『…うん。きっと』
「きっとじゃ嫌だ律!」
『だって私、まだ澪の事が好きだもん』

私は眉を寄せて唇を噛んだ。友人が自分を好きだといってくれた事は嬉しい。けれど、律の好きと私の好きは違うのだ。
律はセクシュアリティな感情を込めて私を想っている。そのすれ違いが私には耐え難い。

『じゃあ、もう切るよ。また……気持ちが整理できたら連絡するから』
「待って!」

反射的に呼び止めた。それから口にでた言葉は、紛れも無い真心だろう。

『何?』
「律は誰よりも大切な人だから。連絡、私、本当に待ってるから」

電話の向こうで、律の小さな深呼吸が聞こえた。

『ありがと。澪』

そして、通話は切れた。途絶えてしまった携帯電話を見つめながら、私は立ち尽くした。律が遠くへ行ってしまったようで寂しかった。

「はぁ……」

友達、という言葉はやっぱり律を傷つけたのかもしれない。律の最後の声はどこか寂しげだった。

「馬鹿馬鹿……私の馬鹿……」

どうしてあの晩、自分はもっと落着いて律に接する事が出来なかったのだろう。
もっと落着いてちゃんと親友の気持ちを聞いてあげられていたなら、きっとこんな事にはならなかったのに。
痛みをともなった後悔が胸にたまって、ズシンと私を押しつぶした。

ようやく待ちに待った連絡が来たのは、最後に電話で話してから一週間後の夜だった。私にとっては長い長い一週間だった。
ほとんど毎日学校で律を見かけた。そのたびに駆け寄りたくなるのを我慢した。友人達には、律と喧嘩をしているのだと言ってごまかした。

「一番辛いのは律なんだから」

そう自分に言い聞かせて、耐えた。
そして今日、私が丁度お風呂からあがってバスルームから片足を踏み出した時。部屋の奥の机の上で携帯が鳴っているのに気づいた。
律からの着信だった。私はバスタオルもまとわず慌ててドタドタと部屋を走って、雫があたりに飛び散るのも構わず携帯に掴みかかった。
ディスプレイには、間違いなく『田井中律』と表示されていた。
ごくりと唾を飲んで、私は携帯を耳にあてた。

何と声をかけようか迷って、結局妙な挨拶が押し出されてしまった。

「お……おっす」

電話口の向こうで、律の吹き出す音が聞こえた。

『なんだよそれ』

久しぶりに聞いた、律の声。笑っていた。少し不自然なくらいに、暗さが無かった。きっと意識して明るく振舞っているのだろう。つい、こちらも力んでしまう。

「あ、いや、お風呂から飛び出して慌てちゃってさ。あはは。まだ体も拭いてないんだ。カーペットが濡れちゃった』
『え、裸? …そんなに慌てなくていいのに。じゃあいったん切るから、澪がかけなおして。寒いのに風邪ひくぞー』
「あ、う、うん。じゃ」

電話はきれた。
久々の会話は奇妙に滑らかで、しかし十数秒とたたずに終った。それがなんだかまぬけで、気が抜けた。あるいはそれが二人の日常の帰還を表しているようにも思えて、私は可笑しかった。
とは言え、私はバスタオルで体を拭きながら、「律は今頃私の裸を想像しているのかな」、なんて邪推してしまって、どうしてもやはり、少し変ってしまった二人の関係を感じてしまう。
それでも律が再び連絡をくれたという事が何よりも嬉しくて、私は数分も経たないうちに電話をかけなおした。いつもなら肌の手入れで十分二十分は時間をとられるのだけど、全部すっとばした。

「律」
『澪』
「……」
『……』

さっきとは違って、何を話すべきか、聞くべきか、戸惑いが沈黙を生んだ。
もちろん律の想いを聞きたい。でも、デリケートな会話なのに相手の顔を見て話せないというのが、どうにもやりにくい。 

「……明日の夜、家にこないか? ゆっくり二人でご飯食べながらさ。律とお喋りしたい」
『え……うん。そうだな。じゃあ晩御飯、買ってくよ』

律があっさりと了承してくれて、ほっとする。

「ご飯とお味噌汁は用意しとくから、いつもみたいに、適当に惣菜をお願いな」
『ん。いつもどおりに』

いつもみたいに、いつもどおりに――なんでもないその言葉が、今の私達にとっては何か特別な魔法の文言のようだった。
きっと私達二人の願いが込められた希望の言葉なのだ。

『……澪。元気だった?』
「ん……元気だけど寂しかった。ずっと律の連絡を待ってたんだからな。何度こっちから電話しそうになったか」
『……』

律は一言、二言、言葉にならない音を口から漏らしたようだった。私はその吐息に、律の安心を感じたような気がした。

『……そっか。ありがと。じゃあ、また明日な』
「うん。また明日……」

静かに、何か厳かな儀式のように、私は携帯を耳から離す。
電話を終えて、私はしばらくじっとディスプレイに目を落とした。画面の向こうから、律が同じようにこちらを覗き見ているような気がした。

「話し合えば、きっと何とかなる」

私は、自分が律をどれだけ大切に思っているか、律がいないと自分がどれだけ寂しいか、伝えなければならないと思った。
あるいはそれは律に辛い思いをさせることなのかもしれない。
けれどちゃんとそれを律に伝えなければ、これからの二人の未来はくだらない嘘の触れ合いになるに違いなかった。
二人のすれ違いは何も解決していない。話合いはまだまだこれからなのだ。
けれど自分と律なら必ず理解しあえると、私は心から信じていた。

翌日。目が覚めた時から、私はずうっと緊張しっぱなしだった。
律に何をどう話そうかと考えているとあっという間に日が過ぎて、夜。
私はご飯を炊いた後、意味も無く部屋を片づけたり、鏡を見て髪の乱れを気にしたりして、そわそわと律を待った。
手持ちぶさたにテレビのチャンネルをちょいちょいと回していると、呼び鈴が鳴った。

「来たっ」

私は玄関に飛んでいった。
玄関の戸を、開ける。

「……こんばんわ」

律が惣菜屋の買い物袋を片手にさげて、少し瞳を大きくしながら、現れた私をみつめていた。
私は曖昧な態度を一切取らず、にっこりと笑った。

「やっとだな律。お腹がすいたぞ」

律は二度瞬きをした後、微笑んで、買い物袋を持ち上げた。

「澪の好きそうなのを選んでたんだよ」

持ち上げた袋からは、胃袋を刺激するいい匂いがした。

カーペットに小さなテーブルを広げて、二人でご飯をつつきながら、たわいも無い話をおかずにする。
一週間分の話題が溜まっていたのだから余計に会話がはずんだ。
お互い腹にイチモツを抱えていると分かっていてもごく自然にそんな世間話を楽しめてしまうのが私と律の仲なのだ。
私は自分と律の相性の良さを、心から嬉しく感じるのだった。

「ふぅ。ごちそうさま。おいしかったし、ふふ、楽しかった」

少しはにかみながら茶碗に箸を寝かせる。ほとんど同時に律も茶碗を空にした。うさぎ柄とくま柄の、二人の茶碗。

「さて……と」

後ろ手を付きながら、どこを見るでもなく呟く。
それに呼応して律も小さく息をつく。

「ん……」

場の空気の味が、暖かくて甘いホットミルクティーから渋みのある冷緑茶に変わったのを感じながら、私は口端を上げた。

「恥ずかしい事言うけどさ。私、律と一緒にいる時間が最高に大好きだ」

それを口火にして、互いに避けていた話題に、私達はそろそろと踏み込んでいった。

「律がレズだからって、それは変わらない」
「……ありがと」

俯いて微笑んだ律の顔は、けれどどこか寂しさの影があって、そう単純な感情ではないのだと私に感じさせた。

「黙っててごめんな。仲よかった従姉妹が、私がビアンだって告白したせいでうまくつきあえなくなった事があったから……怖くて」
「そっか……。その従姉妹の事も、その……好き、だったのか?」

自分自身、意図のはっきりしない質問だった。一歩踏み込んでみたというところだろうか。律は一呼吸してから答えた。

「いや。その人の事は違う。ただ私を理解してほしかったんだ。その人ならわかってくれると思った。本当の自分を知ってくれる人がほしかった……」

私は頷きながら、自分がしばしばうなされる悪夢の事を思い出していた。

「律のその気持ち、全然違うんだけどさ、少しだけわかる。私も、誰にも言ったことないけど、ずっと悩んでることがあった。もし律がいなかったら、私って友達がいないんじゃないかって」
「…え?」
「……夢を見るんだ。私の隣から律がいなくなって、友達がみんな私の事を無視するようになる夢。私は律と友達だけど、お前とは友達じゃない、って」
「……」

夢を話すのは、初めての事だ。律は静かな瞳でじっと、時折頷きながら、私の話に耳を傾けていた。

「でも、そんな時必ず律が戻ってきて助けてくれるんだ」
「私が?」
「泣いている私の肩に律が手を触れて、笑いかけてくれるんだ。……ぅ。なんか照れるなこんな夢の話。……でも、だから分かる」
「もし律がいなかったら、私を孤独から助けてくれる人は誰もいないんだ。律がいないと、寂しい。唯やムギ、梓も友達だし仲間だけど、律とは違う」
「みんながいても律がその場にいないとき、あの夢を思い出して、すごく不安になる。だから、ちょっとだけ、臆病になるのも、本当に自分をわかってくれる人を作りたいっていうことも、共感できる」

律は言葉少なげにうつむいて、顔を少し歪ませた。瞼の間から伺える黒い瞳が僅かに潤んでいるように見える。

「知らなかった。澪がそんなふうに思ってたなんて」

「でも……」

どれだけ律を大切に思っても、どうしても覆せないただ一つの気持ちがある。それだけははっきりと伝えなければならなかった。
それはこれからの二人の関係の大前提なのだ。
私は律が顔をあげるのを待った。
律が私の沈黙に気づいて、上目使いに視線を送って、二人の視線が交わって。
お互いに十分に気持ちが整ってから、私は告げた。

「私は恋人にはなれない」

律の瞳はそれまでの潤いを捨て、一瞬鋭く揺れる。それから何かをこらえる様な眼をして、私の瞳を覗く。
私は息をするのも忘れて律の反応を待った。

「……私、この一週間ずっと悩んだ。やっぱ澪とさよならするべきなのかもって」

私は冷たい手で両の肺をわしづかみにされた心地だった。けれど、じっと我慢して律の言葉に耳を傾ける。

「澪が私と変わらず親友でいてくれる事はすごく嬉しい。私がビアンだっていう事実を受け止めてくれたんだから。だから、後は私が自分の気持ちに踏ん切りをつければ、それで良いんだって思った。でも……」

律は私に微笑みかけた。ただの笑みではなかった。泣き顔かとも思える、律の心のうちがそのまま現れたかのような顔だった。

「でも駄目だった」

私は自分の血管の一本一本が言い知れぬ不安に冷えていくのを感じている。

「だって、私と澪はどこまでいってもただの友達。じゃあ私は、もしいつか澪に彼氏ができた時、笑っておめでとうを言わなきゃいけないのか? ……言えるわけない……ごめん。全部私の我がままだ」
「律が謝る必要なんてない」
「いいや。せっかく澪が私と友達でいたいって言ってくれるのに……私はそれだけじゃ嫌なんだ。自分勝手だ」
「そんな事無い。律の気持ちは当然だと思う。……自分勝手なのは私だ。私、律がこれからも友達でいてくれるってかってに考えて、律にたよりきってた。自分の事しか考えてなかった……」

律が気持ちを忘れられないと言ったら、どうしよう? 私もそれを考えなかったわけではない。けれど、深く考える事をさけていた。その先にチラつく結論が、怖かったからだ。

「いつか澪が私の事を迷惑に感じるようになる……それを思うと怖いんだ。今だって澪と一緒にいて楽しいはずなのに、不安でしかたないんだ」
「待って、待ってくれよ……じゃあ律は本当に、私とはもう一緒にいられないって言うのか……?」

でも律は、首をふった。

「私は澪と友達でいたいと思ってる。でも、それで本当にいいのか分からない。……だから澪に会いに来たんだ」
「え……?」
「一人で考えてもどうしようもないって気づいたから。澪と話して決めようって」

律の心には今、不安定に揺れる天秤があるのだと気づかされて、私の背筋に冷たい緊張が走る。
この瞬間の一言一言が、二人の未来を分けるのだ。
私は、すくんでしまっている自分に気づいて、己の心で尻を叩いた。

「……二人とも一緒にいたいと思ってるんだ。なら一緒にいようよ」

もちろん律は簡単には納得しない。

「一緒にいたいと思っても、そこから先が全く違う。私は……私は澪と恋人になりたい。でも澪にとって私はただの友達――」
「ただの友達なんかじゃないっ」

私は律の言葉を遮って、立ち上がった。自分で自分の尻を叩いたおかげで、気持ちが発奮している。

「澪?」

机を回り込んで律の隣に膝をつく。
驚いている律の手をとって、私は睨み付けんばかりに律と顔を付き合わせる。

「私がどれだけ律の事を大切に思っているか、律はちっとも分かってない」

律はつながれた手に少し眼を落として、口を尖らせた。

「澪はあんまりそういう事を言ってくれないじゃんか」
「これから話すから、ちゃんと聞いて」

私は切々と語った。
自分にとって律がどれだけ特別な存在か。会えない間、会えなくなるかもと思った時、どれだけ辛かったか。昔喧嘩したときに家で一人泣いた事も、正直に明かした。
律は時々恥ずかしそうに頬を緩めたり、私の本音に少し驚いたりしながら、話を聞いていた。
私は話し終わってホゥと息をつく。
律は少し顔を赤らめながら、どう受け止めたらいいのか戸惑っているようだった。

「澪は……」

か細い声で、律が言った。

「私の事どう思ってるの? 今のだけ聞くと、まるで告白されてるみたいなんだけど……」
「その……私も自分の気持ちがよくわからないんだ」
「……」
「律とキスしたいとかそんな風には思えないけど、律とは絶対に離れたくない。……誰にもわたしたくない、なんて風にも思う」
「それって友情? それとも……愛情?」
「分からない。 愛情とか好きとかじゃないと思うけど……あぅ、ごめんな……でも絶対、この気持ちはただの友情なんかじゃないとも思う」

互いに、私自身どう理解していいのか分からず、手を握ったまま無言で見つめ合う。

「はは……私もいっそレズだったらいいのにな」
「…澪はこれだから……やっぱりデリカシーがない」
「え?」
「だって、そんな風に言われたらよけい澪を好きになっちゃう…。ビアンじゃないくせに……」

そう言いながら、瞼の端を人差し指の背でこすった。律の瞳は濡れていた。

自分の気持ちが少しは律に届いたのだろうか、と私は思う。

「実際、澪はどう思う?」
「え? どうって、それは今言ったよ」
「いや。私が澪を好きなことについて、どう感じる? やっぱり、気持ち悪い?」
「それは……」
「気を使わずに正直に言ってほしい。必要な事なんだ。お互いの違いを理解し合いたいから」
「……それって、これからも私と一緒にいてくれるって事?」
「私だって、できるなら澪と一緒にいたいから。そのためにはっきりと澪の気持ちを知っておきたい」
「う、うん。……ええとな、よく、分からないって感じ……かな。同性に恋愛をするってどんな気分なんだろうって。理解できないから、律が私に向ける気持ちが少し怖くもある。律が私にキスしたいと思う気持ち
少しは想像できる。けどやっぱり自分がその感情を抱く事はないと思うし、その……本当にごめんだけど、考えると、どうしてもちょっと気持ち悪いって感じてしまう」

私がたどたどしく話して、律はぎこちなく微笑んだ。

「……ちゃんと話してくれて、ありがとう澪」

律は気丈にそう笑ったけれど、心にある失望を隠し切る事はできないようだった。気配のふしぶしにそれが現れているのだ。
そして私はそんな律を慰めずにはいられない。

「なぁ律。私は律の事を世界一大切な友達だと思ってるし、もし私が男だったら、け、結婚しちゃってもいいってくらいだぞ。あはは……。それなのに、キス、とか、抱き合うとか考えるとやっぱり気持ち悪いって思ってしまう。私おかしいのかな」

律はまたいくらか瞳をうるませながら、笑った。

「馬鹿だな澪は。おかしいのは私だ。私が……ビアンだから……」

とても一言では表せないような、複雑な思念を感じる律の表情だった。笑っているのか、泣いているのか、困っているのか、喜んでいるのか、呆れているのか、私には分からなかった。

「私……あの薬を手にいれて使おうかって考えた」

大学の授業で、レズやゲイを「治療」する薬があるということを聞いた。
私が後輩に告白されたことを律に話したとき、その薬の話もした。
律が言う『薬』とは、この同性愛を「治す」薬のことに違いない。

「あの薬って……律……」
「私だって、それくらい悩んだんだぞ」
「私に言う資格はないかもしれないけど……今までの律を殺すなんて事、してほしくない」
「私だってしたくない。でも」
「もし、私のせいで律が望まずにそんな事をしなきゃいけないなら……私……私は律と一緒にいられない」
「……私がビアンじゃなければ、普通の親友でいられるんだぞ」
「律」

私は律を握る手にギュッと力を込めた。

「レズビアンは律の生き方なんだろう。それを否定することなんてない。私は今の律のすべてが大切なんだ。律が私のせいで自分を殺してしまうなんて耐えられない」

律は俯いて瞳を隠した。涙が一つ、カーペットを濡らした。


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