「……あの、ゆ、いや……」

頬杖を突いて、ゆっくりとした動作で、先生は紅茶を飲んでいる。
あまり私の話に興味がなさそうだったので、私も、案外自分の悩みは大したことでもないのかも知れない、と思える。

「えっと、大人になったら友達が減るんですか」

「忙しいからね」

「忙しいと、友達が減るんですか」

先生はフォークを動かすのをやめて、じっと私を見つめた。
驚いているようでもある、非難しているようでもある、助けを求めているようでもある。
一瞬、フォークを反射して彼女の目に飛び込んだ光は、淡い期待と独占欲にも見えた。

「嫌なこと訊くのね」

そう言って、先生はまたケーキを口に入れる。
そうして、また同じようなことを、違う言い方で繰り返した。

「嫌な言い方するのね」

今度は、さっきの言い方よりも、ずっと私に非があるように聞こえる。
私から踏み込むのは不躾な気がして、私は口をつぐんだ。

「……友達は、減るのかしら……いや、でも、そうねえ……」

独りでうんうんと唸って、先生は宙を見つめた。
いつの間にかフォークはテーブルの上に置かれている。
先生は腕を組んで、指で拍子を取っている。

たん、たん、たたんた。

「むう……そうね、じゃあ、こんなところでどうかしら」

たん。

指の動きが止まる。
先生は少し得意げに話しを始めた。

「あなたは朝早く起きる。家を出る、澄んだ空気を吸い込む」

先生の指が宙で踊っている。
妙に惹きつけられる、唄うような調子だ。
そのうち、先生が声に強弱と緩急を付けて、足で拍子を取っていることに気がついた。

「太陽は低い、影は長い。けれどあなたは、そんな朝早くに誰かに会うことはないから、問題ない」

影は長い。
窓ガラスは相変わらず先生の後ろにあって、先生の顔は影に覆われている。

「そのうち日は登ってくる。それでもまだ影は長い。誰かと会って、お話をする」

「誰か?」

「誰でもいいの。唯ちゃんでもいいし、私でもいいし、本当に誰でもいいの」

私はまた黙り込んだ。
先生は続ける。

「楽しくお喋りをする。そのうち日は真上に来る。その時になってようやく、影は極々小さくなる」

「かげ」

「かげ。そのときまでにね、もし、相手の――例えば唯ちゃんの――本体じゃなく、影とお話ししていたのなら。
 きっともう友達でいられなくなるでしょうよ」

「それは、つまり」

先生は紅茶を飲もうとして、もうカップが空になっていることに気づいた。
頬杖を付き、私を見つめる。

「黄昏時になる。影が長くなる。夜になる。影しかなくなる。
 そんなわけで、大人になった私は誰の手も握れずに、誰かとお話をするのです……どう?」

「はあ」

「割といい感じじゃない? なんか、頭よさそうだったでしょう」

けらけら笑う。
ティーカップが小さい音を立てて揺れた。
私は先生を見つめるけれど、光が差し込まない瞳の奥は、なにがあるのか分からない。

「まあ、ずっとついていけるならいいのよ。影が伸びても縮んでも、ずっとその影についていけるなら。
 でも、相手が唯ちゃんみたいにふらふらした子だと難しいかも知れないわよね」

「そうですねえ……そうなんです」

ずず、と啜った紅茶は少し冷えていた。

「あ」

私が声を上げると、先生は、ふふ、と笑った。

「別に私は唯と……」

別に、なんなのか。よく分からない。だから、

「あら、そう?」

と言った先生に、私は何と返したらよいものか分からずに、

「……別に、仲いいですもん」

などと妙な返答をした。どこまでも嘘くさい。
先生の背後の窓から差し込む光が、それを浮き彫りにしている。
ぽん、と先生が私の頭に手をおいた。

「ま、頑張んなさいな」

先生はさっさと勘定を済ませて出て行った。
ひとり取り残されて、私は冷えた紅茶を啜る。
窓ガラスは透明だ。影はない。

頑張ろう、の決意表明に、先生の、頑張んなさいなが加わった。
輪唱が響いて頭が割れそうだ。
家に帰ると、妹弟がぎゃあぎゃあと喚いていた。

「姉ちゃん、腹減った」

「お母さんたちは?」

「どっか出かけてるよ」

適当にあしらって冷蔵庫の中を探してみるが、いまいち食材が十分に揃っていない。
適当に玉子焼きと味噌汁と冷奴だけで済まそうと思ったが、妹弟は嫌そうな顔をした。

「そんな年寄り臭いの、やだな」

「そうなんだ。じゃあ私スーパーでなんか買ってくるね」

ふう、とため息を突いて、我侭な彼らのために買い物鞄を手に下げる。
扉を開いて家を出る寸前に振り返ると、妹が大きく手を振っていた。
にぱ、と笑っていた。
相変わらず背丈は小さい。

「いってらっしゃい」

「ん、いってきます」

言葉が届くか届かないかするうちに、扉は閉まった。

スーパーの中は空調が効いている。効きすぎている。
外との気温の差が不快感を催すほどだ。
とっとと買い物を済ませて帰ろう、そう思って、野菜やら肉やら手当たり次第にカゴに詰め込む。

「あれ、和ちゃん」

声をかけられる。振り返ると、幼馴染の妹が買い物かごと、ついでにポニーテールを揺らして笑っていた。

「そんなに色々買ってくの?」

「不味いかしら」

「うん、ちょっと……傷んじゃうよね、多分」

「そう」

私は彼女の買い物かごの中をざっと見て、結局全部真似をすることにした。
ただ、今日は姉の希望でチョコレート鍋だとかなんとか言ってきたので、チョコレートに関するものは抜いておいた。
もうすっかり日は暮れてしまい、ビル、電柱、果てはポストまで、一生懸命影を伸ばして虚勢をはっている。

「寂しいねえ」

スーパーの自動扉が開いたとき、憂が言った。
その意図を質す前に、私の体は全部、スーパーから出てしまう。
外の空気はやはり、店内の空気とはまるきり別なもので、なんとなく、私は何も言えなくなった。


「おお、ポストの影だ。何の影かと思った」

「そうね。あっちは……あら、あれは、ほら、あそこの塀の猫の影ね」

「長いね」

「見栄っ張りね」

そんなことを話しながら歩く。
憂が近づいていくと、猫は逃げ出した。
あらら、と肩をすくめる。

「臆病者なんだね」

「だって、本当は小さいもの」

「そりゃあ、猫さんだから」

猫さん。そう言われてしまっては、野良猫もかしこまらざるをえないだろう。
逃げ出した猫は、少し離れたところでちらとこちらを振り向いた。
ばいばい、と憂が手を振ると、安心したように歩いて行った。

「可愛いなあ」

くすりと笑って憂が言う。
彼女の顔は夕陽に赤く燃やされていて、影はなく、柔らかい目鼻立ちが目立っている。
私の方を振り向いたとき、顔に影が落ちたけれど、それでもやはり笑顔はくっきりと見えた。

「ねえ」

そこで一旦区切って、照れくさそうに憂は笑う。

「昨日、久しぶりに一緒に登校したね」

「うん」

「それで、思ったんだけど、和ちゃんってさ」

彼女はまた前を向いて歩き出す。
影を強く、半ば憎々しげに、半ば親しげに踏みつける。

「和ちゃんって、変わらないね……なんか安心した」

私も彼女に習って、強く影を踏みしめようとしたけれど、止めた。
しかし、結局は足を下ろしたところに影はついてきてしまった。
足の裏にひっついて離れない影は、自分から来ておいて、少し恨みがましい様子だ。

「変わらないかしら……そうかしら」

「自分で変わったと思うの?」

「そりゃあ、まあ」

「どんなところが?」

すぐには言葉が出てこずに、私は宙を眺める。
夕陽に焼けた空気を吸い込んで、吐き出すと、ついでに言葉も口から漏れていった。


「勉強が大変になったでしょ、生徒会の仕事も増えたわね。
 あと、付き合う人もちょっと変わってきたかな」

「そうかなあ、今だって私とこうしてお話ししてるじゃない」

「いつもしてるわけじゃないもの。曽我部先輩みたいな、生徒会の人と接する機会のほうが多くなったわ」

「それだけ? 他に変わったことはない?」

憂が私の顔を覗き込む。
私の影が憂の影と重なった。

「ないわ」

「そう」

憂は笑って、私の肩をちょん、とつついた。

「じゃあ、変わってない」

憂はそればかり言う。
十年来の付き合いの彼女から、こうも何度もそう言われると、そんな気がしてくる。
しかし、認めてはならないような気もする。

「変わったはずなんだけどね」

「そう。じゃあ、変わったことにしておこうか」

くすくすと笑った。
こう言われると、この話はもうおしまいになってしまう。
これから先、私が何を言おうと、結論はもう変わり様がない気がする。

そんなわけだから私たちはしばらく黙って歩いた。憂は私の少し前を行く。
影は相変わらず重なっている。

「和ちゃん」

交差点に差し掛かったところで、憂が微笑んでいった。

「なんか、悩んでる?」

私は答えない。ただ、じっと憂の顔を見つめた。
憂は一層明るく笑って、図々しい真っ赤な西日を脇に追いやって、手を高く掲げた。
私もつられて手を上げる。

「頑張って!」

ぱあん、と高い音が、ぶつかり合った掌から鳴った。
憂は満足したように、交差点を曲がり駆けてゆく。

「……ばいばい」

憂いと私の影が離れて、聞こえたかどうか分からない私の声がすっかり夕陽の中に溶けこんで、
憂の姿も足音も消えてしまった後でも、掌の、じんじんと震える暖かい感触は残っていた。


頑張ろう、頑張んなさいな、頑張って!


気持ちは疾るばかりだ。
実際の行為がそれについていけているかというと、そうでもないのが悔やまれる。
今日も殆ど上の空で授業をうけている。
昼休み、互いに机を並べて弁当をつついていると、澪が少し興奮した様子で言った。

「なあなあ、今度の文化祭のライブさ、和も観に来てくれよ?」

「あら」

私はほうれん草のおひたしを噛んで、飲む。
澪がこんな風に、自信満々な様子で部活の話をするなんて珍しい。
私は心持ち首を傾けて言った。

「去年のトラウマは乗り越えたの?」

少し古傷を掘り返すような話だが、去年のライブで転倒し、下着を衆目にさらしてしまってから暫く、
澪は塞ぎ込んでいた。しかたのないことではあるが。

「いや……それは乗り越えてないけど」

一瞬眉を下げて嫌そうな顔をしたけれど、直ぐにまた顔を輝かせる。
でも、と明るく言った。


「今年のライブは絶対大成功だよ。新入部員の梓だって頑張ってるし、それに、なにより唯がさ」

「唯が?」


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