急に不安に駆られた。
梓だけじゃない、他の人もみんな夏服だった。
黒板には、やはり9月9日と書かれていた。

澪「何を言ってるって…。今日は4月15日だろ?昨日私にプレゼントをくれたじゃないか!」

澪「あっ、わかったぞ。梓も私を騙そうとしているんだな?」

澪「まったく、律のやつめ。あとで―――」

バチン

澪「えっ…?」

頬に走る鋭い痛み。

梓「………」

少し経ってからようやく自分の身に何が起きたのか理解した。
私は、梓にビンタをされたのだ。

梓「…何がしたいんですか」

梓「………最低」

梓はそれだけ言い教室を去ってしまった。
教室のあちこちでどよめきが起こる。
私が梓を追って教室を出ようとすると、後ろから腕をつかまれた。

純「澪先輩」

純「もう、やめてあげてください」

純「梓のやつ、先輩と別れてからずっとつらい思いしてるんですよ?」

純「先輩も軽音部を辞めて色々あったのはわかりますけど、だからって―――」

澪「…は?」

私が軽音部を辞めた?!
今日は9月9日で、私は軽音部を辞めてて、梓とも別れてて…。
まったくもって意味がわからなかった。
今日は4月15日で、梓とも仲良しで、今日から新歓ライブに向けて練習するはずだろ?

純「…澪先輩?」

自分の身に何が起きているのかさっぱり理解出来なかった。
頭の整理も気持ちの整理もつかないまま、ふらふらと梓の教室を後にした。

澪「あっ…」

自分の教室に戻る途中、律と唯と目が合った。

この2人なら何か話しかけてくれるかも知れない。
もしかしたら、ドッキリだとかネタばらしだとかしてくれるのかと期待もした。
いや、そうであってほしかった。

律「いこーぜ、唯」

唯「う、うん…」

しかし2人とも視線を逸らし、私に話しかけようともしなかった。
ドッキリとか、イタズラとかそういう類のものではないと感じた。

澪「………」

自分の教室に戻った私はカバンを持ち、先生の呼び出しも無視して家に帰った。


家に帰るなりすぐさま携帯を手にとった。
メール、着信、フォルダ、ありとあらゆるものをチェックした。
どれも身に覚えのないものばかりだった。

―――――――――――――――――――――
From 梓
Subject Re:
ねぇ、戻ってきてよ。みんな待ってるよ。
誰も怒ってなんかないし、気にしてないよ?
―――――――――――――――――――――
From 梓
Subject Re:
意地張らないでよ…。また一緒に練習しよう?
先輩のベースがないと、寂しいよ。
―――――――――――――――――――――
From 梓
Subject Re:
どうして…?
もう私のこと嫌い?
軽音部、好きじゃない?
―――――――――――――――――――――
From 梓
Subject Re:
なんで…。なんでそんなこと言うの…?
私、先輩が何考えてるのかわかんないよ…。
―――――――――――――――――――――

澪「………」

もう、目も当てられなかった。


ベースにもずっと触っていなかったようだ。
ケースから取り出すとの埃かぶっていた上に、弦も錆びていた。

澪「ウソだ…。こんなの、ウソに決まってる」

そうだ。これはきっと悪い夢だ。また目が覚めたら元に戻ってるさ。
疲れてるんだ。そうに違いない。そう思いながら眠りについた。


翌朝。
ぼんやりと目が覚める。
夢であってほしい。
その期待を裏切るかのように携帯の液晶には「9月10日」と表示されていた。

「遅刻するわよ」

澪「うん…」

ママにけしかけられ、しぶしぶ夏服に着替える。
顔を洗いに向かうと鏡に頬が少し腫れている自分が映っていた。
今年は残暑が続くのだとか。朝ごはんを食べながら見ていた天気予報でそう言っていた。



まぎれもなく、これは現実だった。


澪「あっ…」

紬「……!」

教室に向かう途中、ムギに会った。
ムギにも律たちと同様に目を逸らされてしまった。
気まずさに耐えられなかった。逃げ出したかった。

澪「………」

しかし諦めるわけにはいかなかった。
何か、何かを得なければ。この5ヶ月の間に何があったのか。
私は勇気を振りしぼってムギに話しかけた。

澪「あ、あのさ…ムギ」

紬「…なに?」

やはり気まずそうな様子だ。

澪「いや、その…どうしてるのかなって」

澪「軽音部のこと」

紬「………」

ムギは数秒黙ったあと、口を開いた。

紬「りっちゃん悩んでるよ、文化祭どうするか。今は唯ちゃんと私と3人しかいないから」

紬「ジャズ研から合同で出ないかって話もきたんだけど、唯ちゃんがそれはやだって…」

紬「りっちゃんもあぁやって元気に振る舞ってはいるけど、内心すごくつらいと思う」

澪「…そっか」

どうやら梓も軽音部を辞めたらしい。
もしかしたら、梓が辞めたことも私と何か関係があったりして。
そう思った私は、無茶を承知でムギに尋ねた。

澪「あの…さ、私。なんで軽音部やめたのかな…?」

紬「何言ってるの…?」

紬「澪ちゃんが自分で辞めるって言ったんじゃない」

澪「私?!私が辞めるって言ったのか?」

紬「…澪ちゃん。ふざけるのもいい加減にして」

紬「みんながどれだけつらい思いをしたと思ってるの…!」

ムギの言葉に静かな怒りを感じた。
初めて見るムギの表情に戸惑いを隠し切れなかった。

紬「私たちがいくら聞いても教えてくれなかったじゃない。それを今さら…」

澪「バカなことを言ってるのはわかってる。でも、知りたいんだ」

紬「澪ちゃん、大丈夫…?」

澪「…頼む」

紬「………」

はぁと一息ついたムギは、口を開いた。

紬「新歓ライブ」

澪「?」

紬「新歓ライブの演奏中にね、ベースの弦が切れちゃったの」

紬「よくある事故だし、しょうがないことだと思う」

紬「それで動揺しちゃってぐだぐだなライブになっちゃったのはあれだけど…」

紬「でも梓ちゃんは大丈夫だって、5人のままでいいって言ってくれたじゃない」

紬「それなのに澪ちゃんは私のせいだ私のせいだって自分を責めて…」

紬「それで、澪ちゃんは勝手に軽音部を辞めて。梓ちゃんも辞めちゃって」

紬「何度も声をかけに行ったのに、澪ちゃんは―――」

澪「…ごめん。もういいや、ありがと」

これ以上聞きたくなかった。
私はムギの話を遮り、昇降口に戻った。
学校になんかいられるわけがなかった。

梓「…!」

昇降口で梓に出会った。
ちょうど学校に来たところのようだ。隣には憂ちゃんもいた。

梓「………」

澪「………」

お互い立ち止まって目が合うも言葉はなかった。
梓は無言で私の横を通り過ぎようとした。

澪「…梓」

梓の腕を掴んだ。

梓「………」ぶんっ

しかし呆気なく振り払われた。
梓は何も言わず行ってしまった。
周りの目が痛い。私はそのまま昇降口に向かい学校を出た。



【放課後】

ガチャ

和「入るわよ」

唯「あ、和ちゃん!」

律「おぉー、和。どうした?」

和「文化祭のことについて話に来たんだけど、いいかしら?」

紬「お茶淹れるね」

和「ありがとう」

和「それで、軽音部はどうするの?そろそろ参加申請書の締め切りだけど」

唯「………」

紬「………」

律「……あー…、うん。今年は無理かも」

和「最後の文化祭なのよ、いいの?」

律「よくないけど…、現状が現状だしな」

和「…そう。一応ぎりぎりまで待つから、じっくり考えて」

律「なんか悪いな。気遣ってもらって」

和「いいのよ。それじゃ行くわね。ごちそうさま」

バタン

律「…ふぅ」

律「どうする?やっぱジャズ研と合同で出る?」

唯「やだ…。私は、放課後ティータイムで出たい」

律「んなこと言ったってなー…」

紬「………」

紬「…あのね。今日、澪ちゃんとお話ししたの」

律「澪と?あいつ今日学校来てなくね?」

紬「ううん、朝は来てたの。私と話したあとそのまま帰っちゃったんだと思う」

律「それで、なんだって?」

紬「私が何で軽音部を辞めたのかって」

律「はぁ?なんだそりゃ」

紬「私にも何を考えてるのかさっぱり…」

律「…まぁ、あいつにも色々あるんだろ。私たちがあれだけ言っても聞かなかったんだし」

律「前から受験だなんだうるさかったしな」

律「もう私たちがどうこう出来るもんじゃないんだよ、あいつは」

唯「うっ…ぐすっ」

律「あーあー、またか唯。ほら泣くなって」

唯「だって…。みんなで文化祭出たいよ…。最後なんだよ…?」

律「ったく、泣きたいのはこっちだっつーの」


【学校】

さらに翌日。
学校に来るなり、クラスメイトに怒られた。
ここ数日の早退と欠席で、クラスの出し物(どうやらロミオとジュリエットの寸劇らしい)の練習に参加していなかったからだ。
私はロミオ役らしい。何でよりにもよって主役なんだ…。
対するジュリエットは、いちごだった。
まぁ、ジュリエットのイメージとしては一番合ってるかも知れない。

いちご「澪、どうしたの?全然セリフ言えてないみたいだけど…」

澪「えっ…。あ、うん…」

そんなことを言われても困る。
“私”がこの台本に目を通すのは初めてなんだから。
それに加えて、劇の主役ときた。
ただでさえ目立つことが嫌なのに主役なんておいそれと務まるわけがなかった。

いちご「もう本番まで時間ないんだよ?」

澪「ご、ごめん…」

結局その日の練習はひどい有様だった。
終わったあと演出や脚本やの人に叱られた。
自分から立候補しておいて何事だ、真面目にやってくれ、って。

はは…。こっちの私は随分と積極的じゃないか。


劇の練習が終わって帰ろうとすると、クラスメイトから知らないCDを返された。
どうやら私が貸していたものらしい。もはや気味が悪かった。

家に帰った私はひたすら泣きじゃくっていた。

澪「もう嫌だよ…。帰りたい…。元の場所に、戻りたいよ…」

こんなの、私の未来じゃない。
なんだよ、なんなんだよ…。
何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ。

ピンポーン

苦悩に打ちひしがれていると、インターホンが鳴った。

プッ

澪「…はい」

いちご『若王子ですけど…』

意外なことにインターホンを鳴らしたのはジュリエット役のいちごだった。


ガチャ

澪「どうしたんだ?」

いちご「どうしたって。前から約束してたじゃない」

澪「えっ?」

いちご「今日は澪の家で練習するって」

どうやら劇の練習をうちですることになっていたらしい。
そんなことするくらい私といちごは仲が良くなっていたのか。

澪「あ、あぁ…そうだった。上がってよ」

いちご「おじゃまします」

断る理由もないので、いちごを家に上げた。
律以外の人を家にあげるのなんて久しぶりな気がした。


【澪の部屋】

いちご「…やっぱり変」

しばらく2人で劇の練習をしていると、いちごが口を開いた。

いちご「もっとセリフだって覚えてたはずだし、演技もちゃんと出来てたのに」

いちご「澪、どうかしたの?」

いちごがそう思うのは当然だ。
なんたってここにいる私は5ヶ月前から飛んできたんだから。
どうかしたのかなんて私が聞きたいぐらいだった。

澪「いや、なんでもないよ」

いちご「ならいいけど…。何かあるんならちゃんと言って」

素っ気ない印象が強かったが、もしかしたらそれは誤解だったのかも知れない。
いちごの何気ない心遣いが、今の私にはとてもうれしかった。

澪「…ありがとう」

いちご「…!ほ、ほら。練習するよ」

照れくさそうな仕草を見せたあと、ふたたび練習に戻った。
思えば、こっちに来てからまともに誰かと会話をするのは初めてだった。

いちご「私、そろそろ帰る」

澪「あ、あぁ」

そう言うといちごはすっと立ち上がり身なりを整えた。
その仕草に育ちの良さというか、どことなく気品を感じた。

澪「いちご」

いちご「なに?」

澪「ありがとう」

私はいちごにお礼を言った。
いちごといたおかげで、ほんの少しだけ気が楽になったから。

いちご「何、いきなり。変な澪」

いちご「ちゃんと覚えてよ。時間あんまりないんだからね」

いちご「それじゃ」

澪「うん」

いちごはあまり多くをしゃべらず、私の家を出て行った。


【学校】

キーンコーンカーンコーン

澪「…はぁ」

放課後のチャイムが鳴った。
私がこっちに来て一週間が経とうとしていた。
劇の練習もあるし、学校を休むわけには行かない。
学校が次第に文化祭ムードで賑わっている中、私は一人沈んでいた。
授業中はほとんど机に突っ伏して寝ていた。
5ヶ月も先に来てるのだ、授業についていけるわけもなかった。
怠惰な授業を受け、放課後には劇の練習。そんな毎日の繰り返しだった。

澪「また明日」

何人かのクラスメイトに上辺の別れを告げ、教室を出た。

澪「………」

もう、このままでいいのかも知れない。そう思い始めた。
妥協というよりは、諦めの方に近かった。
戻る方法もわからない、そもそもどうしてどうやってここに来たかもわからない。
もしかしたら、一生このまま戻れずに過ごすのかも知れない。

そう考えているうちに、元に戻ることよりもこっちでどう生きていくかに意識が傾きかけていた。

いちご「みお」

澪「ん?」

いちご「一緒に帰ろう」

澪「あぁ」

あれからいちごといる時間が増えた。
互いの家で練習したり、お昼を共にしたりと。
文化祭の劇がなかったら、ここまで仲良くなることもなかっただろう。

結局いちごには事情を話さなかった。
梓とも軽音部とも無関係のいちごを巻き込むわけにはいかなかったからだ。

いちごは元気のない私をいつも気にかけてくれた。
いつしかそれは私の支えにもなっていたし、その優しさに甘えたくもなった。


このままいちごと一緒にいるのも、悪くないのかも知れない…。


そう思うようになっていった。


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