―――数日後

あの日、遊園地の集団テロは警察の活躍により、犠牲者を一人も出さずに鎮圧した。
軽傷を負った人もいたが、幸いにも後遺症が残るような重度の被害者は出ず、
ゴーストをハッキングされたことによる障害もなかった。

ただ、純から聞いた話では本当に事態を解決に導いたのは警察ではなく、公安9課という
攻性の特殊治安部隊の暗躍によるものだということだ。
一体どこの情報ソースなんだか…

紬「梓ちゃん。はい、どうぞ」

あの出来事から、私はムギ先輩のことを常に考えるようになってしまった。
対する先輩は、前と変わらずに私に接する。

律「…どうしたんだよ梓、ボーっとして」

梓「…へっ?べ、別にぼけっとなんてしてません!」

唯「そうかな?なんだか心ここにあらずって感じだよ~」

梓「そんなことないです……熱っ!」

澪「……大丈夫か?梓」

律「しっかりしてくれたまえよ梓君」

梓「すいません…」

唯「さてはあずにゃん、恋ですな!?」

梓「!!?」

こういう時の唯先輩の謎の鋭さには感心する。

澪「そうなのか?」

梓「ち、違います!私に好きな人なんか…」

律「その割には顔が真っ赤だぞ」

梓「これは…その…
  そ、そんなことより練習です!そうしましょう!」

唯「ごまかした…まさか本当に…!」

梓「だーっ!違いますってば!」

律「梓が怒ったぞ~」

紬「まあまあ、梓ちゃんがかわいそうよ」

梓「ムギ先輩…」

澪「…オホン。ま、ふざけるのはこれくらいにして…」

律「澪もノったくせに…」

澪「うるさい。とりあえずもうすぐ夏休みだ。
  私たちも今年は受験勉強があるし、軽音部の活動は少なくなる」

律「こんなクソ暑いなか学校なんて行きたくないしな」

澪「今までより練習する時間が少なくなると思うけど、夏休みが明けたら学園祭がある。
  あんまり楽器の練習をしてないと学園祭に間に合わなくなるかもしれないから、
  各自しっかり練習しておくように!」

唯「大丈夫だよぉ澪ちゃん。私毎日ギー太に触ってるから」

梓「触ってるだけじゃ意味ないですから…それに唯先輩はちゃんと立って弾く練習をしないと
  本番で思うように弾けなくなりますよ」

律「心配すんなって!こんなんでも今までのライブは成功してたんだしさ!」

梓「でも今年のライブは先輩方にとって最後なんですよ!?
  確かに勉強も大事ですけど、もっと真剣になって下さい!」

律「ん……まあ、それもそうだけどさ」

澪「梓の言うとおりだ。私たちにとって最後のライブ、悔いのないようにしよう」

紬「そうね…最後の学園祭なのよね…」

最後の、という言葉を強く印象付けるようにムギ先輩は呟いた。
私だって出来ればずっと軽音部でバンドをやり続けたい。
だけどそんなことは不可能なんだ。

唯「そうだよね…。うん、わたし頑張る!」

唯先輩のやる気に火がついたようだ。
律先輩もやれやれ、という仕草をしたけど、その顔はやる気が垣間見える。

澪「よし。じゃあ今日はこれで解散だな」


帰り道。

私と唯先輩、そしてムギ先輩は楽しくおしゃべりしながら歩いていた。

唯「帰ったら猛練習だねっ」

梓「唯先輩、勉強は大丈夫なんですか?」

唯「あ、そういえば勉強もしなくちゃ」

紬「ふふっ。唯ちゃんったら、何か一つに全力投球したら他のことは目に入らないものね」

梓「その極端さがまた唯先輩らしいです…」

唯「ムギちゃんとあずにゃんは楽器も上手いし、勉強も出来て羨ましいなぁ~」

梓「そんなことないですよ」


こんな風に私たちは他愛もないことをずっと話していた。

でも時々、ムギ先輩の顔に暗い影が落ちるのを私は見逃さなかった。

最近、部活中でも発見することがある。

ムギ先輩が、私たちでない何か別のものを見つめているような…

私がそれに気付くのは、決まって学園祭や卒業の話をしている時だった。


 ○   ○   ○

―――時は一息に飛び、秋が終わり肌寒さを感じる季節

放課後ティータイムの学園祭ライブは大成功のまま幕を下ろした。

梓は学園祭が終わった後、達成感と充実感で放心状態の日が続いた。

それほどまでに素晴らしいライブだった。


軽音部の3年生は引退し、本格的に受験勉強に取り組んでいる。

しかし引退したとはいっても、ほぼ毎日部室で変わらず紬の淹れるお茶を飲み、

お菓子をほおばりながら勉強している。


梓はせめて勉強の邪魔にならないようにと気を使っていたが、

3年生たちは勉強の合間に楽器に触れては軽く演奏するので

次第に梓も遠慮がなくなり、結局いつもの部活のように過ごしてしまうことが多かった。


梓は寂しいとは思わなかった。

ただし、先輩が卒業した後のことを考えると、不安でたまらなくなるのだった。


律「なあムギ、この問題なんだけどさ…」

紬「どれ?ああ、これは確か…」

澪「律、あんまり人に頼ってばかりじゃ実力つかないぞ」

律「分かんないことは人に聞けってな。ばあちゃんがそう言ってたぜ」

澪「それとこれとは話が違うだろ」

紬「…ごめんなさいりっちゃん。この問題、私も分からないわ…」

律「なに、そうか…」

澪「自力で解いた方が身につくぞ」

律「う~む、こうなったら最後の手段!答えを見る…」

澪「余計に駄目だ!」

唯「あははは、りっちゃんズルはよくないよ~」


澪が律の頭を叩く。

見慣れた光景だが、梓はいつもと違う姿があることに気付いた。

梓(ムギ先輩、最近なんだか元気がないな…どうしたんだろう?)

梓は、学園祭が終わってから紬の様子がおかしいことに気付いていた。

唯たちが3年生になってからの紬は、時々さびしい表情を見せることはあっても
基本的には明るく優しい、そして軽音部を心から楽しんでいる人だった。

しかし学園祭後の紬は明らかに気分が落ち込んでいるように見えた。

引退したとはいえ実際はいつもどおりの軽音部。
紬以外の3年生は以前と変わらずに過ごしているのに比べ、
紬一人だけ寂しげで、悲しみの表情を隠せないでいた。



あの遊園地での出来事から梓は常に紬のことを気にしていた。

この軽音部の中で、紬の真実を知っているのは梓だけだ。

梓はあの日の紬との会話を思い出す。


梓(ムギ先輩はあの日、自分の体が全身義体であることを私に話してくれた。
  なんで先輩はあの時、泣いたんだろう…?嬉しかったのかな…それとも悲しかったのかな…)

梓にはあの涙の意味が分からなかった。

紬の体について知ることは出来ても、紬という人間のことはまるで分からないままだった。


梓(それに…先輩は私にキスをしてくれた。
  なのに先輩はその後、何もなかったように私に接している。
  私はムギ先輩を見ていたのに、先輩は私を見てくれていなかったの?)


梓は、軽音部で独り寂しさにとらわれている紬に気付いても、何も出来なかった。

自分から声をかけることも、紬の気持ちを理解することも…。

時は容赦なく過ぎていく。


梓の心にわだかまりを抱えたまま冬休みが過ぎ、
唯たちは本格的に受験に専念するため、部室へ訪れる頻度もめっきり減った。

日が経つにつれて梓は実感する。


――ああ、私、独りになっちゃうんだな。


5人でいる時は、そんなことは思わなかった。

しかし、いざ3年生が自分の近くに居ないと、どうしようもなく寂しくなる。


梓(…でも寂しいのは私だけじゃないんだ。先輩方だって分かってるはず…)

梓は3年生の前で悲しむ素振りはしないと決めた。

最後は笑って見送ろうと。


―――凍りつくような冬の寒さを感じる時期

唯たち3年生は全員、第一志望の大学に合格した。

梓もわが身のことのように喜び、はしゃいだ。


残すところは卒業式だけ。

受験のしがらみから解放された唯たちは、悔いのないように精一杯
最後の学校生活を楽しんでいた。




そんなある日、梓が放課後に部室へ行くために階段を上っていると、

どこからか音が聞こえてきた。


梓(…?ピアノの音…)

梓が部室の前で立ち止まる。

聞こえてくるのは、隣の音楽室からだ。

念のため梓は部室を覗くが誰もいない。

梓(誰だろう…放課後は音楽室は使われていないはず)

梓は無意識に音楽室の扉を開けた。



梓「…ムギ先輩?」



そこには、誰もいない音楽室で一心不乱にピアノを弾き続ける紬の姿があった。

汗をかき、息を荒くして目の前の鍵盤に夢中になっている。

扉を開けた梓の存在に全く気付いていないようだった。

梓「………」

梓は紬の姿に見とれていた。

まるで狂ったように鍵盤を叩いている。

その目は見開き、全身に熱がこもっている。

普段の紬を知っている者なら、下手をすれば見苦しいとも取れるその姿に梓は心を奪われていた。


時に激しく、時になめらかに奏でられるピアノの旋律は美しく、

透き通った音が心地よく梓の脳を刺激する。


梓はこれが何の曲かは分からなかった。

初めて聞く曲。

それなのに、なぜか前から知っているような気がした。

紬はひと時も休むことなくピアノを弾いていた。

豊かに変化していく曲調、見事にコントロールされたリズムとテンポ。

聞いている人の感情に直接訴えかけるような旋律に、

まるでストーリーを紡ぐかのような曲構成。


紬は笑っていた。

そして梓も、紬の喜びを全身に感じていた。


梓の目から自然と涙があふれる。

悲しくもないのに、なぜか涙が止まらなかった。



梓は気付き、理解した。

この曲が、紬という存在の全てを表現しているということを。


紬「…表現の自由が、私を私という存在の限界に制約し続ける…」


演奏が止まった。

もしかしたら、この名もなき曲が終わりを迎えたのかもしれない。


紬が微動だにしないまま言葉を投げかける。

紬「梓ちゃんは、自分という存在を証明できる?」

梓「………」

梓は紬の問いの意味を上手く把握できなかった。

紬「私が私であるための証明…ゴーストを定義するための要素…」

紬「記憶とゴースト。人間が人間でいるために必要な二つの虚無、もしくは真実…」

梓「………」

紬「…私が卒業する前に、梓ちゃんに話しておきたいことがあるの」


紬は口だけを動かしてしゃべり続けた。

紬「人は他人を介して始めて自己という概念を形成し、自己は記憶とゴーストによってその境界を作る」

紬「…いわゆる自己同一性とゴースト…梓ちゃんも知っているでしょう?」


梓は頷いた。




義体化と電脳化が進んだ現代において新たに考えられた「ゴースト」という概念。

一般的に人間は、自分が他の誰でもない自分であるという事実を確認するために様々な方法をとる。

最も分かりやすい方法は自分の姿形を確認することだが、
完全に義体化した人間にとってそれらは単なる工業製品にすぎない。

したがって、彼らは肉体的に自分が自分である確証を得る根拠が限りなく薄くなってしまう。


完全義体化した人間は、自分が自分であるという事実を、肉体ではなく自身の精神に
その在り方を求めることになる。

しかし電脳化した人間はどうだろうか。

電脳化した人間は記憶や思考方法を外部にコピーすることができる。
また自身の記憶と思っていても、それが電脳ハックによって書き換えられた情報でないという確証はない。


自分が自分自身であるために最低限必要な物、またはその境界が

電脳化によって曖昧になってしまうという問題が浮き彫りになった現代において、

人間が本来的に持つ自我や意識、それらの複合系の現象である「自己同一性(アイデンティティ)」や

生命体の根源的な「魂」を表す言葉…。

それが「ゴースト」である


梓「…知っています。授業で習いました」

紬は淡々と話を続けた。

紬「…自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要になる」

紬「他人との関わり、それを隔てるための顔や体、意識しない声、幼かったころの記憶……それだけじゃない。
  無限ともとれる膨大な要素の集合体の先に、私たちは存在する」

紬「梓ちゃんの存在を証明するための根拠を、梓ちゃんは知ってるかしら?」

紬はようやく梓の方を向いた。

梓「わたし…ムギ先輩が何を言っているのか、分かりません…」

梓は正直に答えた。


5