早くなった秋の夕刻。私が大学の講義室でレポートの作成を行っていると、背後で、ガチャリと部屋のドアのノブが鳴った。
誰か来たかな、と一瞬顔を向ける。が、いっこうにドアは開かれる気配がない。んん? と片眉をあげ、手を止めて今度は肩ごと向けて注視する。

(気のせい……?)

と私が思い始めた頃に、ようやくドアは開いた。いや、開き始めた、と言うか。
ドアは、まるでホラー映画のようなもったいぶり方で、ゆっくりと押し開けられていくのだ。

(な、何だよ)

若干警戒しながら眉をひそめる。まさか大学構内で泥棒や変質者、ましてやおばけに出くわしたりはしないだろうが……。
ドアの隙間が、人間一人がギリギリ横歩きで通り抜けられるかな、というくらいになった時だ。
見覚えのある顔がヒョイッと現れた。

「お?」

ゼミの後輩である。特別親しい仲ではないけれど、何度か一緒に調べ物をしたり食堂で一緒にご飯を食べた事がある。
でもそれはさておき、私は首をかしげた。彼女はこの階の教室には関係ない学生のはずだった。

「どうしたんだ?」

後輩がその呼びかけに気づいて、私と目が合う。

「あ! せ、先輩!」

後輩はぎょっとした顔をして、それから、ささっと講義室に入ってきて、バンッ!とやかましい音でドアをしめた。
後輩は室内をきょろきょろと見回して、他に誰もいないのを確認したようだった。それから、トトトトと早足で私のそばにやってくる。
どうも様子がおかしい。

「秋山先輩。お、お話があります。ちょっと、い、い、いいですか!?」

あからさまに声は裏返って、顔は真っ赤に強張って、おまけに両の拳をギュッとにぎっちゃったりなんかして。
いつもはどちらかというと物静かな性格の後輩だ。その緊張っぷりは何かの喜劇のようだった。
とにかく必死な感じはよく伝わってきて、ちょっと気おされてしまう。

「え、あ、うん。私を探してたの?」
「はい。こ、こここ、ここではなんなので、場所を変えませんかっ」
「う、うん。いいけど……」

後輩は一瞬ほっとしたような顔をした。けれど、すぐにまた固い顔になって「では」とだけ言って私を連れ出した。
一緒にならんで廊下を歩く。後輩は、歩く姿までガチガチに緊張していた。適当に話かけても、「はい」、とか、「ええ」、とか口数の少ない返事だけ。

(あー……これはもしかして)

この時にはもう、私はおおむね後輩の用件に察しがついていたのだった。相手は違うが、これまでにも似たような事があった。

(やれやれ。またかぁ)

と、内心で溜め息を吐きつつ、連れてこられたのは夕焼けの差し込む空き教室だった。

「それで、何の話?」

なるべく、優しく声をかける。
二人でこっそりと講義室に忍び込んでから、後輩はまだ一言も口を開いていない。
ただ、組んだ両の手のひらをもじもじとさせながら俯いている。 夕日に染まる幻想的な沈黙の空間。
時折どこか遠くの廊下から足音や会話のこだまが届いてくる。もちろん教室には二人きり。多分、悪くないムードなのだろう。
けれど私の心内は冷め切っていた。後輩には悪いとは思うのだが。

「あ、あのっ」

後輩はいよいよ覚悟を決めたようで、握りこぶしに力をこめて、心を吐き出したのだった。
そしてそれは、おおむね私の想像通りの話だった。

「私、先輩には打ち明けます。先輩なら……きっと聞いてくれるって……今日こそは絶対言おうって……」

一度深呼吸をしてから、後輩は打ち明けた。

「あの、私……ビアン、なんです!」

(あぁ先にそれを伝えるパターンか)

相当に勇気をふりしぼっているであろう彼女には悪いと思うが、私は特に驚きもせずくだらない分析をしていた。

(まぁ、まずはワンクッションあったほうが、聞くほうも理解しやすいよな)

単刀直入に、好きです、とだけ言ってくる子も過去にはいた。たしかはじめての被同性告白経験の時もそうだった。
その時は初めての事でさすがに動揺して、つい相手に奇異の目を向けてしまって、あの時は悪いことしたなぁ、と今でも後悔している。

「えっ?」

と、私は一応は驚いたふりをした。相手も驚かれることを想定しているだろうから、その想定どおりに動いてあげるほうがいいのだ。
私は場慣れしてしまっている自分に、苦笑いをする。

「それで、私……先輩の事が好きなんです!」
「ええっ……!!」

衝撃の告白がはじけて、一瞬、教室は音の真空状態になった。……のだろう、彼女にとっては。
しかし、その告白を受けたとうの私は……。

(うー……何で私ってこう……レズの人に好かれるんだろう)

運動場から聞こえてくる、カキーンというどこか間の抜けた音に耳を澄ましながら、どうしたものかなぁ……なんて考えていた。
百合の花影も薔薇の香りも、心中には一切ない。今年にはいって三度目の経験に、ただうんざりしていた。

(やっぱ律か? 律と普段よく一緒にいるし、休みも結構一緒に行動してるし、そういう話を他の友達にしてるし……なんか、そういう趣味だとおもわれるのか?)

(いやけど、ここ女子大だし……高校の時は…ファンとかだったし…うーん……)

「友達、からでもいいです! 私と付き合ってくださいっ」

私は結構本気で悩んでいたために、半ば自己世界に埋没してしまっていた。それで、後輩の気合のこもった声に、驚く。

「……ハッ! あ、ああ、ええと……うーん……」

見ると、後輩は腰を前方に45度曲げたお願いしますポーズで私に頭をさげている。
私は逃げ場を求めて、窓の夕焼けに目をやった。

(うー……助けて律-)

赤い空に、律の他人事な笑みが浮かんでいた。

「――なんて事があってさ。まいっちゃった。何で助けてくれなかったんだよ律」

私は占領したソファーにうつ伏せになりながら律に愚痴った。
大学から近い、ワンルームマンション。
律は、大学の帰りが遅くなった日などは自分の部屋に帰らず私の部屋に泊まる。その日の晩御飯と食後のデザートが宿代だ。
今夜のメニューは近所のスーパーの惣菜とケーキ。それに加えて私が炊いた米である。すでに二人とも晩を食べ終わって、ケーキをつついている。

「さぁ。私がでしゃばって、勘違いされて修羅場になるのが嫌だったのかもね」

律は適当に話をあわせて私をあしらった。カーペットに座りソファーを背もたれにしてテレビを見ている。
きっと、私の話よりもテレビに意識が向いているのだろう。

「あー……まぁそんな風になっちゃうかもしれないなぁ」
「それでー? 返事は?」

律の片手間な質問が、私はちょっと気に入らない。まぁ、愚痴を聞いてもらっているのだから我慢するのだけど。

「そりゃ、ごめんなさいって言ったに決まってるだろ」
「あら、かわいそ」

律はひょいと肩をすくめただけで、テレビから目を離さなかった。
私はその投げやりな態度に、むぅ、と頬を膨らませる。私は律に相手をしてほしいのだ。
私の丁度目の前に、律の後頭部がある。私は、短く整った綺麗な茶髪をひょいと一房、握った。
親指と人差し指の腹で髪をこすると、細くて柔い繊細な感触が伝わってくる。染めた髪がよく手入れされている。

「ねぇ律、私ってなんかそういう、レズっぽい雰囲気あるのかな? 引き寄せてるのかなぁ」
「んー」

律は一言、気の無い返事をよこしただけだった。

「……むぅっ!」

私はすねて、くぃっくぃっと少し強めに律の髪を引っ張った。

「ちょっと! 痛い!痛いって!」

と、さすがに律が振り向いた。
私はその律に鼻を突き合わせる。

「だって。律が話を聞いてくれないんだもん」
「聞いてるよっ。澪の言った事を考えてたの!」
「……ふん、それならごめんなさい」

私は悪びれもせず唇をピルピルさせた。

「ったく! ……澪って、可愛いくせにどこか男っぽいと言うか、口調もそうだけど、美人な割に女々しくないっていうのか?ビアンの娘達にとっては、それが頼もしく思えるのかもな。
 女性でありながら、男性的な魅力を持ち合わせてるって感じかな? それに、面倒見もいいし。……実際の澪は結構、かまってちゃんなのにな。まったく、枝毛になっちゃうだろ」

律は、引っ張られた髪を迷惑そうに整えながら言った。

「男っぽいのは律の方だと思うけどな。…まあ、そうだな、なるほど。けどイヤに詳しいよな、律。……まさか律も私のこと!」

私がふざけると、律の表情がゴキブリの交尾を見てしまったような顔になった。

「やめてくださいまし。それに詳しくて当たり前だろ。なんせ私ら女子高上がりの女子大生ですから」

律の嫌そうな顔は、まさに私の期待通りの反応で、私は楽しくなってケタケタと笑う。

「ははっ。けど、そっか……私も罪作りな女だなぁ」

私の演技の入りすぎた芝居に律は、馬鹿だな、というような顔をしてまたテレビの方を向いてしまった。
私はそんな律の後頭部を眺めながら、とりとめもない思考に走った。

「彼女、大丈夫かなぁ……。私が断ったら、あの子、泣き出しちゃったんだよ」
「あら」
「泣きながら言うんだ。どうか自分がレズだって事は誰にも言わないでくださいって。もう見ててかわいそうでならなかった」
「まぁ、澪なら言いふらしたり蔑んだりはしないはず、とは考えてたと思うけどな。でなきゃカミングアウトしないだろ」
「そりゃもちろんそんな事はしないさ。けど、慰めるのに必死だったんだから。これからも仲良くしような、これからも友達でいような、って」

と、それまでテレビに目を向けていた律が、振り向いた。そして私を非難した。

「おいおい……澪お前、そんな事言ったのか?」
「え……な、なんだよ。いけなかったか?」

律は、大きな溜め息をついた。

「あのなぁ、考えてみろよ。ふった相手に、仲の良い友達でいようねー、なんてわざわざ伝えて、それって追い討ちだろ」
「え、ええー……?」

半ばこんがらがった頭で私は弁解する。

「ち、違う。私は、貴方がレズでも一切気にしないよって言いたかっただけで……。これからも友達だよって……」
「はぁ……だからその言葉が余計でしょ……」

律に白い目で見られて、私はうぐっと声を詰まらせる。それからソファーに顔を埋めて、足をばたつかせた。

「あーもう、ややこしいなぁー!」
「デリカシーの無いやつ……」

呆れた言葉を言い捨てて、律はまたテレビに戻ってしまった。
罰が悪くて、しばらくは私も黙って、一緒にテレビを眺める。
それでも少し、後輩の事が気になってしまう。次会った時、あの娘はいつもの笑顔を見せてくれるのだろうか、なんて考えて。
でもそれもすぐに頭から消えて、テレビを見終わってからも少し飲んで、いつもと同じ夜を、律と過ごした。

あれから二日しかたっていないのに、随分と昔の事に思える。

「あの時間に戻りたい、律とさよならなんてしたくない……そう、それが私の伝えたい事」

律ならきっとその願いに応えてくれる。私はその希望にしがみついた。自分にだけ都合のいい話なのかもしれない。けれど私には他にどうすることもできないのだ。
ベッドの上に立ち上がって、深く息を吸って、吐いた。私は思い切って律に電話をかけた。

トゥルルル、トゥルルル……

コール音に、緊張が高まる。でも……

『……お客様は、ただいま電話に出ることができません……』

無機質な声が、私を拒絶した。

「……律……」

さけられているのだろうかと嫌な考えが浮かんで、顔をしかめる。ともあれ私は伝言を残した。

『律。できたら今日、会いたい。会って話をしたい。電話で話すだけでも、いいから……。私、この間は酷い事言った。ごめんなさい。会って謝りたいんだ。許してほしい』

律から電話がかかってきたのは、日付が変ろうとする頃だった。
その時私は枕に突っ伏してもんもんとしていた。
律専用の着信メロディがなって、私はまさに飛び上がった。枕元に転がる携帯をあわてて手にとり、二つ折を開く。
画面には、間違いなく田井中律の表記があった。
携帯を手にとるのは素早かったのに、画面を確認してから通話ボタンを押すまでは、倍以上の時間がかかった。

「……もしもし。律?」
『……澪』

お互いに、不安を隠そうとして隠しきれていない、そんな低く沈んだ声だった。
私は、たった二日会っていないだけなのに、律の声が懐かしくてたまらなかった。
二人ともに相手の出方を伺っているのか、少しの間、会話は無かった。

「……律。本当にごめん。私、あんな事言っちゃいけなかった。すごく後悔してる」

私は普通に話そうとしているのに、どうしても、声に暗さが残った。
僅かに緊張を感じさせる律の声が返ってきた。 

『……ううん。いいよ』
「よくないよ」
『私のほうこそ。ごめん』

何に対しての『ごめん』なのかという疑問と、やっと律と話せた安心と、慎重に話をしなきゃという意識が、私に冷や汗を浮かべさせる。

「……ねぇ、聞いて。私はこれからも律と一緒にいたい。二人で話し合って……なんとかできないかな」

少し、律の返事には間があった。
嫌な予感がして、私は表情を強張らせた。

『……ありがとう。私も澪と一緒にいたい』
「よかった……」

私はほっと頬を緩ませた。
でも、続く律の言葉が再び私の顔を凍りつかせた。

『でも、今は一人にしてほしい』
「え……」
『澪といると辛いんだ。声を聞くのも……』
「律。で、でも」
『私にキス、してくれる?』

私には律のその言葉が不協和音の塊のように響く。私の常識とは相容れない感覚なのだ。

「……それは……」
『気持ち悪い?』
「……っ」

私は何も答えられなかった。
それなのに、沈黙の言葉が、私の明確な意志を律に伝えてしまう。
私の顔が精神の苦痛に歪む。

「ごめんっ……」
『気にしないで。しかたないって。それに私のはただの失恋の痛手だから。しばらくしたら……きっと平気になる』

律は無理に笑っている。それが痛々しくて、私の心を切り刻む。

「律。私達、友達でいられるよな」

言ってはいけないと思いつつ、聞いてしまう。
少し間をおいて戻ってきた返事は、ひどくたよりなかった。


3