平沢憂は、朝方、クーラーを作動させて間もないリビング、そこに繋がるダイニングキッチンで、冷水に手を晒して食器を洗っていた。
どんどんと体温が奪われているような気がして、憂は窓から外を見た。
外ではじーわ、じーわ、と蝉の声が響いている。
その声はコンクリートと金属に住家を侵されているようで、心なしか寂しそうに聞こえた。

「みーんみーん」

小声で蝉の声真似をしてみてから、彼女は後悔した。
壁が声を吸いきってしまった後で彼女に残ったのは、虚しさだけだったから。

体の境界線を侵食してしまいそうな、物質的な圧力を持った静寂を、電子音が揺らして霧散させた。
憂は顔を輝かせて、急いで濡れた手を拭き、受話器を取った。
受話器から能天気な声が聞こえてきた。

『あ、憂? なんか梓が遊んでくれないんだよね。私一人だけど、憂の家行ってもいいかな?』

憂はその友人と、その日遊ぶ約束をしていたわけでは特に無い。
けれど、息苦しい空気の不動を、彼女なら簡単に崩してくれる気がして、憂は顔を綻ばせた。

「うん、是非来て」

あーい、という間延びした友人の返事を聞いてから、憂は受話器を置いた。
またしばらく、部屋には無音が闊歩した。
けれど、憂は外から聞こえてくる蝉の声に合わせて、歌うように呟いた。

「じーわ、じーわ、みんみん、つくつくぼーし」

だって、彼女は少し騒がしいもの、きっと部屋は賑やかになるだろう。
彼女なら、彼女と一緒にいる私なら。

そんな他力本願な考えを持つ憂の体温を、クーラーは少しずつ奪っていた。


すっかり部屋が冷え切ってしまった頃、憂は皿洗いを終わらせた。
少し肌寒く感じたけれど、それでも外の蒸し暑さを思って、憂がクーラーを切りかねているところで、インターフォンが鳴った。
憂は、はっと顔を上げて、玄関へと駆けていった。
扉を開けると、思わず顔をしかめるほどの暑さと、元気な声が飛び込んできた。

「やっほー、憂。いや、暑いねえ、たまったもんじゃなく暑いよお」

憂が渡したタオルで額を拭きながら、癖毛の女の子、鈴木純はへらへらと笑った。
楽しそうに、人差し指を立てて言う。
開いた扉から入ってくる蝉の音も、彼女の闊達さを際立たせているような気がした。

「アレだねえ、やっぱ夏はこう、空が透き通ってて気持ちいいね、思わず走りたくなる」

「そうなんだ」

空なんてまともに見ていなかった自分のことを思い出して、憂は曖昧に笑った。
純がさっさとリビングの方へ歩いて行ったので、憂は純の靴を揃えた。
靴の中にも熱気がこもっていて、やはり外はずいぶん暑いのだろう、憂は少し躊躇ってから、玄関の扉を閉めた。

「寒っ!」

リビングから声が聞こえて、憂は慌てて振り返った。
純がリビングから顔をのぞかせて、不満げな、そして心配そうな声を上げる。

「憂、この部屋寒すぎるよ……風邪引いちゃうんじゃないの」

でも、と憂は眉尻を下げて笑った。

「クーラー切ると、暑いし」

純は眉をひそめて、リビングへ顔を引っ込めた。
憂は笑顔を崩さないままため息をついて、同じくリビングへと向かう。
リビングに入ると、純が窓際に寝転んでいるのが見えた。

「なにやってるの?」

「日向ぼっこ」

ふうん、と返事をして、憂は冷蔵庫から麦茶を取り出して、氷を入れたグラスにそれを注いだ。
すぐにグラスは白く曇る。
暑いところと、寒いところの壁、薄いガラス一枚のその壁を憂は確かにその手に感じていた。

「憂、憂のお姉さんは、今日はいないみたいだね?」

憂は相変わらず笑顔のまま、純のいる窓際まで歩いていき、正座をして床に盆をおいた。
盆にはストローが顔をのぞかせているグラスと、ただ、冷たい麦茶だけが入っているグラスが載っていた。

「うん、なんか今度の合宿の準備するんだって。梓ちゃんが新しく入部してくれたから、凄く楽しみにしてたよ」

へえ、と気のない返事をして、純は首だけ持ち上げてストローに口をつけて、麦茶を吸い込んだ。
憂は彼女が、姉がリビングのテーブルにおいていた漫画を読んでいるのに気づいた。
純は憂の目線に気づいて、へらっと笑った。

「この漫画も合宿シーンだよ。果たして、彼らはあの強豪男子高校エースの魔球を打ち破ることが出来るのだろうか――」

純は寝転んだまま、大げさに腕を天井に向けて、ゆらゆらと振った。
憂はその様子をじっと不思議そうに見つめていた。
外の熱気をまとったままの彼女の腕が、一生懸命に部屋の空気をかき回しているようだ。

「なあんて、あっついよね、憧れるよ、合宿」

そう言ってため息をつき、純は腕を下ろした。
その腕が床についたとき、彼女は小さく悲鳴を上げた。

「冷たっ」

憂はなんとなく、掌をフローリングに当ててみた。
冷たい、だろうか。正座をしているから足に広く接しているはずの床も、彼女には冷たく感じられない。
少しずつ、少しずつ、クーラーは彼女を冷やしていったのだ。
憂は少し寂寥を込めた目で、純を、そして窓の外を見た。

「ういー、ういー」

純が自分の名前を呼んでいるのが、ずっと遠くでのことに感じられた。
憂は目を細めて、外の光景を見つめた。
蝉はどこにいる? 人工物の中で、一生懸命に鳴き続ける蝉は。
蝉の声はずっと聞こえていた、けれど、蝉は見つからなかった。

「ういってば……もう」

純がごろごろと、起き上がること無く移動していく。
彼女が転がっていた床は、体温と日光とで少し暖かくなっていて、憂はほっとした。
自分の太ももは、掌は、まだ温かくて、憂はほっとした。

ここだ。ここにいた。

後ろで電子音が聞こえた。
クーラーが悔しそうに、最後に大きく息を吐いて、動きを止めた。
憂が振り向いてみると、安心したように大の字に床に寝そべる純の姿が見えた。

「ふう。やっぱこんなに寒いのは駄目だよ。風情が無いもんねえ」

憂は彼女の言葉を聞いて、また外を眺めた。
歩道の脇には木があった、建物には日が当たっていた。
蝉は見えないけれど、やはり声は聞こえている。


「ねえ、純ちゃん……外はさ」

憂は背後の友人に声をかけて、窓ガラスに手を当てた。
ひんやりと冷たかったけれど、その薄いガラス一枚の壁は、これから確実に熱を帯びてくる、
そして、この部屋の中も。

「外は、暑いねえ」

ならば、いらない。
必要のないときは、窓を開けよう。
憂は顔に当たる熱気を感じて、明るく笑った。

「そりゃあね」

純は不思議そうに、相変わらずだらしなく寝転んだまま首を起こしてみたけれど、
窓から無遠慮に、楽しげに入ってきた熱気が額に当たって、引きかけていた汗がまたうっすらと滲むのを感じ、自然と笑顔になった。

どちらから言ったかは、どちらも覚えていないけれど、確かに彼女たちはこう言った。

「外に出よう、暑いから!」

蝉の声が膨張した空気を軽やかに揺らしていた。


……

「軽音楽部、また今年も合宿するのよ」

クーラーの効いた生徒会室で長い髪を暑苦しく思いながら、山中教諭は冷たい麦茶を飲んでいた。
どうしてこんなことを言ったのかは分からないけれど、言ってしまった以上、教諭は相手の返事を待った。
生徒会室にいるもう一人の人物、短髪の真鍋生徒会長は、反応に困ったように小さく笑った。

「そうですか」

そう言って、生徒会長はまた書類とにらめっこをし始めた。
主に夏季休業中の部活動についてだろう。
しばらくして、生徒会長は顔を上げて言った。

「ああ、そうだ。一応先生も付いて行ってくださいね。監督責任者がいないと何かと困りますから」

山中教諭はつまらなそうに頬をふくらませて真鍋生徒会長を見つめて、麦茶に視線を落とした。
生徒会長は教諭のやけに子どもじみた表情に驚き、気まずくなって、窓の外を見た。

ぎらぎらと太陽が照っている。
めらめらと地面は熱されている。
ゆらゆらと熱くなった空気が揺れている。

薄い窓ガラスと、一生懸命動くクーラーがその熱を完全に生徒会室から締め出しているのを確認して、生徒会長は微笑んだ。
彼女には蝉の声も聞こえていなかった。
聞いているのは、ただ、かつかつと鳴り響くシャープペンシルの音と、クーラーの立てる低い音だけだった。

「のーどーかーちゃあん」

それと、教諭の歌うようなきれいな声。
冷たい大理石のような、透き通った声。
少し気だるそうな、つまらなさそうな声だった。

「どうしました?」

「合宿で泊まる別荘の傍にはね、海もあるの」

そういえば、軽音楽部が泊まる、とある部員の別荘は随分と広いと幼馴染から聞いた。
きっと大きな冷房やら、風呂場やら、色んな物があるのだろう。
ちょっと、羨ましい。

生徒会長はくすりと笑った。

「羨ましいですね」

教諭は顔を輝かせて、身を乗り出して言った。

「でしょう! それでね、良かったら和ちゃんも来ましょうよ。水着、選んであげる」

生徒会長は苦笑して、首を振った。
教諭の表情が曇った。

「私はあまり泳ぐのは……それに、暑そうだから遠慮しておきます」

最後まで言い切らないうちに、教諭はぐい、と麦茶を一息に飲み干して、一つ大きく息を吐いてから、呟いた。

「つまんないの」

生徒会長は、あんなに一気に麦茶を飲んでしまって、胃が冷えすぎやしないか、そればっかりを気にしていた。
自分もやろうかしら、そんなことばかりを考えていた。


……

二人の女の子が日の照り返す道路を元気に歩いていた。
柔らかい髪を縛って、ショートポニーにした女の子は、優しく笑って言った。

「暑いね……どこ行こうか?」

憂はコンクリートのヒビから草が顔を覗かせ、車のタイヤの叫び声の間に蝉の求愛の歌が聞こえているのに気づいて、嬉しくなった。
まだまだ外は暑い。

暑さに顔をしかめて――自分から提案しておいたくせに、だ――癖毛を二つに縛った女の子は、うーん、と唸った。
彼女は空を見上げた。空には道路もビルも、車も人ごみも何もなくて、彼女は楽しい気持ちになった。
空に浮かぶ雲のうち一つが、やけに丸っこい形をしていたから、彼女は思いつくままに言った。

「グラウンド……学校の。そんで、キャッチボールでもしようよ」

「じゃあ、グローブとボール持ってこないとね?」

純は思ったより乗り気の憂に驚き、一度家に帰る手間を考えて、猫背になりながら言った。

「面倒くさい……適当にソフト部の友達から借りようよお」

そんな純とは裏腹に、憂の声は不自然なほど明るく、大きかった。

「よっし、じゃあ急いでいこう! 楽しみだね?」

少し歩調を上げた憂についていきながら、純はため息を付いた。
あんまり暑くて、楽しい気持ちも訳が分からなくなってしまいそうだ。
額にうっすらと汗が浮かんできて、ちょっとばかり涼みたいとすら思った。

「うい、暑すぎるよう……」

早歩きで高校へ着き、自主練をしていたソフト部に頼み込んで、予備のグローブとボールを貸してもらった頃には、二人は汗で襟元を湿らせていた。
憂は相変わらずにこにこと笑った。

「よーし、じゃあ行くよ。胸元の高さに、こう、しゅっ、だね」

大げさに動作の確認をして見せて、憂は大きく腕を広げ、膝を曲げて体を沈めさせ、腰を回して球を放った。
乾いた音を立てて、ボールは純のグローブに収まった。
純は、わあ、と短く声を上げた。

「上手いね、やっぱ流石は憂だね」

グラウンドはやけに暑かった。
運動部の空気特有の熱気が残っているようで、純は少し気が引き締まるように感じた。
だから、子供っぽく飛び跳ねる憂を見て、純は顔をしかめた。

「えへへ、ソフト部入ればよかったかもね」

憂は大きく手を振って、純にボールを催促した。
純は手元のボールを見つめて、球を放った。
力の無い球はひょろひょろと放物線を描いて憂の元へ届いた。

「純ちゃん、真面目にやってよね」

憂が頬を膨らませた。
一直線にボールが純のもとへ戻ってくる。

あれ、と純は首をかしげた。
それでも、もう一度ボールを投げた。
えへい、と妙な声が出た。

「純ちゃん、変な声」

くすくすと憂が笑った。
憂はグラウンドから見える並木や、雑草や、鳥がみんな暑さに歓喜して踊っているように思った。
彼女はとても楽しかった。

「純ちゃん、私……」

だから、胃の中に残っている氷を、クーラーの置き土産を、とっとと溶かしてしまおうと思った。
ボールを放りながら、言った。

「私ってさ、大人っぽいかな?」

ボールは真っ直ぐに純の胸へと向かっていった。
純はボールを右手に持ち替えて、しばらく憂を見つめた。
気の抜けた動作でボールを投げて、言った。

「しっかりしてるよね」

憂は放物線上を旅してきたボールを、真っ直ぐに投げ返した。

「それは、大人っぽいってことなの?」

また、力のない軌道で純から憂へボールが放られる。

「そうなんじゃない。なんかよくわかんないけど」

真っ直ぐに憂から純へ。

「それはさ、なんでだろうね。私もみんなと同じ高校生なのにね」

ゆっくりと純から憂へ。

「そりゃあ、お姉さんがあんな感じだから」

そこでボールは一旦止った。
ぎゅっと強くボールを握りしめて、憂は精一杯笑った。

「じゃあさ」

戸惑いがちな、小さな声は、それでもしっかりと純へ届いた。
純は耳を澄ませた。蝉の声が聞こえた。

「今はお姉ちゃんいないから……最近は部活で忙しいみたいだから」

憂は大きく足を開いた。
しなやかに腕を振って、ボールを放る。
ボールは遠慮がちに、山なりに純へと向かっていった。

「ちょっとだけ、子供っぽくてもいいかな?」

純は腕を上へ伸ばして、少し的を外れたボールを捕って、憂を見た。
相変わらずにこにこと笑っていた。
時折、いたずらっぽい、子どもじみた表情が覗いた。

純は手元のボールを見つめて、あれ、と思い笑った。

なんだか、可愛いじゃない。

「どうぞ!」

純は嬉しさに、外気以上に内側から体が熱くなるのを感じて力いっぱいボールを投げた。

きっと、憂はこの話を私以外にはしていない。
私以外は憂のこの話を聞いていない

それって、嬉しいな。

にやにやと笑いながら投げたボールは、憂を通り越して、蝉の声が、夏の日差しが、熱気が、雲が満ち溢れる空へと飛んでいった。
憂はそれをぼうっと見上げて、そしてそのまま後ろへ倒れこみそうになり、なんとか足で体を支えた。
後ろを向いて、純が暴投したボールを拾いに行こうとして、ちらと純のほうを見た。

「……ありがと」

戸惑いがちな、小さな声は、やはり純のもとへ届いた。
純が親指を立てて、走って近づいてきたから、憂は大きく声を張り上げて、笑って言った。

「ありがとう、純ちゃん!」


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