○
私の名前? 若王子いちご。
「いちご」なんて痛い名前だよね。自分でもわかってる。苗字とも合っていないし、ほんとうに変な名前。
名前のせいでバカにされたことは幾度かある、その度に私は傷ついて、泣いた。好きでこんな名前にしているわけじゃないのだ。
自己紹介とかが苦手だった。自分の名前を人前で言うのが苦痛だった。いちご、なんて、私のキャラじゃない。ダサい名前。
こんな変な名前を付けた両親を、私は憎んでいた。私は加南子、とか単純な名で良かったのだ。若王子加南子、何かイケてる。
だから、私がやさぐれたキャラを演じているのは、両親へのささやかな復讐だった。
いちごという名前とは似つかわしくない言動をとるようにした。出来るだけ冷たく、そして薄情になれ、と自分に戒めた。
――はず、なのに。
高校生活初日、一年生の教室では自己紹介があった。私の大嫌いな自己紹介だ。
私の苗字は「わ」から始まるので、出席番号はいつも一番最後だった。
自己紹介は決まって出席番号順だから、きまって私がトリを飾る。クラス中の嘲笑が目に浮かぶ。
いちご、という名前がトリなのだ、笑わない奴はいないだろう。憂欝。
数分して、私の自己紹介の番。立ち上がり、屈辱に震えながら自己紹介をした。
いちご「私は若王子いちごです、……一年間よろしく」
出来るだけ冷たい声を心がけた。
すると、クラスの中の何人かが、ぷっと苦笑するのが聞こえる。私は歯噛みしながら、席に座った。
朝のホームルームが終わる。周りの女子は早速中のいい女子を見つけて、談笑しあっている。その光景を横目で眺めていると――ふと、彼女たちに気づいた。
一人は黒髪ロングの女の子。すらりとした体躯。彼女の机の横には、カチューシャをした女の子が立っていた。茶髪のセミロング。
彼女たちはちらちらと、私の方を見てきていた。視線を感じる。私の名前でも、嘲笑っているに違いない。
?「――あの子って、いちごって名前だっけ?」
カチューシャの女の子が、私を指差しながら言ってくる。目が合わないよう気をつけながら、私は彼女たちを横目で見続ける。
席の距離が離れているため、彼女たちは私の視線に気づかぬまま話を進めた。
?「あぁ、さっきの自己紹介聞いていなかったのか? 律」
カチューシャの女の子は、律、という名前らしい。いちご、なんかよりはかなりましな名前だ。
律「いやー、何か眠くてな。でも、いちごかぁ……、珍しい名前だよな。澪はどう思う?」
黒髪ロングの女の子は、澪というのか。なんとなく、その名前の響きが素敵だと思った。
澪「可愛い名前だと思うよ、うん」
…………………………。
え?
私は耳を疑った。
可愛い? いちごという名前が? そんなこと生まれて初めて言われた。不覚にも、胸が高鳴る。
澪「孤高って感じがして、何か格好いいし」
律「へぇ、澪らしい……。じゃああの子は?」
澪「たしか……紬って名前だっけ?」
その後の話には耳を貸さなかった。ただ、彼女が……澪に言われたことの余韻が、何度もよみがえる。
格好いい。孤高。
その台詞が胸に響いた。
今まで味わったことの無い感情が、昂ぶる。
体が熱くなるのが、わかる。
いちご、という名前がちょっとだけ好きになった。
○
いちご(――――…………あぁ、夢か)
まわりを見やる。エリとかいう女子がアカネとかいう女子と会話している。
姫子とかいう不良女が教壇のところでヤンキー座りをしている。
信代とかいうデカ女が、大声をあげて笑っている。
見慣れた三年生の教室。机に突っ伏したまま私は寝ていたらしい。時計を見る。昼休みはまだまだある。
もう一眠りでもしようかな、そう思いながら、私は教室の後ろに目線をやる。
軽音部の面々と生徒会長が談笑していた。その中に、彼女の姿を認めた。見紛うことない、滑らかな黒髪――。
いちご(澪……笑っている)
いちご(何の話ししてるんだろう)
律が澪に小突かれていた。金髪眉毛はそれをなだめている。天然娘は朗らかに笑っていて、生徒会長は無表情だった。
いちご(……楽しそう。あの中に入りたいな)
いちご(でも、私は孤高だから…………、クールでいないと、格好よくいないと)
いちご(…………綺麗な笑顔。もっと近くで、あの澪の笑顔を見てみたい…………)
私は首を振った。雑念を払う。変なことを考えてはいけない。私は『孤高』なのだ。
いちご(でも…………せめて、ご飯くらいは一緒に食べたい)
いちご(………………あぁ、私変だ。孤高でいようと決めたのに、澪のことを見ていると気持ちが揺らいじゃう)
いちご(寝よう…………それがいい)
そして私は、再び目をつぶった。
○
律「わ、私がジュリエットはありえないだろ! ……例えば、いちごとか! 御姫様見たいで可愛いし!」
あのとき、私が『ジュリエット』になりたい、と希望していれば。
私は澪と、もっと仲良くなれたのだろうか。
でも、私は孤高であるべき存在だから。
私の愛する人は、私が孤高であることが格好いい、と評してくれたから。
いちご「え? やだ」
そう、答えてしまった。
律「えぇー……」
ほんとうは、ジュリエットを演じたかったのだ。
澪と一緒に、壇上で熱い抱擁を交わしてみたかった。
でも私は、孤高であることを優先した。
もしも、時間を戻すことが出来るなら。
ほんの数ヶ月前に戻りたい。
文化祭の役決めをしているあのころに戻って、ジュリエットになりたいと言うのに。
○
教師「おい、若王子。起きろ!」
男の声で、私は眼を覚ました。
また、深く眠っていたのか。授業はもう始まっていたようだった。黒板を見る。訳のわからない数式が羅列されていた。
教師「……ったく。居眠りするんじゃないぞ」
いちご「……はい」
孤高が聞いてあきれる、と私は思った。こんなヘマを犯すなんて。くすくすと、どこからか笑い声が聞こえた。
ため息。男性教諭は黒板に向きなおり、再び数式を描いていった。私は教室の壁に貼られたカレンダーに目をやる。
もう、二月か。
三年生のほとんどが受験をする中、私は進学ではなく就職を選んだ。
高卒は不利、とか聞いているが知ったことではない。大学でまた勉強をするなんて、まっぴらごめんだ。
高校を卒業したら働くつもりの私には、もう、勉強など必要ないのだ。出席日数も足りているのだから、卒業式までサボっても何も言われないだろう。
それでも学校に来ているのは、澪がいるからに他ならない。
くだらない、と私は思う。
彼女が私に好意を抱いていないなんて、わかりきっていることなのに。
私は何かを、まだ期待している。
○
放課後になると、そのまま帰宅する生徒が大半だった。二次試験というものがあるらしい。ご苦労なことだ。
軽音部の面々は、そのまま部室へと向かったようだ。彼女たちも受験はあるはずなのに、余裕を感じる。
遠くの方で、今日のおやつはシュークリームよという声が聞こえる。金髪眉毛のものだろう。
いちご「楽しそうだなぁ………………」
ウカツ。気付いた時にはもう遅い。声に出してしまっていた。
まだ教室にいた何人かの生徒が、私の声に気づいて、こちらを見てくる。
猛烈に恥ずかしくなって、私は学校を出た。
その日は曇りだった。昨日から天気は変わっていない。灰色の空。灰色の世界。
コンビニの前を通ると、その店舗の前に大きな垂れ幕がかかっていた。
『バレンタインフェア 実施中!』
赤色の紙に、白抜きの文字。
いちご(バレンタイン……)
いちご(今日は2月11日…………あと3日か)
いちご(去年も一昨年も、澪の下駄箱の中にチョコ入れたっけ…………、私が入れる前から、たくさんチョコが入っていたけど)
いちご(人気者なんだよね…………)
孤高、という言葉を思い出す。
私には似つかわしくない言葉だ、とつくづく感じる。
いちごという名前以上に、私には相応しくない形容。
私は誰よりも、甘えたがりなのだ。それを隠しているだけで……。
いちご(……今年も、チョコ渡そうかな)
いちご(下駄箱に入れるとかじゃなく、直接……)
いちご(手渡したいけど…………変に思われたら嫌だし……)
コンビニの前で、私は立ち続けていた。垂れ幕の文字を見ながら考える。
いちご(今年も結局、何の返事もなくバレンタインが過ぎ去るのか……)
いちご(………………まぁいいや。チョコは買っておこう)
孤高なはずの私が、チョコ一つでウジウジ悩んでいるなんて、澪に見られたら幻滅されるだろうな。
そう自嘲しながら、コンビニに足を踏み入れた。
店員の機械的な「っらっしゃあせー」という台詞を聞きながら、チョコが売られているところに向かった。
包装されているはずなのに、甘いにおいがする。チョコのにおい。香ばしい。
いちご(甘いもの好きそうだよね……澪って)
いちご(だからビターチョコとかは避けて……、あ、ホワイトチョコでいいかな)
いちご(下駄箱の中に入れても……食べてもらえないだろうし。他の子も下駄箱の中に入れているしなぁ)
いちご(やっぱり、手渡しした方がいいのかな…………)
いちご(でも、私の孤高ってイメージが壊れてしまう…………)
いちご(………………いいかな、別に。もう高校生活最後なんだし)
いちご(ちょっとくらい大胆になってもいいよね)
よみがえる、澪の笑顔。今日の休み時間見た、あの自然な微笑み。上品で、綺麗で……。
つい、私の顔も緩んでしまう。
いけない。せめてバレンタインまでは、孤高でいよう。
格好いいと言われた、孤高の私のままで。
○
翌日も、曇っていた。一週間ほどこの天気が続くらしい。
目ざましテレビでそう言っていた。バレンタインの日には雨まで降るかもしれないという。
天気の神様はどうやら、空気が読めないみたいだった。
昨日買ったチョコは、コンビニで包装してもらったまま、冷蔵庫に保管してある。
自分でも、気が早いのはわかっている。
いちご(明後日が、バレンタインか……)
高校最後のバレンタイン。
そう意識するだけで、胸が痛むのはなぜなのか。
私が学校につく時間は、きまってHRが始まる直前だ。今日も、私が教室に入るなり朝のHRを告げる鐘が鳴った。
自分の席に座った瞬間、その異変に気付いた。
いちご(……澪が、いない?)
欠席だろうか。
不安になる。
内心の動揺を悟られないように、冷静な表情を作る。
そのとき教壇の上で、女教師が口を開いた。
さわ子「えー、秋山さんは、風邪により欠席です」
天気の神様だけじゃなく、病気の神様まで空気の読み方を知らないようだった。
最終更新:2011年01月26日 23:51