いちごと階段を下りようとすると、上の階から音が聞こえた。

ギターだった。

唯だろうか。ギター以外の音はしなかった。
ムギと律はまだ教室にいたから、おそらく一人で弾いているのだろう。

―――みーおせーんぱい!―――

―――手、つなごっ?―――

聞き覚えのあるフレーズとともに、梓の顔が浮かぶ。
私の横を幸せそうに歩く梓。
くしゃっとした顔で笑う梓。

―――………最低―――

そして、冷たい目をした梓。

澪「………」

……いったい何をやっているんだ私は。

その場に立ち止まった私は、
諦めていいわけがない。受け入れていいわけがない。

いちご「どうかしたの?」

澪「ごめん、いちご。用を思い出したから先に帰ってくれないか?」

いちご「?いいけど…」

唯のギターで目が覚めた。
戻らなきゃ、元の世界に。

軽音部じゃない私なんて、私じゃない。
梓の隣にいない私なんて、私じゃない。

澪「このままじゃ、ダメだ…!」

そうつぶやいた私は、あるところに向かった。


【生徒会室】

向かった場所は生徒会室。

コンコン

私は生徒会室の扉を叩いた。

「はい」

ガチャ

澪「…失礼します」

和「あら、澪じゃない。どうしたのこんなところに」

憂「あ。澪さん、こんにちは」

生徒会室には和だけでなく憂ちゃんもいた。
クラスでの出し物に関する書類を提出しに来ていたようだ。
文化祭が近いからか、机には書類やらがたくさん積まれていた。

和「今ね、憂とちょうど澪の話をしていたところだったのよ」

澪「私の話?」

和「最近の澪、ちょっと様子が変というか…ぼーっとしてる時が多いような感じがしてたから」

憂「この前も昇降口で腕を掴んだりしてたじゃないですか」

憂「別れてから梓ちゃんのことをずっと避けてたのに、急に梓ちゃんのところに来るようになったから…」

憂「それで、どうかしたのかなって2人で話していたところだったんです」

澪「………」

なるほど。
梓とは別れてから一切関わりを持っていなかったようだ。
それが急に関わりを持とうものなら、誰だって変に感じるだろう。
和も最近の私に違和感を覚えていたらしい。

澪「…梓は、最近どんな感じなのかな?」

憂「梓ちゃん、ですか?」

澪「うん…」

とりあえず、今の梓のことが気になった。

憂「相変わらず…ですね。ぼーっとしてて、上の空って感じで」

憂「ここ最近は澪さんとのこともあってか特に元気がなくって」

憂「澪先輩が何考えてるかわかんない、って泣いてました」

澪「…そっか」

想像していた通りだった。
私が梓にどんなことをしたのかは、怖くて聞けなかった。
でも少なくとも梓の心に大きな傷を負わせてしまったのは確かなようだ。

憂「あの…。何か、あったんですか?」

澪「………」

和「…澪?」

ほんの少し、打ち明けるのが怖くなった。
軽音部を去り、梓とも別れ、どうしようもない日々を送っているこの世界の私に対しても、2人は変わらぬ態度で接してくれている。
事情を話したら、もしかしたらそれすら失ってしまうのかも知れないという不安にかられたからだ。

憂「言えないようなら、無理に言わなくても大丈夫ですよ?」

憂ちゃんは気を遣ってそう言ってくれた。

…ちがう。一番怖いのは、この未来を受け入れてしまうことだ。

失うものなんてもう何もないじゃないか。
私は揺らいでいた決心を固め直し、そして…。

澪「実は…」

2人に事情を説明した。


和「5ヶ月前から来た?」

澪「うん…」

和「疑うわけではないけど、いくらなんでもそれは…」

憂「記憶喪失とか、そういうのではないんですか?」

2人の反応はもっともだった。
いきなり5ヶ月前からやってきただなんて話、誰が信じるだろうか。
当然といえば当然のその反応に挫けそうになる。しかし私は話を続けた。

澪「…これを見てくれ」

私は手に貼られている絆創膏を剥がす。

澪「4月14日に、猫に引っかかれて出来た傷だ」

澪「5ヶ月も経ってるなら、とっくに治ってるはず」

澪「それに、この髪も」

そう言って私は携帯を開いて2人に見せた。
8月終わりの頃に撮った写真(もちろん覚えはない)を見ると、私の髪は今に比べだいぶ短くなっていた。

和「…確かに、言われてみれば澪の髪が急に伸びた感じはしたけど」

澪「こんなの、5ヶ月前の私がそのまま来なきゃありえないことなんだ」

澪「今2人の前にいる私は、私じゃないんだ」

自分でも何を言っているんだろうと思う。
私は私じゃないなんて。

憂「…ですけど」

憂「仮にここにいる澪さんが5ヶ月前から来た澪さんだとして、“今”の澪さんはどこに…」

澪「そんなの、こっちが聞きたいぐらいだよ…」

確かに言われてみれば不明した点はいくつかある。
なぜ目が覚めたら雑木林ではなくベッドにいたのか。
“今”の私はどこにいるのか。
だけど、そんなこといちいち考えてはいられなかった。

澪「私、このままなんて嫌だ」

澪「梓もいない、軽音部も辞めてる。こんな未来、私は認めない…」

澪「元の場所に…帰りたいっ…」

藁をもすがる思いだった。
顔は涙でぐしゃぐしゃ、情けない姿を見せてしまっていた。

澪「……っく、えぐ…」

憂「澪さん」

泣きじゃくっている私に、憂ちゃんは声をかけた。

スッ

憂「涙、拭いてください」

そういって憂ちゃんはハンカチを渡してくれた。

澪「…?」

和「事情はわかったわ。戻れるのかはわからないけど、出来る限りやってみましょ」

澪「……!」

憂「私も手伝います」

澪「……ありがとう。本当に、ありがとう…」

やっと味方が出来た。
戻るんだ、元の場所に。

それからは3人で生徒会室に集まって話し合うことになった。

和「それで、どんな状況でこっちに来たの?」

澪「家の帰り道にさ、雑木林があるんだ」

澪「その雑木林から不思議な光が出てて…。よくわからないんだけど、それに惹かれるように足を踏み入れたんだ」

澪「そこからはあまり覚えてない、目が覚めたらベッドにいて…」

和「何か変わったことはなかった?」

澪「…特に何も」

憂「うーん…。タイムスリップみたいな感じですかね」

和「まさかそんなことが現実に起こるとはね…」

三人寄れば文殊の知恵、などとはよく言ったものだ。
こんな現実離れした現象、そう簡単に原因がわかるわけもない。
あぁでもないこうでもないと試行錯誤する日々が続いた。

何日かして和が興味深い話を持ち出した。

和「ねぇ、澪。時震って知ってる?」

澪「時震?『地震』じゃなくて?」

和「少し4月14日について調べてみたんだけど…」

和「その日の夜、ちょうど澪が意識を失ったあたりの時間帯に大きな地震が起きてるの」

憂「それと澪さんにどんな関連性があるんですか?」

和「これよ」

そう言うと和は雑誌を出した。
見出しには『神かくし?超常現象?』と書かれていた。

記事によると、その地震の発生後例の雑木林から動物が一匹もいなくなっていたらしい。
もともと近隣の住民はその雑木林に住む野良猫やらネズミやらに手を焼いていたのだが、
その地震以降ぱったりと被害がなくなったようだ。
原因は不明。時震?神かくし?などと言ったオカルト的な内容で話が締められていた。

澪「これは…?」

和「ちょっと前の雑誌の記事よ、図書館にバックナンバーがあったから持ってきたの」

和「読んでみるとわかるけど、その地震以降雑木林から動物が消失したらしいの」

和「こんな紛い物の記事、信用に値するかはわからないけど…」

和「もしかしたら澪はその時震に巻き込まれたのかも知れない」

耳を疑うような話だった。
これが本当なのだとしたら、私はタイムトラベルをしたことになる。
それこそSFの世界での話、にわかに信じられることではなかった。
しかし現に自分の身にそれが起きてるわけで、今はオカルトだろうと何だろうとそれにすがる他なかった。

澪「じゃ、じゃあ…その時震?が来たら元に戻れるってことなのか?」

和「もしかしたらね。けどそんなに言うほど簡単なことじゃないわ」

澪「?」

和「地震は言ってしまえば災害。正確な予知なんて出来ないもの」

和の言うとおりだった。
地震が起こったとして、それが時震である確証はない。
それに、もし時震だったとして元の時間に戻れるとも限らないのだ。

憂ちゃんとは、何度も雑木林に足を運んだ。
懸命に手がかりを掴もうとしたが、何も得られなかった。

学校では着々と文化祭に向けて準備が進められている。
無責任なことも言っていられない。劇の練習も必死にした。
クラスメイトとも徐々に打ち解けられるようになっていった。
というか元々こっちの“私”は割と広い交友関係を持っているようで、
お昼なんかも色々な人と食べるようになっていた。

軽音部のみんなとは相変わらず気まずいままだったが。

いちご「ほら、澪。やるよ」

澪「うん」

劇の練習もいよいよ本格的なものとなっていた。
文化祭は、着実に迫っていた。

澪「ありがとう、憂ちゃん。また明日」

憂「はい、おやすみなさい」

夜も更けてきた頃、憂ちゃんと別れ帰路についた。
今日も日課のように雑木林に足を踏み入れる。
私なりにも色々と調べてはいるが、ちっとも解決の糸口にはつながらなかった。
果たして本当に帰れるのだろうか…そんな不安が日々押し寄せてくる。

憂ちゃんには梓の話もよく聞いた。
別れたばかりの頃は学校を休みがちだったとか。
唯も、めっきり元気がないらしい。
よくも私はそんな中で平然と過ごせていたものだ。

澪「……梓」

梓は、今なにをしているのだろう。

そんなことばかり考えていた。


【澪の家】

ガチャ

澪「ただいま…」

パソコンに電源をつける。
これもこっちに来てからは日課となっていた。
何か手がかりを、そう思っての行為だ。

カチ、カチ、カチ…

無機質なクリック音だけが部屋に響く。

カチッ

澪「ん?」

思わず手を止めた。
視線の先に映るのは何気ないニュースのページ。

『今年2度目の月食、観測か』

興味本位でページを開く。
目を引いたのは、赤銅色をした月の画像。

澪「これって…確か」

この画には、見覚えがあった。
そう、あの時の夜見たものと同じ。
おぼろげだった記憶が紐解かれる。

澪「そうだ…。私、この月の光に誘われて…」

あの時私は雑木林から漏れる不思議な光に誘われるかのように足を踏み入れたんだ。
そして、この赤銅色の月を見た途端に揺れに襲われて…。

記事を読み進める。
前回の月食は4月14日の夜。(画像の月もその日のものだった)
月食の観測後、特定の地域で大きな揺れを確認。
月の潮汐力によって地震が引き起こされる可能性もあるのでは?
などと小難しいことも書いてあった
そして、私の中で一つの仮説が生まれた。

もし、この月をあの場所で見ることが出来たのなら…。

保証はない。あくまで仮説に過ぎないのだから。
でも、信じるしかなかった。
私は慌てて2人に電話をかけた。

もしかしたら、帰れるかも知れない―――!

澪「………」

もう夜も遅いというのに私は電気もつけず部屋で物思いに耽っていた。
2人に電話をすると、それぞれよろこびの声が返ってきた。
やっと帰れる可能性が見つかった。こんな狂った未来ともおさらばだ。(まだわからないけど)
だけど、私の心は晴れなかった。もやもやとした何かが引っかかっていた。

帰りたくないということではない。
そう思う原因は例の月食の観測日にあった。
次の月食が観測出来るのは9月27日の夜。

文化祭の日だった。

こんな間違った未来で何をしたって無駄だと言うことはわかってる。
わかってる、けど…。

私は軽音部を、取り戻したかった。
文化祭のステージで、みんなと演奏がしたかった。
このまま文化祭が終わるまでだらだら待っているだけなんて、嫌だった。

澪「……よし」

私は固く決心した。
迷っていても仕方がない。
やれるだけ、やってやる。


【音楽室】

バンッ

翌日の放課後、私は音楽室の扉を開けた。
迷いはもうなかった。
どれくらい振りだろう、この部屋に足を踏み入れたのは。
そこには唯、律、ムギが座っていた。

律「澪…?」

唯「え…」

紬「澪ちゃん?!」

3人は目を丸くして驚いている。
私は間髪を入れずに深く頭を下げた。

澪「お願いしますっ!!!」

澪「私を、もう一度、放課後ティータイムに入れてくださいっ…!」

全身全霊を込めて懇願した。
私には、これしかないんだ。ここしかないんだ。
もう一度、みんなで演奏したい。
このまま何もせずにいるだなんて、嫌だ。

澪「………」

しばらくの沈黙が続いたあと、律が口を開いた。

律「…あのな」

律「まずみんなに謝んなさい。そんで、ちゃんと話をしなさい」

律「それから、私たちはお前が放課後ティータイムを抜けただなんて思ってないからな」

澪「…はい」

3人からしたら、なぜ急に手のひらを返したかのように音楽室に戻ってきたのか不思議でしょうがないはずだ。
だけど律も唯もムギも耳を傾けてくれている。あとは、私次第…。
私は、自分の身に何が起こったのかを一切の偽りなく話した。

律「………」

唯「………」

紬「………」

3人ともきょとんとしていた。
それもそうだろう。いきなり5ヶ月前からやってきたなんて話、誰が信じるだろうか。
追い返されても仕方がない。笑われても、怒られてもしょうがない、そう思っていた。
もっとも、こっちも引き下がるつもりもないのだが。

律「…ムギ!お茶!」

紬「はいはい♪」

澪「?」

沈黙を破ったのは、律だった。
その一言で、ムギはお茶の準備を始めた。

律「何してんだよ、早く座れって」

澪「え…?」

何かの冗談なのか?
何事も無かったかのような反応で、逆に不安になった。


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