それからまた幾日か経ったある平日。大学にいた私は次の講義までの時間を、友人と共にキャンパスを適当にぶらついて時間つぶししていた。
友人と話をしながらふと目線を遠くにやると、少し先のベンチに律の姿を見つけた。隣には短髪の、体育会系っぽい女学生がいて、二人で楽しそうに会話をしている。
私は、友達かな、と特に気にとめなかったのだけど、

「あぁ。あの人知ってる」

と、私の視線を追った友人が、ベンチを見てうわずった声を上げた。

「律の隣に座ってる子?」
「そうそう。澪は知らない?」
「うん。なに、有名人なのか?」

友人は噂好きする笑顔を浮かべながら、わざとらしく私の耳元に口をやって、こしょこしょと言った。

「あの人私らの一コ上の先輩なんだけど、自分がレズビアンだって公言してるのよ」
「……へぇ。そーなんだ」 
「あら、あんまり驚かないのね」
「そんな事ないけど」

むしろ逆。そうとうにギクリとしたからそれを隠すために平静を装っているのだ。

「けど、もしかして田井中さんも……そうなの?」
「そうなのって、何が」
「だからさ、レズなの?」
「し、知らないよ」
「あんたらメチャ仲良いじゃん。あやしー。というかじゃあ澪もそうなの……!?」

友人は一歩引いて、私に怯えるようにして我が身を抱いた。

「アホ!」

私は持っていたバインダーで友人の肩を叩いた。そして、楽しげに話をしている律を横目にそそくさとその場を立ち去ったのだった。

(レズビアンである律が、レズを公言している人と、仲よさそうにしている)

何か、もやもやとしたものを胸のうちに抱えてしまう。
心を取り出して観察するとすぐにそのもやもやの正体が分かった。
嫉妬だ。
ただの嫉妬ではない。危機感を伴った、強い嫉妬だ。なぜなら、律と話をしていたあの女学生は、同じ立ち位置にいるのだ。
つまり、異端を共有する仲間。あの女子生徒は律とレズビアンという生き方を共有している。
律にとっての特別な存在が自分以外にもいることが、私は嫌なのだ。律をとられるかも、という子供じみた、けれど本物の恐怖。

その晩、律を家に招いた私はさっそく大人気ない唾付けをはじめた。

「なぁなぁ律」
「なに?」
「今日の昼間。大学で律を見たんだ」
「そっか。毎日会ってる気がしないでもないけどな」
「……そのとき律は友達とすごく仲よさそうにお喋りしてたよな」
「ん?」

晩ご飯のカレーをつつきながら律は不思議そうな返事をした。もっとな反応ではあるのだが、私は自分の言葉にこめた言外の意図に気づいてほしいのだ。

「律と一緒にいた人。あの人もレズなんだってな」

レズ、という単語には律も顔を上げた。そしてすぐにピンときたようだった。

「あぁ、あの時の話か。私も澪に気づいてたよ? でも澪だって友達と話してたろ」
「え、そっちも気づいてたの?」
「うん。歩いてくるのが見えてたし」
「そ、そう」

なら手ぐらいふってよ、とは思ってもさすがに言えない。

「で……あの人は律がレズだって事、知ってるのか?」
「うん。私が告白した」
「え……」

そういう意味ではないと分かっていても、告白、という単語にドキリとしてしまう。

「すごく前向きな人なんだ。自分がビアンだって事を堂々と宣言してて、ぜんぜん引け目に感じなくてさ。それで、私みたいにクローゼットしてる人の話をこっそり聞いてくれたりするんだ
さっぱりした性格で友達の多い人だから、あの人と話してるイコールそくビアンって事にもならないし、こっそり悩み相談する人が結構多いっぽいな。もちろん、それが誰かって、言うような人じゃない」

律の笑顔に、その人に対する特別な尊敬を感じて、私は鬱屈する。一方ではそんな自分がどうしようもなく器の小さい人間に思えて、余計にもんもんとしてしまうのだ。

「律も、その人に何か相談してるのか?」
「私は相談っていうか、ただ話をさせてもらってるだけ。同じビアンの人と話す機会って、無いからな」
「……悪かったな。私は話を聞いて上げられなくて」

内なる陰が声になってしまった。スプーンをくわえながら、もごもごと愚痴る。

「へ?」

と律がきょとんとした顔をした。
少しの間、私の顔色をうかがっていた律だが、突如、目と口が急角度で弧を描いてニヤァといやらしい表情になった。

「えぇー……? 何それ澪もしかしてヤキモチ?」
「ち、違うぞ!」

私は唾を飛ばして、三つの三日月を貼り付けた律の忌々しい顔を睨む。
実際、単純な嫉妬ではない。自分に対する嫌悪、と言った感情の方が強い。だけど律はそれを違った風に受け取ったらしかった。

「澪さんったら意外と安いのね。うふふ」
「だからぁ!!」

かってに決めてかかる律に腹がたって、私は本当の気持ちは説明してあげなかった。

「……時々、澪がビアンじゃないのを忘れそうになる」

律はひとしきりニヤニヤした後、今度は少し寂しそうな顔になってそう言った。私はそこに込められた気持ち全てを把握することはできなかった。
そんな事があって私は律との間にある溝をまた意識してしまった。だから、その日私は律の手の平を握って眠ろうとした。毛布の中でもぞもぞと手を動かして、隣で横になる律の手を握る。

「澪……?」

律はきっと、その手に込められた私の気持ちを分からない。二人の間の、さして幅の無い、だけど深い深い溝。それが以心伝心をどこまでも阻んだ。


その深夜。
私は唇に何かやわらかい感触を得て、目を覚ました。
律の匂いも、している。
何が起こっているのかはすぐに分かった。
律が私にキスしているのだ。

(気をつかうなって言ったくせに)

それでも私は寝たふりをしていた。内から沸く嫌悪感を必死に耐えながら、ただじっと目を瞑る。
律は注意深く、静かに、ゆっくりと優しく、何度も何度もキスをした。唇が触れ合うだけの儚い口づけ。はがゆさを数でおぎなおうとしているのだろうか。

――私が眠ってる時ならキスしてもいいよ

私がそう告げたとき律はその言葉を一蹴した。
なのに、律は結局はその言葉にすがっているのだろうか。私がいたずらに律の気持ちに触れて、高ぶらせてしまったのだろうか。
思えば、私が律の秘めたる思いを知ったあの夜も、私は律の手を握って眠ったように思う。
律にしてみれば好きな人と手を握って一つ同じベッドで眠るのだから、どれだけ心乱された事だろう。
とすれば、律がキスを我慢できなくなったのは結局自分のせいで……。
私は己の不用意さを悔やんだ。


――いつまでこんな関係が続くのだろう? 

私はふとそう考えて、そして恐ろしくなった。
律は今でもきっと私の事が好きで、けれどノンケの私を気遣って、その気持ちを押さえ込んでいる。
私はそんな律の気持ちに答えてあげる事はできないのに、そのくせ律と離れ離れになるのは嫌で、自己の歪な心への嫌悪を重ねながら、律を離すまいとしている。
結局、いつまでたっても二人は幸せにはなれないのかも。律もそれを悟って、自分と同じレズであるあの先輩のところに行ってしまうのでは――突然そんな不安が膨れ上がって、私の心をおどかした。
律はあてない思慕を、こうやって深夜にこっそりと一人で処理する以外にしようがなく、そしてそうさせているのは私自身で。律を苦しませている自分が、私はどうしようもなく情けなかった。

(やば……泣いちゃいそう)

そんな自分に何も言わず笑って側にいてくれる律の事を想うと、私はとうとう溢れだす涙を止められなくなってしまった。
悔しさと、見えない未来への恐怖と、感謝と、沢山の感情がない交ぜになった涙だった。

「……ひっ……うっく……っく……すん……」

慌てたのは律だ。眠っていると思った私が突然嗚咽を始めたのだから、無理もない。

「澪!? 起きてたの!? ご、ごめん、ごめんな。嫌だったよな」

律は申し訳なさそうに謝りながら、ベッドから出て行こうとした。
私は起き上がり、律の手を掴んで、涙交じりの声で止めた。

「駄目、行かないで律!」
「で、でも、私、澪を泣かせて」
「違う。律のせいじゃないんだ、私が……ひっく」

と、また嗚咽の発作がきて、私は両腕で顔を覆った。律に泣いているところを見られたくなくて、必死に声を殺す。けれど、小さなしゃっくりみたいに、何度も声がもれた。

「ああどうしよう……」

律は何度か私の肩や腕に手をあてながらも、自分が触ると嫌がられるかもとでも思ったのか、すぐに手を離す。
けれどやっぱり心配でたまらないようで、また私の体に触れて……そんな事をおろおろと繰り返していた。
早く律の勘違いをといてあげなければと思うのに、後から後から涙があふれて、私は歯がゆかった。
一分か二分か、ようやく発作がおさまって、私は涙をぬぐって、鼻をすすりながら、弱々しく笑った。

「えへへ、ごめんな。びっくりさせて」

律はにこりともせず、心配そうな顔で私を見つめている。

「澪。何で泣くの? キスが嫌だったんじゃないの?」

自分を責めている律の内心が私にはありありと感じられた。
ベッドの上で並んで上体を起こしている二人。私はそっと自分の肩を律に触れさせた。互いの肌が触れる感覚は、それだけで少し気持ちを落着かせてくれる。

「キスが嫌で泣いたんじゃないんだ。してあげられない自分が嫌で、泣いたんだ」
「澪……」

律は、二度三度何かを言いかけて、そのまま俯いた。
律の手の平が動いて、触れ合う肩の下で、私の手のひらに重なった。

「澪。お願いだから信じて。私は今のままで十分幸せだよ」
「もちろん信じてるよ」

律がきゅっと私の手を握った。

「なら自分を嫌いだなんて思わないで。私は今の澪が好きなんだ」
「……そうだな」

律が幸せでいてくれるならそれが何よりだと私は思う。けれどどうしても、自分の心の中にいる自分自身への裏切り者が許せない。

「なぁ律」
「何?」
「あのさ……。……やっぱ、なんでもない」
「何だよ。言って」
「……。あの、ありがと」
「……うん」

私が口にしようとしたのは、本当は違う事だった。
けれど、言えば律は怒ると思った。だから話せなかった。

「寝よっか。律」
「う、うん」
「私が眠ったら、またキス、していいからな」
「馬鹿。泣いちゃうくせにそんな事言うなよ」

まだいくらかそわそわとしている律の気配を隣に感じながら、私は閉じた瞼の裏に、今しがた律に言いかけた言葉を反響させていた。

――なぁ律。レズビアンになる薬ってあるのかな?


前半  ~終わり~