秋の風が、おだやかに唯たちのそばを流れる。

 ペダルをキコキコと踏む音が、たえず憂の耳に届いている。

 ゆらゆら揺れる自転車の後輪の上、憂は姉を抱いていた。

 交差点に差し掛かり、ブレーキの悲鳴が響く。

 見えない力がはたらいて、憂は唯の背中になお強く押しつけられる。

 必要以上の安心感が、かえって憂の胸を潰していった。


 唯がペダルを逆回りに踏みつける。

 空転し、頂点にやってきた右のペダルに足をのせる。

 やがて信号が青色を灯して、再び自転車が進み出す。

 きぃこ、きぃこ、きこ、きこ。

 重たげな歩調から、徐々に駆けるように。

 姉と引き離されるような感覚がして、憂は姉の腹に回した腕に力を込めた。


 走り出せば離れゆく。

 止まれば胸が潰れる。

 憂は、姉をきつく抱きしめ続けた。

 姉がブレーキレバーを握った時、どれほど苦しむことになろうと覚悟はできていたのだ。

 スピードに乗った自転車が、坂道を下っていく。

 冷たい風がつよく吹きつけた。

 目を閉じて必死に姉を抱く憂とは対照に、

 唯はひゅう、とわざとらしい口笛を鳴らした。


 烈風となった秋夕の空気が二人を打とうとする。

 自転車を縦に揺らしながら、唯は風を裂き、気持ちよさそうに叫んだ。

 どれほど風が冷たくとも、自転車が不安定に揺れようとも、

 唯は風の音を楽しみ、揺籃で安らいでいる。

 だからこそ、憂は姉を離せない。

 姉の後ろにいれば、何も恐ろしくはないのだから。

 憂は再び、昨夜姉に言われた言葉を頭の中でそらんじた。

――――

唯「ねえ、憂」

憂「なあに、お姉ちゃん?」

唯「大事な話なの。ちょっとここに座って、聞いてくれない?」

憂「うん……どうかしたの?」

唯「んー。そうかも。どうかしちゃった」

憂「……?」

唯「驚かないで、怒らないで……それから、真剣に聞いてね?」

唯「わたし、憂のこと好きになっちゃった」

憂「へ……」

唯「ごめんね、急に。でも、冗談では言ってないよ」

憂「それはわかるよ……お姉ちゃんの目を見たら」

唯「ありがと。……それでね、憂の気持ちを聞きたいなって」

憂「……私は」

憂「えっと、う……んっと」

唯「すぐじゃなくていいよ、憂」

憂「わかった……ごめん。ひと晩だけ、考えさせて」

唯「うん。待ってる」

憂「ごめんね……思ってもみなかったんだ」

唯「それは私も同じだよ。びっくりしたんだから」

憂「……あははっ」

――――

 やがて坂道が終わり、平坦な道に戻る。

 轍の残るあぜ道が脇に伸びるようになった。

 風の逆巻く中、遠くに川の走っている音が聞こえる。

 憂が鼻を鳴らすと、姉の髪の匂いにまじり、かすかに潮の香りがした。

 ペダルをこぐ音はしない。

 代わりに自転車のスピードは、だんだん落ちていく。

 それでも憂は抱きしめた腕をゆるめない。

 必ず大丈夫だと信じているのだ。


 憂の姉に対する信用は、盲信とも言えた。

 常識外の速度で走る自転車に乗せられて恐怖を感じたとしても、

 ブレーキをかけずに口笛を吹く姉を強く信じ、抱きしめていた。

 ただ、憂は自分のそれが些か盲目的であることも、多少なり自覚している。

 それは裏を返せば、結果として不幸が訪れようとも、

 姉を信じたゆえならば後悔しないという強固な意志の顕れでもある。

 そして、だからこそ憂は決意したのだ。


 海面が夕陽を乱反射し、眩しく輝いていた。

 徐々にホイールが回る音がからからと虚しいように聞こえ始め、

 風がおだやかに、静かにおさまりだした。

 潮の匂いだけでなく、砂の匂いも分かるようになる。

 とろとろ進む自転車がぐらりと揺れ、二人は同時に地に足をついた。

 振り向いた唯に憂は笑顔をみせて、自転車を降りた。

――――

憂「お姉ちゃん」

唯「憂。答えは出た?」

憂「……あのさ」

唯「?」

憂「今からすこし、お出かけしない?」

唯「お出かけ? どこ?」

憂「坂を降りた先の海岸に行きたいんだ」

唯「坂ってあの坂かな……けっこう遠くない?」

憂「うん。だから自転車で行こう。お姉ちゃんが連れていって?」

唯「ん……うむ、いいでしょう! お姉ちゃんに任せなさい!」

憂「ありがと。じゃあ、早速行こっか」

唯「だね。あ、海行くんだから、もうちょっとあったかい格好にしないとね」

憂「あ、そっか。じゃあ上着……」

唯「私が取ってくるよ。あったかそうなの選んでくるからね」

憂「ありがとう、お姉ちゃん……」

――――

 憂はやわ砂を踏み、姉の腕に抱きついた。

 かちかち歯を鳴らす唯は、それでも微笑みをみせて妹の頬を撫でる。

 太陽はほとんど海にひそんでしまっている。

 既に背後は夜であった。

 細かな砂が舞い上がっては吹きつけたが、

 唯と憂は上着のフードを垂らしたまま、しぱしぱと海を見つめていた。


 そうしているうち、やがて凪が訪れた。

 二人の見ている海も黒い夜に染まり、さざなみの音がしじまによく響いていた。

憂「お姉ちゃん。」

 姉の腕を抱いたまま、憂は言った。

憂「答えは出たよ。……けっこう悩んだ」

唯「……うん」

 唯は夜空と海の境界を、見えるはずもないのに確かに見つめて頷いた。


憂「わたしはお姉ちゃんのこと、そういうつもりで見たことはなかった」

唯「そうだね。昨日もちょろっと言ってたっけ」

 憂はそっと瞼を下ろす。

 わずかに頷いたふうにも見えた。

憂「自分でよく考えてみて、気持ちをたくさん掘り返してみたけど」

憂「お姉ちゃんに恋したことは、やっぱりなかったと思う」

唯「そう……」


憂「でもね?」

 抱きついていた腕から離れ、

 憂は唯の目前に立った。

 黒と黒を画す、黒色の境界線を見つめていた唯の視界に、

 憂の瞳の色をした光がさした。

憂「私は、お姉ちゃんについていきたいって思う」

唯「憂?」


憂「お姉ちゃんが前に行くなら、私も一緒に前に連れていってほしい」

憂「お姉ちゃんが止まるなら、私も一緒に止めてほしい」

憂「お姉ちゃんが私のこと好きなら、私もお姉ちゃんのこと、好きになるようにしてほしい」

 そこまで言って、憂ははにかんだ。

憂「……こんなこと望んじゃう程度には、私はお姉ちゃんのこと愛してるって思うんだ」

憂「だから決めたよ。私の気持ち……お姉ちゃんと付き合いたいって」

 だらりと下がっていた唯の両手を握り、憂は小さく微笑んだ。

唯「う……い……」


 唯の視界に映っていた光がにじんだ。

 にじんで広がり、包み込むようになった。

 頬をあたたかい滴が流れていき、くちびるに塩辛い味を感じた。

唯「憂ぃっ!」

 唯は妹の両手をふりほどいて、憂の体に抱きついた。

憂「お姉ちゃん鼻水……」

 苦笑して厭う憂の言葉にも唯はうまく反応をできずに、

 喉を震わしながら憂をつよくつよく抱きしめ続けていた。


   おしまい



最終更新:2011年02月03日 03:54