「澪は我がまますぎるよ。ビアンじゃなくなれば、私はこんなに悩まなくてすむのに。私にビアンでいろだなんて」
「もちろん、律が本当にそうしたいなら、私はもちろん受け入れる。けど律はそんな事したくないんだろう。だったら……お互いに少しづつ歩み寄って、ありのままの二人で一緒にいようよ。そのために、二人で話しあってるんだろう?」
「……澪は、じゃあ、私にどう歩み寄ってくれるの?」

一寸、私は考えた。それから、律の瞳をまっすぐに見て、はっきりと言った。

「彼氏とかつくらないし、そうだな、結婚もしない。律がずっと私の一番」

私の言葉を聴いて、律がぽかぁんと呆れたような顔になった。
私だって馬鹿な事を言っていると自分で思う。けれど嘘をついているとは思わなかった。私の胸にはそれほど強い想いがある。

「ずっとって、いつまでだよ」
「ずっとは、ずっとだ」
「大学を卒業しても? 三十路になっても?」
「もちろん」

また二、三粒、俯いた律の瞳から涙が落ちた。

「嘘つき……!」

律は泣きながら小さく怒鳴った。

「そんな先の事分からないだろ。気持ちは変わるんだからっ」
「未来の事を恐れて、今の自分の気持ちに背をむけないで。私はそれくらい律が大切。それは絶対だ。ね、律、顔をあげて」
「……嫌だ。恥ずかしい」
「お願い。律の顔を見せて」

少しためらってから、律はしぶしぶ恥ずかしそうに顔を上げた。眉は弱って、瞳は赤く潤んで、唇はキュッと結ばれて、頬は紅潮し。
私は律のそんな表情をはじめて見た。
頬に流れる二筋の涙が、私をドキリとさせた。涙とは、それ自体に人の感情が流れているように思えた。

「ジロジロ見んなよっ」

少し顔を背けながら、律が鼻声で呻いた。

「……律の泣き顔、可愛いなぁって」
「馬鹿っ」

私が茶化すと律はまた俯いてしまった。
感情の高ぶりが律の震える肩に現れている。すがるような声で、律は求めた。

「私のためにそこまで言ってくれるなら恋人になってよ……。なんで駄目なんだ? 私とずっと一緒にいてくれるんだろ? それって愛情じゃないのか? 私の恋人になってよ澪……」

それはきっと、律が理性で押さえ込んでいた恋の欲望そのものの声なのだ。
なのに、やっぱり私は

「律……ごめん。許して」

俯いていた律の頭が、また少しうなだれたように思えた。

「何を許せばいいのか分からないよ」
「歪な私の心を、だよ。……律の事が誰よりも大切なのに、私の頭にはくだらない価値観がこびりついてもいる。私も……こんな自分が嫌だ」

誰よりも大切な目の前の女性の、その心からの願いを叶えて上げられない自分を私は殺してしまいたかった。

「……じゃあその代わりに抱きしめて」

律は、震える声で呟いた。

「え?」
「外国じゃ友人どうしでも親愛の意味でハグするだろ?うちの留学生だってよくやってる。 ……それでいいから抱いて」
「……分かった」

映画で見るような、男同士や女同士の親友が抱き合うシーン。それを想像すると、いくらかは、抱き合うことへの違和感も薄れた。

――でもきっと律は……

少し考えて私は頭を振った。なんだっていいじゃないか。律がどんな気持ちで自分と抱き合うか、そんな事にまで自分が口出しできるはずがない。

「じゃ、じゃあ律……するから」
「ん」

ずっと膝立ちだった私は、カーペットにお尻を据えて乙女座りになる。それからおずおずと律の肩に手をかけた。
向い合って座る律は少し前かがみになって、そのまま、私の鎖骨の辺りに顔を埋めた。
私の鼻頭に律の髪が触れる。律の香りがいっそうはっきりと鼻腔に流れてくる。
良い匂いだとは思う。それでもどこか、私の頭にこびりついた男女観がその香りをわずかに拒否するのだった。
律が私の背中に手を回して、ぎゅっと二人の体を密着させる。ここまでするのってやっぱり親友同士のハグじゃないよな、などと考えつつも私は律にならって手を回す。
律の腰は、抱き心地自体はとても気持ちよいのだが。やはり気持ちがどこか、抵抗した。
それから壁かけ時計の秒針が三回転して、律はまだ無言で私にすがっていた。

「……律、あの、いつまでこうしてるんだ?」
「私が良いって言うまで、このままでいて」
「は、はい」

鎖骨に律の暖かい吐息を感じながら、私も黙した。
時折窓の外から聞こえてくる夜の世界の音や、無音の中にのみうまれる静かな耳鳴りを聴きながら、私は、律が今どんな気持ちでいるのかと想像した。
――そしてふと、悲しくなった。
二人は心から互いを求めてやまない。なのに、私と律の間には地平の果てまで続く巨大で分厚いガラスの壁があって、それが二人を隔てている。
そのガラスには小さな穴が開いていて、そこから手を伸ばせばお互いの手を握り合うことはできるし、話もできる。
でもけして、心からお互いの体を抱きしめあう事はできないのだ。ガラス越しに体を触れ合わせる真似事をするだけで。
私の感情が荒れ、流れそうになる涙を必死でこらえた。

「律。さよならなんて言わないで」

律の頬が小さく頷いて、私の肌を優しく撫でた。


翌朝。
眼を覚ました私は、隣にいたはずの律の姿が消えているのに気づいて、飛び起きて叫んだ。

「律!?」

部屋を見回す。
律は、いない。

「律……どこだよ……?」

心臓がものすごい速さで脈打って、背筋のあたりに嫌なものがザァっと広がった。

――昨晩。二人で10分近くも無言で抱き合った。
律はときどき腕にきゅっと力を入れなおしたり、胸を押し合わせたり、頬で私の胸をさすったり、まるで、私の感触を肌に刻み込もうとしているようだった。
いやきっとそうなのだろう。私も何も言わずにただ律の体を抱き寄せていた。自分がこれほどに律を抱きしめてあげられることは、多分、そうそう無いのだ、と思う申し訳なさがそうさせた。
逢瀬の終わりは唐突だった。律は前触れなくふっと私から体を離し、

「握手しよ」

と、まだいくらか潤んでいる目で笑ったのだ。
私が戸惑いながらそれに応じると、

「今日からまた私達は友達」

と微笑んだのだ。
私はあっけにとられながらもなんとか、

「す、末永くよろしく」

とおかしな返事をかえした。
それから私達は、どこかむずがゆい空気の中、食べ終わった食器を一緒に片付け、順番に風呂に入り、眠るまでの時間をくつろいだのだった。
二人はそうやってこれからも一緒にいるのだと思ったのに。
律は違ったのだろうか……?
目の前の景色が遠くなって、キィンキィンと頭の中で鋭い音がなりはじめ――

「どうしたの澪?」
「へ?」

突然に律の声が私の耳に飛び込んできた。
声のした方に目を向けると、ベランダ窓のカーテンの端から、律の首がにょっきりと生えていた。

「り、りつ……何してるの」
「天気がいいから。ベランダで朝日を眺めてたんだ」
「あ……ああ……そう」

朝日って。
私はどっと力が抜けて、その場でカクンと首を前に落とした。
律はそんな私の内心を見透かしたのか、ベランダから部屋に戻って、ケケケと笑った。

「心配しなくても黙って出て行ったりしないよ」
「べ、べつにそんなんじゃ」

私は頬を膨らませようとしたけれど、ほっとしてしまった気持ちが遥かに強くて、できなかった。不貞寝するようにまたベッドに横になる。
律がしゃっとカーテンを開いて、薄暗かった部屋を明るい光が照らした。

「まぶしー……」

頭まで毛布にもぐって、私はだらしない声で呻いた。

「起きないと、もう七時だよ」
「んー……」
「今日は朝一の授業なんだろ?」
「そうなんだよなー……」

けれど私はどうにも起きる気になれなかった。というより、大学に行く、という気になれない。
律と気持ちを打ち明けあった昨晩の特別な時間が、まだ私をふわりと宙に浮かせているのだ。

「なぁ律?」

毛布から顔の上半分だけだして、私は律に言った。

「今日さぁ大学、休まないか?」
「うん? 何で?」
「何でって言うかさ……今日は二人で家にいたいなぁ……」
「何だそれ。まるで私達が恋人にでもなったみたいじゃん」

律がまた笑って、私は今度こそ頬を膨らませた。

「ちょっと律。それって私へのあてつけか?」
「まさか。ありのままを言っただけ。私達は仲直りしてまた親友になったんだろ?」

律は私を見下ろしながらにっこりと笑った。
朝日の中でのせいか、律の笑顔が私には飛びきり爽やかに思えた。

「何だよ律……。やけにさっぱりした顔じゃないか」
「澪とはこれからもずっと友達。そう決めたから。あぁ久しぶりに気持ちがいい朝だ。迷いが無いって、いいな」

律は昨日の泣きべそがまるで嘘だったかのように、晴れ晴れと笑っている。
私はそれを毛布の下から恨めしそうな眼で見つめていた。

「そうですかぃ……」

私は今だ律への思いの納め場所に困っているのだ。ただの友情とも言えずさりとて恋心とも言えず、これまでにない感情であって、落としどころを決めかねていた。
でもそれが律だけにしか向けられない特別な気持ちである事に変りはなく、二人で一緒にもっとその感情を愛でていたかったのだけど……。

「さぁさぁ。起きなさい。パンを焼いといてあげるから、さっさと顔を洗って」

律は昨晩の泣き顔なんて無かったかのようにいつもの様子に戻ってしまっていた。気持ちの切り替えが遅い律のわりには早い立ち直りだと思った。 

「もぅ、わかったよ……」

私は自分だけが取り残されたような、そんな寂しさを感じていた。
けれど、その寂しさを律に伝えて甘える事は、私にはできなかった。

(まぁ、律が笑ってるならそれでいいよな)

求められても答えてあげられないという負い目。その負い目のために、私は自分の気持ちを押し殺した。
負い目を感じる付き合いというのは健全な関係ではないと思う。けれど、どうしようもない。
本当はその負い目も寂しさも、律に慰めてほしいけれど、それはあまりに自分勝手だろう、と私は思う。それにきっと、慰めてもらった事自体に、また負い目を感じてしまうに違いなかった。

数日たったある夜の事。それまでと変わることなく律は私の家に転がり込み、私もまた表面上は今まで通りそれを歓迎した。そうしてソファーにならんで一緒にテレビを見ていた時だ。
ソファーに一緒にならんで座っていた時、律の手が私の手に、すっと触れた。その瞬間である。

「あっ」

私はほとんど意識せず、熱湯に触れてしまったかの様にシュッと手を引いた。
馬鹿、と私は自分に唾棄する。
この数日、私は律とのスキンシップを極端に避けていた。無造作に腕を絡めたり、突然後ろから抱きついたり、今までは当たり前のように行っていた事も全てやめた。
嫌がっているわけではない。律の恋心に波風をたたせないためだ。
けれど今の反応は、明らかに誤りだった。律が今のをどう思うか。私は想像して、悔やんだ。
横目でチラリと、律の顔色を伺う。律は何にも気づいていない様子で、でも不自然なくらいにただじっと、テレビを見ていた。しかし、今の私の大げさな動きに気づいていないはずがないのだ。

「律……その、ごめん、手を繋ぐのが嫌だったわけじゃないんだ。つい」
「ん? 何?」

律は、一体なんの話?、という顔でそう言った。気を使ってくれているに決まっている。
私は申し訳なくなって、今度は自分から律の手の平を握ろうとした。けれど律はやんわりとその手を引いてしまった。

「いいよ。ありがとう」

こんなくだらない事で律に気を使わせてしまった自分が情けなくて、私はうなだれて自分の太ももと終わりのない睨めっこを始める。

「……澪?」

心底うなだれている私を見かねたのか、律が一度引いた手のひらをかえしてくれる。
私はしっかりとその手を握り返した。よくよく落着いてみればその手は暖かくて心地よい。そこにあるのは純粋な思いやりの気持ちなのに、私は自分の色眼鏡が嫌だった。

「律。私は自分が嫌になる」
「……気にしないでいいよ。あるがままでいようって言っただろ。澪と一緒にいられるのなら私はそれで十分」

大人びた律の笑み。
私は、自分が人よりも臆病な性格のために孤独感にさいなまれていた。けれど律はそんな私の倍、周りと異なる部分を抱えてきたのだ。その差が、笑みに現れるのかもしれない。

「でも、私は……」

――律を全部受け止めてあげたいのに

そう思う心の裏にあるのは、恋にも劣らぬ独占欲なのだと、私自身気づいている。
律を誰にも奪われたくない。ならば律の全てをがっちりとがんじがらめにしておかねばならない。それなのに性的に律を拒んでしまう自分の価値観が、私は許せない。
そんな私の葛藤には気づかず、律がくすくすと笑った。

「な、何だよ」
「だって……こういう時って普通は、ビアンの方が変に気を病んでぐじぐじするのに、ノンケの澪がビアンの私に慰められてるなんて、なんだか可笑しくてさ」

そう言ってまた律は笑った。気取ったところのない、可愛い笑みだった。

「わ、笑うなよっ」

私は文句を言いながら、それでも、どうしようもなく癒されてしまう自分を感じていた。手の平に感じるぬくもりと、律の笑い声が、心を軽くする。
それから日付が変って、深夜。私達は以前と同じように枕を並べて眠る。
電気を消して十分ほど。暗い天井をみつめる私の目は、まだ冴えていた。仰向けのままチラリと横目で隣の律を伺う。目を瞑ってはいるけれど、まだ寝息は立っていなかった。

「律。起きてる?」
「ん……?」

私は横向きになって、律と向い合った。

「私が眠ってる時ならさ……キス、してもいいよ」
「……澪。あのな」

律は少し呆れた顔をしながら、よいせと自分も横向きになった。
二人で向かい合って瞳を交わす。律の瞳には少し、私を咎めるような色があった。

「気をつかうなって、言ったはずだろ」
「そうじゃないんだ。そうでもしないと……フェアじゃない」
「フェア?」
「だって、律は今でも我慢してるんだろ。私への……その……気持ち。私は律と一緒にいたくて、一緒にいる。そのくせ律の気持ちには応えてあげられないなんて。私って、自分勝手だ。だから……」
「馬鹿。それが変な気をつかってるっていうんだよ」
「そうかな」
「そうだよ。それに……澪がそんな事言うから、余計に私の気持ちを刺激するんだよ」

律は冗談まじりではあるが少し怒った顔をして、私に背中を向けてしまった。

「あ……」

律の背中は黙りこんでしまって、私はハァと自分に溜め息をついて、また仰向けになった。  
今律はどんな顔をしているのだろう。律の顔を覗き込んで、身を寄せてあげられればいいのに。
それを出来ない自分が、私はやっぱり嫌いだった。


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