――夢――

その日見た夢は奇妙な、倒錯した夢だった。

――律が私にキスしてる……

夢独特のぼんやりとした薄暗い世界で、目の前には幼馴染の顔。律は眼を閉じている。
明るい茶色に染めた髪と下ろした前髪。唇が触れている。柔らかい。

「律……?」

夢の中の私が呟いた。お互いの唇が、柔らかくと押し合う感触。
すると律がビクンと震えて、顔を離した。どことなく怯えた感じの目で私を見下ろす。

「りつ……?」

再びそう呟いた、その次の瞬間だった。

「――え?」

夢じゃない。
突如、これが現実であるという感覚がはっきりと私を飲み込んだ。

「えっ!?」

驚きを隠さないまま、自分を覗き込んでいる律を押しのける。
飛び起きて、ふわふわしている自分の意識をたたき起こす。
深夜、電気の消えた自分の家、ベッドの上。
今日の記憶――大学の食堂で一緒にご飯を食べた後、私の家で飲むことになって、女の子の後輩に告白された話を律にして。
自分は先に寝て、あとから律がベッドに入ってきて――。そして、さっきの唇の感触。
すべて現実の感覚だった。

唇に残った生暖かい感触に――鳥肌がたった。

「何してるの律!?」

私の中の性の価値観が一斉に拒否反応を起こした。
ごしごしと唇をぬぐいながら呆然とする。
律の強張った顔を、暗がりの中で凝視する。

「み……みお……その……」
「馬鹿じゃないか!? 何なんだよもう!」

唇に残る律の感触が、私にヒステリックな悲鳴を上げさせた。ぬぐってもぬぐっても、後から後から嫌悪感がわいてくる。
何が起こっているのか、まったく理解できない。
私はベッドから飛び出して、乱暴に蛍光灯のスイッチを入れた。
暗がりの部屋に、目障りな眩しい光が広がる。
私はベッドの上の律を睨んだ。
律は体を縮こませて、俯いている。その肩が小さく震えていた。

「説明してくれよ津! なぁ? どういうこと!?」

怖い。気持ち悪い。理解できない。同性に本気でキスされたという現実が受け入れられない。
目の前にいる律が、知らない誰かに思えてゾッとした。

「なんでこんな気持ち悪い事するの!?」

叩きつけるような私の怒声に、律は小さく呟いた。
それは、消えてしまいそうな、震える声だった。私が知っている凛とした律の影はもはやどこにも無かった。

「そ、の……寝ぼけて……つい……」

それが真実だったならいい、と私は思った。だけど私と律の深い仲が、律は嘘をいっていると見破らせてしまう。

「そんなふうじゃないだろ……!?」

嫌悪と非難が、私の心にあふれた。律はそれを感じて怯えるように、ただ頭をたれて、顔を青くしている。

「……ごめん……」

律のかすれた呟きが、私に非情な現実を突きつけた。

「本気で私に……してたの……?」

律の行為をキスと呼ぶことさえ私の心には耐えがたかった。もっとおぞましい、別の何かだった。

「なんで……? なんで律が私に、するの……? 意味わかんない……なんだよそれ……」

考えたくない可能性が、私の頭の中にはあった。だから声が震えた。体も震えた。
親友との絆が、震えていた。この現実から逃げ出したかった。

「律。帰って。私どうしていいかわからない」
「み、お」

重たい沈黙。
蛍光灯の音が、ジージーと虫の羽音のようで耳障りだった。

「出て行って」
「……」

律は傷を負った小動物のような動きで、ようやく体を引きずってベットから降りた。
鞄と、服を手にとって、寝まきのまま、よろよろと玄関に向かった。

私は時計を見た。午前四時前。……この時間に女の子を一人で帰らせるわけにはいかない。まだ外は真っ暗だった。
ためらった後、私は玄関に向かう律にかすれた声をかけた。感情の無い声だったと思う。

「……待って律。ソファーで寝て」

私はそれだけ言って、すぐに電気を消して、ベッドに逃げ込んだ。律用の枕を床につき落として、ベッドの真ん中で身を埋めた。頭まで毛布をかぶって、ソファーには背を向けた。
それでも、律が動く音からは逃げられなかった。よろよろとしたその足音は玄関からまっすぐにソファーに向かって、律がソファーに倒れこむ音が聞こえた後は、何も聞こえなくなった。
ただ小さな泣き声で、

「ごめんなさい」

とだけ聞こえた。
音がなくなって、闇の世界で私は強い混乱に襲われた。
律に、友人に、キスをされた。その現実をどう処理すべきか、私にはわからなかった。
友人との楽しい日々が、これからの未来が、突然何もかも真っ暗になってしまったようだった。
悲しみか、苦しみか、叫びだしたくなるような負の衝動が、心の中で渦巻いた。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
体感で三十分ほども苦しみ続けた後、私は毛布から頭を出して囁いた。暗がりになれた瞳に、ぼんやりとソファーが見える。その上に横たわる、律の姿も。

「……律はレズなの?」

暗い部屋に、囁きが広がる。
暗闇の奥から、切なげな返事が投げ返されてきた。

「私ずっと、澪。澪の事が好きだった。……ごめん」

その言葉はカナヅチで頭を殴られたような衝撃で。今までにうけた告白のどれよりも、私の心を脅かした。
私はまた頭まで毛布を被った。親友がいるこの部屋のベッドの上で、私は一人ぼっちになった。
ふいに涙が一筋こぼれて頬と枕を濡らした。

朝日がカーテンを照らす頃、律はそっと帰っていった。私はそれに気づいていたけど、声をかけることができなかった。
酷いことを言ってしまったという後悔はあったし、それを謝りたい気持ちもあった。けれど心に、律を拒否する気持ちが粘りついてしまっている。
律の足音が遠くに消えて、私はベッドから降りて、洗面台で顔を洗う。鏡に映っているのは、一睡もしていない酷い顔。
部屋にもどって、律が眠っていたソファーに目を向ける。律が枕代わりにつかったであろうクッションに、大きな染みができていた。
涙だろうか。涙だとしたら、私と比べ物にならないくらいに、律は泣いたのだ。
友人の気持ちを考えると胸が痛んだ。でも、唇に残るキスの感触はどうしようもなく不快で、その友情をもかき消そうとする。

「律……」

カーテンを開ける。
朝日眩しく、空は青い。だが、そんな陽の光も心までは照らしてくれなかった。
今日は大学休もうか、とさえ考えてしまう。けれど、気持ちになんとか活を入れて、大学へ行った。家にいたら、泣いてしまいそうだった。
講義は何一つ頭に入らず、講師の声は耳から耳へと素通りしてゆく。頭の中にあるのは律の事だけだった。正確には、律とのこれからの関係、というべきか。

――律はレズで、そして私の事が好き? ……どうしたらいいの?

律は得がたい大親友であり、小さい頃からずっと音楽を共有してきた仲間なのだ。簡単に縁を切って、はいそれでお終い、なんて事は私自身も望んでいない。
けれども、律が同性愛者であるという事実は、軽くない。いや、ただ同性愛者であるだけなら、まだよかった。
性癖はどうあれ、律の人格は信じている。でも……その思いが自分に向いているとなると。
答えが、でない。
その日、大学で律と会う事はなかった。あるいは不可抗力で律とすれ違えるかもしれないと思っていたのだけど。
帰宅して、味気のない晩御飯を食べる。ふとカレンダーに目がとまって、明日が週半ばの祝日である事を思い出した。明日は、放課後ティータイムの活動予定だった。

「……どうしよう」

一度電話してみようか、と思う。けれど、躊躇ってしまう。

「ああもう……私はどうしたいんだよ……!」

苛立って、テーブルに拳を振り下ろす。ガシャンと、空になっていた茶碗が跳ねた。
結局、電話することは出来なかった。そしてまた、律から電話が来る事も無かった。
翌朝、私は一人で目覚め、一人でご飯を食べた。そして、一人でバンドのメンバーと合流した。
その日の放課後ティータイムは、一人が欠席した4人で久しぶりの活動を開始することになった。

空気が震えている。スピーカーから弾けるように響くエレキの音色と、キーボードの鮮やかなグラデーション。
そこへ私のベースの低音が交じり、私達だけの音楽ができあがる。
私の大好きな音楽がほんの一時だけ心の淀みを忘れさせた。
視線を横に流せば仲間がいる。けれどそこには、リズムだけじゃない、明らかに足りないものがあった。

「もー、ドラムが無断欠席なんて聞いたことないです!」
「じゃあちょっと休憩して、お茶にする?」
「するー!」

いつもの放課後ティータイムだ、と少しだけ安堵する。みんなは私と律にあったことを知らないようだった。
律が言えるはずもないし、当たり前のことなのだが。

「りっちゃん、どうしたんだろうね」
「電話も通じないし、ちょっと心配ですよね」
「澪ちゃんは何か聞いてない?りっちゃんから」

私は。

「う、うん。風邪でも引いて病院にでもいるんじゃないかな」

(私は……)

律が私に音楽を教えた。根暗で人見知りで友達もいなかった私が、あの日からはよく笑うようになった。

律に電話が通じないと知ったとき、私はどうしようも無い孤独感に襲われた。仲間が隣にいるのにもかかわらず、だ。
律にそこまで依存しているなどという事があるはずがない。人見知りは相変わらずだけど、私だってそこまで孤独ではないつもりだ。
一昨日あんなことがあったから、少し感情的になっているんだと自分に言いきかせた。

――私にとって律は、何?

あの夜から、ずっとそのことばかり考えていた。
律がきっかけで音楽を好きになり、バンドを組みたくて高校では軽音楽部をつくった。
自分の居場所を作りたかった。そして、その願いは叶ったはずだった。
自分を受け止めてくれる友人を、一緒に笑い合える友達をこうしてたくさん、私は得たのだ。そのはずだった。

「……っ」

突然は私は怖くなった。何か得たいの知れない感情が体内に噴出してきて、これ以上律のことを考えるとおかしくなってしまいそうだった。
だから私はいつもより激しく、音楽に没頭しようとした。ドラムのいないバンド演奏で、私の低音がいつもより響いた。
そして私の頭の中から、律が消えることはなかった。
ああ、なんてことだ。
私は泣き出したくなるほど、淋しかった。
そしていつもなら、律がこの淋しさを癒してくれるのに……!

その日のバンド活動は、メンバーが一人抜けていたということもあり、いつもより早く解散した。
家に帰ってから、夕食を食べているときも、シャワーを浴びているときも、ベッドに入ってからも、私の心が休まることは一瞬たりともなかった。

「律……」

律。律。律。
閉じた瞼に律の顔ばかりが浮かんだ。 
律。律。律。
自分はいつの間にこんなに弱くなってしまったのだろうか。そんな事を考える余裕さえ、もはや私にはなかった。
錯乱といってもいい。私から拒絶した律をもとめて、心が喘いだ。
私はすがるように震える手で携帯を取り出した。親指を痙攣させ電話帳を検索する。

『田井中律』

ディスプレイに浮かぶ無機質なその文字さえもが、私には、いとおしかった。
大げさではなかった。同じこの空の下に、律という人間が今も確かに生きているのだと思うと、とりとめのない恍惚があふれた。
と、同時にそんな相手と離れ離れになっているこの現実がどうしようもなく悲しかった。それで私はもう我慢ならなくなって――

――唐突に、あの晩の律のキスを、私は理解できたような気がした。
求めてやまない人が自分の側にいて、でも気持ちを伝える事ができなくて。それはどんなに辛い事なのか。律を渇望する今の私には、それが痛いほど理解できた。
律はそんな気持ちをずっと抱えて。ずっとずっと耐えて、そしてとうとう我慢できなくなったのだろう。あのキスはあふれ出した想いそのもの だったに違いない。

「律」

律の気持ちに心が重なって、私の目から涙がこぼれた。

「ごめんね律。好きになってあげられなくて」

自分にとって律は誰よりも求めて止まない相手なのに、その気持ちにこたえてあげることができないなんて、自分は何と歪んだ人間なのだろう。
私は己の身勝手な精神を嫌悪した。
本能的な寂しさが律を強く求めているのに、本能的な性の価値観が律を頑なに拒んでもいる。
いっそ自分もレズビアンだったなら全てのすれ違いは解決できるのに、とそんな事さえ考えた。
私は自分の脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまいたかった。

「律と話さなきゃ。私、一方的に……あんな酷い事を」

後悔と同時に、心は決まった。
さよならなんてしたくないと、律に伝えなくてはならない。

「今まで通りの友達でいてほしいって……ああ、それじゃだめだ、友達じゃあ……」

一昨日律に言われた、「デリカシーの無いやつ」、の言葉を思い出す。

(……そうか、あれはつい数日前の事だった……)


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