梓は吸い込まれるように紬の瞳を見つめ返す。

紬「それは、この軽音部での音楽活動であったり、皆とのティータイムであったり…
  そして梓ちゃんに対する特別な感情でもある」

紬は梓の方へ歩み寄って行った。


紬「梓ちゃんを想う時、私の心が、他の誰に対しても起き得ない特別な感情に支配される。
  自身と他人を隔てる境界を自ら破壊したくなる」

紬「梓ちゃんの奏でる音楽、梓ちゃんのさりげない動作のひとつひとつ、梓ちゃんの小柄な体…
  私と同じように義体化していながらも、その義体すら私の心を掴んで離さない」

紬は梓の目の前に立ち、言った


紬「私は、それが"好き"という思いなのだと気付いてしまったの」


梓は紬の瞳に映る自分を見ながら固まっていた。

心臓が激しく鼓動し、紬以外の景色が視界から消えさる。


二人はしばらく見つめあった。

梓は何か言わなければいけないと思いながらも、何を言えばいいのか分からない。

シンプルなはずの気持ちは、言葉によって伝えようもないほど梓の心で複雑に絡み合っている。

紬「…私は怖いの」

紬が静寂を破った。

紬「軽音部の想い出、梓ちゃんと過ごした2年間の想い出…
  私にとって、決して失いたくない、かけがえのない記憶」

紬「けれど、もしこのかけがえのない記憶が幻だとしたら?」


紬は表情を変えずに言った。


紬「…私は、怖いの…」


紬「もしかしたら私は誰かによってプログラムされた、ゴーストのないただの人形かもしれない…」

紬「様々な機械によって塗り固められた体と、誰かによって組み立てられた電脳…
  本当は私という存在は、誰かによって定められた目的のために作りだされた、
  言わば偽物の生命体なのかもしれない…」

紬「それでなくても、偽りの記憶が自分自身を定義し得ないなら、私が私である根拠は
  ひどく弱々しいゴーストに委ねられてしまう」


紬「だから私は信じたいの」


紬が力強く言った。


紬「自分が自分であるための確たる証拠が、過去の記憶にはないということを」

紬「私が私であるために必要なことは、今現在の私の『意志』にあるということを」

紬「そしてその『意志』とは願いや希望、つまり自分自身の未来にあるということを…」

紬「私は、梓ちゃんのことが『好き』」

紬は静かに言った。

紬「この特別な感情は決して失いたくない、私が私であるために大切なもの…」

紬「私の『意志』は、梓ちゃんとずっと一緒に居たいと願っている」

紬「そしてこの願いこそが、私が私であることの証明であり、
  結局自分と他者を分け隔てている事の根拠に他ならない…」

紬「…私の願いは他にもたくさんある。
  もっと軽音部にいたかった。
  もっとみんなとバンドをしていたかった。
  でも、そのどれも卒業してしまえば続かない…」

紬「私は、私の願いを叶えて初めて、信じることができる。
  自分が他の誰でもないオリジナルの自分であるということを…」


紬は梓をそっと抱いた。


紬「だから、梓ちゃんに私の願いを託すわ…」

紬「私が私であることを証明するために…」

紬「わたしと融合してほしいの」

紬は梓を抱きしめたまま言った。

梓「……融合…?」

梓はやっとのことで口を開いた。

紬「そう。私の願い、つまり梓ちゃんとずっと一緒にいるという願いが叶った時、
  私は他の誰でもない自分に近づくことができる」

紬「…私の記憶とゴーストを、梓ちゃんに預けるわ」

梓「…それが、融合…」


梓は、紬の言う融合が具体的に何をもたらすのか
想像もつかなかった。


梓「融合したら、私たちはどうなるんですか?」

紬「それは私にも分からない。だけど安心して。
  私の電脳からゴーストと記憶を取り出して梓ちゃんの無意識階層に置いておくだけ。
  基本的に梓ちゃんがベースになるようにするから」


梓は抱きついたままの紬の顔を見れず、紬がどんな気持ちで
話しているのか分からなかった。

梓「…待って下さい。それじゃあムギ先輩の体は、残った義体はどうするんですか?
  ムギ先輩は消えてしまうんですか?」

紬「私は消えないわ。残った体には、私の模擬人格のAIを格納しておくから
  私を構成していた義体と電脳は今まで通り私として振舞う」

紬「既に私の行動記録の全てをプログラムした電脳システムを作ってある。
  私の記憶とゴーストが外部に移動したときに起動するようにも設定してある」

紬「あとは梓ちゃんと融合するだけ…。
  今の私には梓ちゃんしか見えない。梓ちゃんでなければ駄目なの」


抱いていた腕を解き、紬が梓の目を見ながら言った。


紬「お願い梓ちゃん。これは私のわがままだけど、
  私のために……………お願い」

梓「………」


全てを知った梓は、紬の悩み、苦悩、葛藤する気持ちが、なんとなく理解できた。

全てを話してくれた紬が、梓だけを望んでいる紬が、自分と一緒になりたいと言っている。

そして何よりも梓は、自分が紬に求められていることが嬉しかった。

融合した先がどうなるのか梓にも紬にも分からない。

だが、自分が紬の願いを聞き入れることで紬を救うことができるなら…

それに紬が卒業したら今までのように毎日会うことは出来なくなる。

独りで取り残されるくらいなら、紬と一緒になったほうが幸せだと梓は考えた。



梓「………分かりました。ムギ先輩の願いは、私の願いでもあります。
  それで先輩が答えを見つけてくれるのなら…」

紬「…ありがとう。梓ちゃん」


真剣な表情は崩れ、紬は幸せそうに微笑んだ。

紬「…最後は軽音部の部室でやりましょう。
  私のこの体ともお別れしなくちゃいけないから…」

梓は紬に連れられ、音楽準備室へと入っていった。



いつもと変わらない部室――

梓と紬は長椅子に隣同士で座り、お互いの外部端子にコードを刺した。


二人とも正面を向き、電脳の接続へと集中した。

紬《梓ちゃんと話すのも、もしかしたらこれが最後になるのかもしれない》

梓《…!でも、ムギ先輩は私の中でずっと一緒にいてくれるんですよね?》

紬《そうね…。私は梓ちゃんの中で生き続けることになる。
  梓ちゃんは私を感じ、私は梓ちゃんを感じながら、ずっと一緒にいられるの》

梓《………》

梓は、自分の中に自分ではない誰かが存在するという感覚が想像もつかなかった。

しかし既に、梓は潜在的に紬を求めることを肯定していた。

自分が独りになってしまう不安が打ち消されることを望み、

より紬を理解できるという可能性に賭けて…

紬《…まずは私の記憶とともにゴーストをそっちへダイブさせるわ》

すると梓の電脳のゴースト障壁のすぐそばへ紬の意識が介入してきたことが感じられた。

このゴースト障壁を突破してしまえば、梓のゴーストに紬のゴーストも混ざることになる。

紬《…軽音部のみんなと放課後におしゃべりすることも、お菓子やお茶を楽しむことも、
  もうこれで出来なくなってしまうのね。
  私たち3年生が卒業してしまえば、この3年間は美しい想い出としてみんなの記憶に留まるだけになる…》

紬《だけど私はちっとも後悔してないわ。私は十分、幸せだったもの…》

梓《ムギ先輩……》

紬《そしてこれからも…。梓ちゃん、今までありがとう》

梓《終わりじゃないんですよね?いつでも会えるんですよね?》

紬《うん。だからこれからもわたしのこと…宜しくね?》

紬のゴーストが梓のゴースト障壁に溶け込もうとしていた。

梓「……きっと、ムギ先輩は自分を見つけられると思います。私が保証します」

紬の意識が少しずつ電脳のネットワーク上から消えていく。

梓は震える声で隣に座る紬の義体に話しかけていた。

梓「先輩の優しさ、暖かさ、柔らかさ…私は知っています」

梓「他の誰よりもムギ先輩は私たち軽音部を愛してくれたことを知っています」

梓「先輩が毎日淹れてくれるお茶やお菓子、私たちのために作ってくれた曲の数々…」

梓「笑う顔、喜ぶ顔、私たちを想ってくれる気持ち、先輩の奏でる音楽…」

梓「その全てが私たちにとって大切なムギ先輩そのものでした。そしてこれからも…」

紬の意識はもはや梓のゴーストとほぼ同化しつつあった。

梓「ムギ先輩!」

梓は叫んだ。

梓の中にいる紬の声が徐々に弱くなっていく。


紬《……ありがとう…………》

今にも消え入りそうな紬の意識が囁いた。




紬《…わたし…梓ちゃんを好きで……本当に良かった………》




梓「ムギ先輩!待って下さい!まだ私の気持ちを伝えていません!」

梓「私も、私だって……」


―――ムギ先輩のことが、大好きです――


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