その日、何があったか覚えていない。
ただ空虚に時間だけが経過していって、気付いたら、放課後になっていた。
軽音部の面々と生徒会長は、お見舞いに行かない? とかいう話をしていた。そこには二年生のツインテールの子もいた。
言うまでもなく、澪のお見舞いの話だろう。
私も行きたかったが、いかんせん、澪の家を知らなかった。私の恋は、一方的すぎる想いにすぎないのだ、ということを自覚させられた。
いちご(胸が苦しい……)
いちご(心配だなぁ……)
軽音部の面々と生徒会長が教室を出ていく。彼女たちが向かった先は音楽室ではなく、校舎の外だった。
付いていこうか、と私は考えた。
でも、いきなり行っても迷惑になるかもしれない。
それに、と思う。
私が澪を好いているだけで、澪は私のことなど見てくれていないのだ。
私は軽音楽部の一人でもなければ、クラスメイトと言えるほどの間柄でもない。
ただ、澪のことが好きな人。
二年も前の時に、名前が可愛いって言われて、孤高であることを格好いいって誉められて、以来澪を好きになった一人の女の子。
それが、私。若王子いちご。
私は変な名前を授けやがった両親に、並々ならない憎悪を持っている。
でも、この名前のおかげで、澪に恋慕を抱くことが出来たのだとしたら――。
それはとても幸せなことだ、と思えた。
私は孤高の女の子を演じていた。そして演じている。今この瞬間も。
ほんとうは、孤高なんかじゃない。甘えんぼなのだ。誰かとずっと一緒にいたいのだ。一緒に笑いあって、一緒にご飯を食べたりしたい。
名前という劣等感が、誰かと関わるのを躊躇わせていただけで。
名前で笑われたりするのが恐くて。
臆病になって、やがて、ひとりになった。
けれど、彼女は私の名前を可愛いと言った。
孤高で孤独な私を見て、そこに格好よさを見出してくれた。
彼女なら、私のことを受け止めてくれるんじゃないかと。
私が澪のもとに行って悪い理由があるだろうか?
いや、ない。
○
外はまだ曇っていた。晴れるわけがないと知っているのに、晴天になるのを望んでいる。
私は軽音部の面々の後ろを追った。彼女たちはきっと、澪の家に向かうはずだ。
数分後、予想通り彼女たちは一軒の民家に入った。玄関より中に入って行くのを眺めた後、私はその家の表札を見る。
『秋山』
いちご(……澪の家だ)
いちご(よし、大体の道のりは覚えた……あ、でも今行くと律とか生徒会長とかと鉢合わせに…天)
いちご(時間、ずらして行こうかな。うん、そのほうがいいよね)
いちご(どこかで時間つぶそうかな……)
いちご(バレンタインまでには治っていてほしいな……、風邪ならすぐ治るよね、きっと)
ふと、自分を客観的に見た。
いちご(あぁ……駄目だ、私。全然孤高じゃなくなっている)
いちご(行動も何もかも、全部感情的になってる……)
いちご(よく考えたら、家の場所が分かっても入れてくれるかどうか…………。それほど……仲好くはないんだし)
つきん、と心が痛んだのは気のせいではあるまい。
いちご「あぁ……何かお見舞いの品持っていけば大丈夫かも……」
ちょうどいい時間つぶしにもなるし。
そう思った私は、コンビニを求めてその場から離れた。
○
品物を選ぶのに、三十分もかかってしまった。
何を買えばいいのかよくわからず、結局、カロリーメイトを持っていくことにした。四本入りの奴だ。
秋山家のインターホンを押す。さすがに軽音部の面々はもう帰っているだろう。
?『はい? どちらさまですか』
その声は、聞き覚えのあるものだった。
いちご(……澪の声)
澪「あの、新聞とかは要りませんので……」
いちご「あ、その、お見舞いに来ました、若王子いちごです」
何故か敬語になってしまった。澪の方も敬語だったからだろうと思うことにした。
○
私は澪の部屋に招かれた。熱も下がってきていて、明日には治ると医者に言われているらしい。
私はその澪の言葉にそこはかとなく安堵した。
澪「いやぁ、それにしても、いちごが来てくれるなんてなぁ」
気恥ずかしさを覚える。
いちご「……その、受験まであと少しだから、心配になった」
言い訳するような口調で、私は澪に言った。
冷たい口調になってしまったのが、少し悔やまれる。
澪から、ありがとう、という返答が一つ。
いちご「あ、これ、お見舞いの品みたいな……」
す、とカロリーメイトを手渡す。フルーツ味。
澪「いいのか? ありがとう」
受け取ってもらえた。
澪「昨日の夜くらいに高熱が出てさ、一時はどうなるかと思ったけど、受験には間に合いそうでよかったよ。一日落としたのは痛いけど」
言いながら、澪は机の方を見やった。私も視線をそちらに移す。勉強道具がひろげられていた。
いちご「……どこの大学受けるんだっけ?」
澪「N女。いちごは……?」
普通に会話していることが何だか可笑しくて、笑いを噛み殺しながら、私は「就職」と答えた。
澪「へぇ、高校卒業と同時に働くなんて、親孝行だな」
親孝行。そのフレーズが意外で、私は吹き出してしまった。
いちご「そうでもない。私はただ、勉強がしたくないだけ」
悪い気分では、なかった。
私は部屋中を見渡す。と、一点で視線が止まった。
見覚えのある豪奢な衣装。中世の貴族が着るような刺繍の服が、ハンガーでつるされていた。
いちご「あれって……ロミオの服?」
その衣装を指差し、尋ねる。
澪「あ? ああ。うん。文化祭の時のね」
澪が遠い眼をする。
いちご「……あの時の澪、格好良かった」
澪「そうか? 何かそう言われると恥ずかしいな」
いちご「何か、覚えている台詞ある? あの劇の時ので」
そう尋ねる気分になったのは、単なる気まぐれだろうか。
澪「ああ、うん。一つだけ、印象に残った台詞なら」
いちご「どんなの?」
澪はすぅ、と深呼吸した。
澪「愛に導かれてやってきました、案内人などいません。しかし、あなたがどれほど離れていようと、
そこがはるか海に洗われている広々とした岸辺だったとしても、私はあなたのような宝を見つけて旅に出ますよ」
すらすらと紡いで見せた澪に、私は羨望のまなざしを向ける。すごい、と思えた。
ジュリエットになりたい、とあの時言っておけばよかった。
澪の口から、あの場所で、この台詞を生で聞けたのだ。
澪「何か、今思うと大仰な台詞だけどさ、ロミオになり切っている時は、金言に感じられたんだ」
感慨深そうに、澪が呟く。
私はジュリエットじゃないけれど、その言葉の重みが伝わってきた。
〝愛に導かれてやってきました〟
私も、愛に導かれてやってきた。
愛? それはあまりにも一方的な片想いだけど。
いちご「……素敵な台詞だった」
ジュリエットになり損ねた私は、目の前のロミオに向かってそう答えた。
異変は、私がそろそろ帰ろうかな、と立ちあがったときに起こった。
窓の外から、音。ぽつり、ぽつり。音は大きくなっていく。ざぁ……ざぁぁぁぁ……。曇り空が崩れた。シャワーのように、雨が降り始めた。
澪「うわ、ついに雨が降っちゃったか……。天気予報では明日とか明後日に振るって言ってたのに……」
いちご「……あ、私傘持ってきていないや」
澪「あ、家のでよかったら、貸すけど」
断る理由はなかった。
紺色の傘が手渡される。重い。男性用の傘だろうか。
澪「ありがとう、今日はお見舞いに来てくれて」
いちご「ううん、どういたしまして」
あ、そうだ。と私は澪に言う。
いちご「2月14日の放課後……四時半くらいかな。三年二組の教室にさ、来てくれない?」
私は、笑ってみることにした。上手く笑えている自信がない。
澪「――え?」
いちご「渡したいものがあるんだよね」
それだけを言って、私は秋山家を出た。
○
雨は12日から13日まで降り続いた。14日の今日はすっかり晴れ模様で、天気予報は信用ならないと痛感した。
朝から私は落ち着かなかった。それは何故か? きまっている。
放課後になるまでは、それほど時間はかからなかった。四時半になるまでなんて、あっという間だった。心の準備は出来ていないと言うのに。
そういえば、澪や他の軽音部の面々は、もう少しでN女の試験があるらしい。
澪がN女に合格したら、会う機会が少なくなってしまう。それ以前に会えるかどうかも怪しい。それが、残念でならなかった。
〝しかし、あなたがどれほど離れていようと、そこがはるか海に洗われている広々とした岸辺だったとしても、私はあなたのような宝を見つけて旅に出ますよ〟
ふと、その台詞を思い出す。
いずれ、会えるだろうか。
別れてしまった後も、十年後か二十年後か、もっと後。ふたたび澪に逢うことはできるだろうか。
きっとできる。そうに違いない。逢えなかったら、こちらから逢いに行ってやろう。あなたのいる場所が遠く離れていようとも。
この想いを伝えるために。
教室の扉が開く。
澪がいた。
澪「こ、この前言われたとおりに来たけど……」
澪の顔は少し赤い。私の顔もそうかもしれない。
私は澪に歩みよる。
いちご「ありがとう。来てくれて」
そして、私は言うのだ。
いちご「あのさ、どうしても食べてほしくて――――」
まだ想いは伝えない。いずれ、その時が来たら伝えたい。今、この時は、少しでも澪と一緒にいよう――。
私はホワイトチョコレートを手渡す。澪は、ゆっくりと受け取ってくれた。まだら模様の包装紙のかかった、一枚のチョコ。
その味は、とてつもなく甘いに違いない。
終わり
最終更新:2011年01月26日 23:51