私は箸の動きを止めた。
唯が、の後に続く言葉は、恐らく、いや確実に私の知らない情報であるから、耳を塞ごうとさえ思った。
頑張ろう、の輪唱が頭に響いて、結局私は動けない。

「唯がすごいやる気なんだよ。ギターも歌も、めちゃくちゃ巧いよ。
 和だって感動することまちがいなしだ」

私が感動、するのだろうか。
大して造詣が深いわけでもない音楽を聴いて私が心を揺さぶられるとしたら、それは、多分ついていけていないだけだ。

澪の自信披露は放課後になっても続いた。
いい加減鬱陶しくなってきて、私は手を振って話を遮り、言った。

「そうなんだ、じゃあ私生徒会行くね」

ああ、と笑顔で応じる澪の足元には、全く小さな影しか無い。
私も、終いには微笑んだ。

「ライブ、頑張ってね」

唯が頑張っているらしい。すごいやる気だとか。
私も頑張らなければならないのだろう。
ぐるぐる回る思考の中で、ふらふらと歩いていると、背中を思い切り叩かれた。

「和ちゃん、千鳥足みたいよ?」

さわ子先生だ。
彼女が不自然なほど自然に私の肩に手を置いてきて、少し驚いた。
つい床を見つめて、影の重なりを確認してしまう。
そうして漸く、実際に彼女が私の肩に触れているということの実感を持てた。

間抜けな話だ。

「ねえねえ、いいこと考えたの、私。流石先生、素敵!ってな感じの案よ」

先生は私の肩に触れたまま、もう片方の手で口元を抑え、くすくす笑う。
私は、彼女の手が触れている部分に、確実な強い感触がないのが気になっていた。
昨日憂と掌を合わせたときのような感触が、ない。

「なんのはなしです」

失礼な話、少し気味が悪く思いながらも、私は尋ねた。

「青春なお悩みの話に決まってるじゃないの」

多分、喫茶店の話の続きだ。
先生の態度というか、仕草というか、彼女を包む全体的な雰囲気があのときと違うような感じを受ける。

「あのね、まず和ちゃんがデスメタルを聴きます」

「は?」

「デスメタルを聴きます。百歩譲ってハードロックでもいいです」

「それは」

苦笑して言う。

「先生の好みですよね。あまり唯には関係ないような気がします」

そのとき、先生が崩れ落ちそうな表情をした。
一瞬だった。一瞬だったけれど、先生の目の中で何かが光ったような気がした。
先生が眩しそうに目を背けると、その光は何処かへ行ってしまった。

「……やっぱ若い子はクラブミュージックとか聴くのかしらね。m-floなの? チェケラッチョイなのかしら」


「あのね、まず和ちゃんがデスメタルを聴きます」

「は?」

「デスメタルを聴きます。百歩譲ってハードロックでもいいです」

「それは」

苦笑して言う。

「先生の好みですよね。あまり唯には関係ないような気がします」

そのとき、先生が崩れ落ちそうな表情をした。
一瞬だった。一瞬だったけれど、先生の目の中で何かが光ったような気がした。
先生が眩しそうに目を背けると、その光は何処かへ行ってしまった。

「……やっぱ若い子はクラブミュージックとか聴くのかしらね。m-floなの? チェケラッチョイなのかしら」


訳のわからないことを言ってへらへらと笑っている。
けれど、さっきの一瞬のことを思うと、私は息が詰まる様な感じがする。
あれはもしかしたら、先生が頑張って、それでもって影を取り払おうとしたものだったのかもしれない。
そうしようとして、出来ないものだったのかも知れない。
これから先、先生がもう二度と他人に見せることのないものなのかも知れない。

「せんせい」

私は頑張った。

「CD、貸してくれますか?」

また、彼女の瞳に光が灯る。
先ほどとは少し異なるものも含めて。

「……うん」

けれど、何故だか少しはにかんだ様子の先生は、なんだか懐かしい感じがした。

生徒会の雑務は、意外と単調なものが多い。
校内の掲示物の許可だとか、書類の提出確認だとか、そんなものばかりだ。わりと時間はかからない。
私は少し過激なジャケットのCDを鞄に入れて、生徒会室を後にした。

真っ赤に染まった廊下にも、もう慣れてしまった。
虚勢を張って長くなり、どんどん繋がって蜘蛛の巣のようになった影にも慣れてしまった。

私は靴を履いて、外へ出た。
渡り廊下から野良猫がこっちを見つめていた。

「猫さん」

なんとなくこう呟いて見る。
なあご、と猫は間延びした声を上げた。
猫の影を踏みつけて、少しずつ近づいていく。
もう一度、なあご、と言う声が聞こえた。

「猫さん」

再びそう言うと、その野良猫は少し得意げに、首を私のほうへ伸ばした。
撫でてやって、また猫さん、とちょっとばかりの敬意を込めて呼んでやろうかと思った。
そのときに、私以外の声が聞こえた。

「あら、猫」

声のしたほうを向くと、さわ子先生がファイルを胸に抱えて立っていた。
こちらをじっと見つめている。

「野良猫だわ」

特に何も思わない様子でそう言う。
猫は心外そうに、なあ、と鳴いた。

「猫さんですよ」

咎められて、先生は不思議そうな顔をした。

「猫さんなの?」

「猫さんです」

へえ、と言って、先生はそろそろと近づいてくる。
猫さんはそんな先生をじっと見つめている。

「よろしく、猫さん」

先生がそう呟くと、猫さんは満足気に首を伸ばした。
先生が明るく笑う。

「かわいいわねえ」

先生は夢中になって、暫く猫さんと遊んでいた。
べたべたする友達がいない、と先生は言っていた。
それが大人になる事なのかと私は思った。
今でも、どうなのだろうと思っている。

「せんせ……」

言い切らないうちに、また別の声が割って入った。

「ありゃ、猫だ」

その女の子はいつも通り屈託の無い笑顔で、隣には妹を連れて立っていた。
柔らかい髪を揺らして、唯は首を傾ける。

「和ちゃんにさわちゃん、何やってるの?」

猫さんは唯をじっと見つめる。
そして、急に自分が黄昏時に伸びた影の去勢を張っていることが恥ずかしくなったように、そそくさと何処かへ行ってしまった。

「ああ、猫さんが」

先生が残念そうに言うと、唯は可笑しそうに笑った。

「猫さん?」

その言い方が面白いのか、しばらくけらけらと笑っていた。
隣で憂も曖昧に微笑んでいる。
憂の影も、唯の影もまっすぐ伸びている。
ただ、その影は途中で建物の影に飲み込まれてしまい、交わることはない。

「別にいいじゃないの、猫さんなのよ。偉い猫なの。唯ちゃんは、今日は憂ちゃんと帰るの?」

先生は気を悪くしたようだ。
口調がぞんざいだ。

「そうなの。もうちょっと部活していたかったんだけど、憂が買い物手伝って欲しいっていうからさあ」

心底残念そうな様子の唯は、隣の憂の様子には気がつかないのだろうか。
気がつかないのかも知れない。
私は久しぶりに唯の目を見たような気がした。頑張って、見たような気がした。

先生の瞳の中にも見えた光は、唯の目の中にあってはある人達だけを照らしている。
影を取り去って、彼女は簡単に抱きついて、触れ合う。
影を取り去って、私から離れていくのなら、それはそういうことなんだろう。

今になってようやく分かった。

「ねえ、唯。私が憂と買い物に行きましょうか」

「え、良いの?」

唯は顔を輝かせた。憂は顔を曇らせた。
憂の瞳にも、彼女が宿らせることが出来る限りの光がある。
ただ、残念ながらそれは夕陽より弱い。
影を消せるほどに強くない。
もっとも、彼女たちが影以外のところで触れ合っているのかも分からないけれど。

「お姉ちゃ……」

憂は何かを言おうとして、言葉を飲み込む。
姉の視線がすでに音楽室へ向かっていたからだろう。
一瞬後、憂は微笑んだ。

「ギターの練習、頑張ってきてね!」

妹の声援を受けて、唯は走りだそうとする。
そんな唯の背中を、私は思いっきり叩いて、言った。

「頑張りなさい」

唯は照れくさそうに笑って、走ってゆく。
憂はそれを見送って、私に向き直った。

「和ちゃんは変わらないんだね。すごく羨ましい」

私は、今唯の背中を叩いたばかりの掌に、憂とハイタッチしたときのような感触がないことに気がついていたけれど、
精一杯微笑んで言った。

「そう」

これがもしかしたら大人になるということなのかも知れない。
夕焼け時に、ふらふらゆらゆらと漂う影で以て人と付き合うことが、そうなのかもしれない。
さわ子先生が一生懸命に瞳の中に光を灯そうとしていたのも、そういう事なのかも知れない。

唯がいなくなると、小心者で見えっ張りな猫さんはとぼとぼと歩いて戻ってきた。
よほど私たちの輪の中にいるのが心地良いと見える。

「あ、お帰り猫さん」

三人の中で、さわ子先生だけが普段より明るかった。
瞳が爛々と輝いている。多分、それは純粋な交わりを求めるようなものではないのだ。
憂と私が唯に対して持っていたもので、それをさわ子先生は漸く、満たすことができる。
私はそれを邪魔してはいけない。

「……ふふ、猫さんの尻尾はひん曲がってるね」

憂が中腰になって言った。
さわ子先生も腰を曲げて猫さんを覗き込んでいる。
私もその輪に加わった。

「猫さんは小心者なのね。唯がいるとどこかへ行っちゃうんだもの」

私の言葉に、二人も同意してくれた。

なあご。

私たち三人と、猫さんしか聞いていない、寡占された声が響く。
私たちは三人、まるで示し合わせたように顔を上げて、見合わせた。
さわ子先生の目が煌めいている。憂の目もだ。多分、私の目もだ。

「……頑張った!」

突然大きな声を上げて、先生が背筋を伸ばす。
ぽん、と私たちの頭に手を乗せた。

「頑張った、二人とも。ついでに私も」

頭の中で、片隅で響き続けていた輪唱が少しずつ消えて行った。
先生は廊下をすたすたと歩いていき、私たちの方を振り向いた。

「買い物行くんでしょう、送りましょうか?」

その笑顔と揺れる髪と、反射された電灯の光と靭やかな曲線を描く影は、不気味で嫌味なほど綺麗だ。
けれどそれを見ているのは多分私たちだけで、そんならいいかなと思えるのだ。

「……ん、よろしくお願いします」

憂がへらっと笑った。
さわ子先生は一層綺麗に微笑んだ。
そして、きれいな声で、言った。

「はいよ。……ありがとう、あと、ごめんね」

私と憂は顔を見合わせた。

「なあご」

猫さんが鳴いた。


おしまひ