バスの外を見ると、ちょうど雪は止んでいた。

風も止まっているようだ。


いろいろあったが、

とにかく今から帰る。灯りのついていないであろう我が家に。


暇なので、外の景色を見ていたが、

窓ガラスに映った人物が、こちらを見ているのに気が付いた。


そして思うことは、こいつは学生時代よりも大分痩せたなぁ、ということ。


実際に、入社時に作ったこのスーツやシャツはぶかぶかしているし、皮靴や腕時計や指輪も緩い。

眼鏡のフレームも、なんだか合わなくなったような気がする。

もう一度、窓ガラスの自分をよく見てみると、髪はボサボサで頬もなんだかコケていた。


ほっぺたを自分で触るが、学生の頃とは違って柔らかくはない。


窓の外に焦点を戻し、後ろへ走り去る景色をぼぅっと眺めてみる。

……ただただ眺め続けていた。


どれくらい、そうしていただろう。

バスは、自宅ちかくのバス停までやって来ていた。降りなければ。

一緒に乗った老人は、いつの間にか消えていた。


バスから降りるとき、運転手に

「ありがとうございました」と言った。

運転手は無言で返した。


そして無人のバス停へ、降りる。

バスの扉はピシャリと閉まり、走り去り、遠くなっていくエンジンの音。


バスの音が聞こえなくなったとき、

周囲はとても寂しく、完全に無音。命の気配が感じられなくなっていた。


バスは雪のせいで大幅に遅れたため、時計の針はもう午前0時を過ぎている。

ほとんどの窓に明りはついておらず、誰かの声や鳥の鳴き声、テレビの音や料理の匂いも、なにも、ない。

街の息吹は、完全に死んでいる。


目の前にあるのは、黒い空と白に塗りつくされた景色だけ。

この色気のないコントラストのせいで、今まで忘れていた不安がよみがえる。


  このまま今の仕事を続けていいのだろうか

  他の方法があるんじゃないだろうか

  そもそもなんで生きているのか

  何のために生きていくのか


音がないと、人はいろいろと考えてしまう。

不安の津波に飲みこまれ、うなだれて足元を見た。


……雪の絨毯に1人の足跡がある。しかもたくさん。これは女性用だろうか。


この、バス停周辺にある無数の靴跡と、近づいてくる靴音によって、

僕の意識は、津波から引き上げられた。


……靴音?




突然視界がなくなる。何事かとあわてたが、

目のあたりに、雪と毛糸の感覚がする。




そして、

「だーれだ?」

という、愛しい人の声……


「こんなこと僕にするのは、……君しかいないよ」

「ふふっ、せいかーい」


その声と同時に、視界が開ける。

振り返るとそこには、僕にとって一番大切な人がいた。


茶色いロングヘアーの、優しい顔立ちをした妻が、

頬を桜色に染めて、僕に微笑みかけていた。


「おかえりなさい」と妻。

「遅くなってゴメンね」と僕。

「ねぇ、もしかしてこのバス停でずっと待ってたりした?」

と妻に聞いた。ずいぶんとバス停の周りに、同じ足跡が多かったからだ。

僕の帰りを待ち続ける、妻の様子が脳裏に浮かんだ。

しかし、

「……うーん」

と妻は答え、

「まぁそれはいいじゃない」

と、質問をはぐらかされた。


「それよりもう遅いし、雪も降ってる。寒いから、早く帰りましょうよ」

「……うん。そうだね」


僕らは、一緒に帰ることになった。



しばらく歩いて妻は気づく。

「あら?」

「どうかしたの?」

「あなた、手袋してないじゃない? 朝出るときはして行ってたわよね?」

「帰るときに慌てていて、会社に置いてきちゃったんだ」

「ふーん……あっそうだ!」

そう言うと、妻は自分の右手の手袋を外した。

何するんだろうと思っていると、彼女は自分の右手で、僕の左手を取ってギュゥっと握りしめてくれた。

存在感のある体温が、指先から伝わる。

体の中の、凍り固まった部分が融けてゆく。細胞に向かって、血がドクンと巡り出す。


「……」

「ふふ、あったかい?」

「あぁ、すごくあったかいよ……ありがとう」


これほどまでにあたたかいものを、僕は他に知らない。

たぶん僕専用の、世界で唯一つの、最高の暖房装置だ。


そのまま2人手を繋ぎ、家路へ向かう。


……今日は何故だか涙腺が緩い。

ただ手を握ってくれただけなのに、ただそれだけで

ため息をつくように涙が出だした……


妙に気恥ずかしくなり、あわてて、繋いでない右手でそれを拭う。

が、その行為は、しっかりと妻に見られていた。


こちらを向いた妻は、歩くのを止め、僕も立ち止まる。

彼女は繋いでいた手を離し、トトトトっと僕の前に移動する。

両腕を僕の腰に回し、僕を優しく抱きしめた。


僕の胸の中で、妻はつぶやく。

「……もしつらいことがあったら、何でも相談してね」

「……」

「私達は、家族なんだからさ」


……相談か。


正直こんな心優しい妻に、会社での出来事をいう事は……できない。


だけど、この人が傍にいるだけで、心が強くれなるような、そんな気がする。


僕は彼女の背中に腕を回し、思い切り抱きしめ返す。

服越しだけど、お互い身体が密着していて、伝わりあう心音と体温。

僕の身体と、妻の身体に、真っ赤な命が循っているのがわかる。


こうしていると、僕は、”生きている”って実感できる……



誓う。

「何があってもさ、僕は君を守るから……根拠はないけど」

「うん。信じてるよ……根拠がなくてもっ!」



そうして、互いの存在を確かめたあと、僕らはまた歩き出す。

今度は僕の右手と、妻の左手を繋いで。

息が白くなるほど寒い夜道だけど、この状態で寒さは感じない。



なんだか幸せすぎて、「あぁ」と息がこぼれる。


僕の口から出た白い煙は、ひとりでに空に広がっていく。


僕らの未来も、こんな風にひらけていったらいいのになぁ。




「あっ、そうそう。私にね、赤ちゃんができてた!」

「ぶっ」

いきなりの告白に、仕事鞄と指輪を落としてしまった。

妻が、「鞄と指輪が地面に落ちちゃった」と言い終わる前に、

指輪を拾いはめ直し、そのあと鞄を拾う。そして、


「本当に……?」

「うん。お昼に病院に行って、分かったの」

「…………」

「……だから、あなたに少しでも早くそれを伝えようと思って、」

「…………」

「……それで、そろそろ帰ってくるかな~、ってタイミングを見計らってたのよ」


「…………」

「だ、大丈夫? ”おとうさん”」

「こ、腰が抜けたよ、”おかあさん”」

……えーと。

あぁ、そうか。僕は、”おとうさん”になるのか。


……待てよ。お腹に子供がいるなら、冷えるのはまずいんじゃないか。

そうだ、こんな腰を抜かしている場合じゃない! 急いで帰らないとっ。


「とにかく急いで帰ろう!」

そういって妻の手を握り、家路を急ごうとしたが、

「ストーップ!」と引き止められた。


「なに、どしたの?」

「ちょっとだけ、寄り道いいかな……」


妻に連れられて、どこかへ歩いていく。


「そういえば、出産予定日はいつごろなの」

「11月に入ってしばらくらしいわ」

「子供ができたのはうれしいけれど、もう2人で旅行にはいけなくなるね」

「ええ。でも、子育ても子育てでいいものじゃないかしら」

「うん。きっとそうさ。僕らの子供は、かわいいだろうね」

「それに子連れで旅行に行くもの悪くないし、子供が大きくなったらお留守番してもらって、また2人で行けるようになるわよ」

「そんな風にまた2人で旅行ができるのは、早くて15年くらい先になるかなぁ。長いぜ」

「あっという間よ。きっと楽しい時間が過ぎていくから」


そんなことを話しながら。

路地裏をいくつか抜けると小さな神社があった。

今の家に引っ越して半年になるが、家と会社の往復しかしていないため、周辺の事情にはけっこう疎い。


「……こんなところがあったんだ」

「ふふっ、あなた知らなかったでしょ」


休暇が確保できたら、僕らは必ずと言っていいほど旅行に行く。

旅先で神社に行くこともあるが、そこでは何はなくとも、まずおみくじを引く決まりだ。

この神社も小さいながら、自動販売機型のおみくじがあった。だからやっぱりおみくじを引く。


二百円をいれて、僕はおみくじ販売機のボタンを押す。続いて妻。

それぞれ自分のおみくじを手に取り、開く。

「ぼくは小吉だ」

「末吉だったわ」


次は社殿にお参りに。

二十円を賽銭箱に入れて、願い事をする。

僕は「どうかお腹の子が母子ともに、無事で生まれてきますように」とだけ祈った。

対して妻は


「……お腹の子が、性格も良く健康で容姿端麗。運動神経抜群で勉強も家事もできて兄弟の面倒も見れて、いくつも才能に恵まれ、尊敬される人間に育ちますように」


と祈っていた。


「……それは欲張り過ぎじゃない」

「かもね。でも、あなたの子だからきっといい子だよ」

「……」

「それにこの子や、あとの弟・妹が立派に育つのを、私はしっかり手助けするわ!」

そう言い放った妻の目は、なんだか頼もしい。

僕も、頼りがいのある親にならなければ。


本当に小さい神社なので、見る所はもうない。

境内を出ようとする瞬間、

「そうだ。ねぇあなた、ここで少しだけ待っててくれる」

「……お腹の子の分のおみくじも引いてくるのかい」

「そう。ちょっとだけ待っててね」

嬉しそうに言うと、妻はさっきの自販機へ向かって行った。


その時である。

僕はふと、境内に置かれていた地蔵に目がいった。

そして地蔵からハゲ頭が連想され、ハゲ頭からあの嫌いな上司を連想した。


……この幸せラッシュの中に、嫌いな人物の顔を思い出してしまった自分にがっかりしたが、

最後に、

  人の幸せは誰と出会えるかで大きく左右される

というギタリストの言葉に、連想ゲームはたどり着いた。


妻は百円玉を自販機に入れ、ボタンを押そうとしている。

僕は神様に祈った。


  どうかお腹の子の出会う人が、みんないい人でありますように

そして、

  人生の大事な場面で、この子が手にするものが大吉でありますように


と。


妻は

「何がでるかな~何がでるかな~♪」

と唄い、おみくじのボタンを押す。

お腹の子用のおみくじが出てきて、妻はそれを取った。


彼女の手にあるものは、手にしたものは――


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