かつかつ、かつかつと、私の部屋にはシャープペンシルの芯と、ノートのページの下の下敷きがぶつかる音だけが響くのだ。
シャープペンシルは私の指にリードされて踊り、真っ白な紙に、無骨な数式と、不恰好に曲がった英字を書き続ける。
私は、私の部屋が、私の部屋で勉強しかすることのない自分が、大嫌いだ。

机の端に置かれた携帯電話が、こもった音を立てて私を呼び出す。どうやらメールが届いているようだ。ロックを解除してメールを一読した。
幼馴染からの、期末考査の勉強の教授を請う内容だった。私は返信せずに携帯電話の電源を切った。


「和ちゃん、なんで昨日無視したのさあ」

翌日学校にいくと、後から来た幼馴染が、私が読書中なのにも構わず、
私の肩を揺さぶって、情けない声を上げた。

「ごめんね、勉強に集中したいから、携帯電話の電源は切ってたのよ」

彼女には真偽の確認のしようがない嘘を吐いて、私は、まだ寝癖の残っている彼女の髪を撫で付けた。
彼女の機嫌はいくぶんか和らいだものの、まだ少し口を尖らせて、言った。

「朝は見なかったの、携帯?」

私は口を開いて、それから、今から自分が吐く言葉を予想して、嫌な気分になったが、
喉が震わせた空気は、その動きを止めなかった。

「見たわよ。でも、あなたが部活の朝練なんてやってたら、返信するのも悪いかと思って」

幼馴染は、にへらと笑って、言った。

「和ちゃんからのメールだったらいつでもウェルカムだよ」

私は、口の端を吊り上げて笑った。

「和ちゃん、一緒に帰ろう?」

放課後、幼馴染が、相変わらずへらへらと笑いながら私に言った。
私はさっと彼女から目を逸らして、言った。

「ごめんね、ちょっと生徒会の雑務があるの」

残念だね、と言いながら教室を出ようとした幼馴染が、立ち止まって振り返った。

「和ちゃん、今日からテスト期間なのに、生徒会があるの?」

探るような目付きで、私のことを見つめていた。
私の目を真っ直ぐとらえて、角膜を刺し水晶体を突き破り、視神経をたどって、私の脳の中を見ようとしていた。

「あるわよ。生徒会は部活動と違うもの」

私が淡々と言うと、彼女は、ちぇっ、と頬を膨らませた。

「明日、明日勉強教えてよね」

幼馴染はそう言って、手を振りながら教室を後にした。

生徒会の雑務なんて、無い。
しかし、あると言った手前、立ち寄るだけでもしなければ、直ぐに嘘がバレてしまうだろうから、私は渋々生徒会室に向かった。

来る前はどうにも面倒で、嘘を吐いたことを後悔していたが、実際来てみると、生徒会室は中々居心地が良かった。
なによりも、ここには、私が今までしてきたことが残っているのが素晴らしい。
部活動の予算の決議だとか、図書室の蔵書の管理方法の変更だとか、どれだけの生徒が知っているか定かではないが、意外と私は生徒会長として仕事をしている。

勉強以外のことを、この生徒会室でしている。


窓の傍の椅子に座ると、強い日差しが私を包んだ。
もう四時だというのに、もう随分と陽が落ちるのが遅い。
ほとんど飾り同然のカレンダーに目を遣ると、7月10日に赤丸印がつけてあった。
この日からテスト週間なのです、と丸い字で書いてある。

そう言えば、書記の娘が、たまには真鍋さんにテストで勝ちたいものです、などと言っていた。
随分とやる気があるようだ。私はふふっ、と小さく息を漏らして笑った。
同時に、この部屋に勉強というものを持ち込んだそのメモに、嫌悪を感じた。

長机に肘をついて、頬杖を付き、ぼうっとしていると、がらがらとドアが開いた。
長い髪を揺らして、音楽教師が辺りをきょろきょろと見回しながら入ってきた。
彼女は私と目が合うと、びくっとした。

「あ、あら、和ちゃん、今日はテスト期間なのにどうしたのかしら」

教師が入ってくると、例えそれが音楽の教師であっても、この部屋の空気はがらっと変わってしまう。
私は、自然と自分が眉をひそめるのを感じた。

「先生こそ、どうしたんですか。音楽の教師が生徒会室に来ることなんて、テスト期間だろうが、それ以外だろうが、
 滅多にあることじゃあないと思うんですけど」

刺々しく私が言うと、彼女は、音楽教師差別よ、と肩をすくめた後、
しばらく考えこむように宙を見つめて、決心したように言った。

「実はね、捜し物があったり、するのよね」

彼女は眼鏡の奥から、一瞬、脅すような視線を私に向けた。

「言っとくけどね、このこと他の生徒に、とくに、唯ちゃんたちに言ったら犯すから」

唯ちゃん、とは私の幼馴染のことだ。別段話を聞きたいわけでもなかったから、頬杖を突いて外を眺めていると、先生は勝手に話をしだした。

「あのね、私りっちゃんに高校時代の写真握られてるじゃないの、それでね……」

その後、彼女は要領を得ない話し方で、軽音楽部の顧問になったのは、気に入っているから文句はないが、
もしあの写真が、他にも学校内にあったらと思うと不安だから、その恐れのある場所を探している、ということを言った。

「ねえ、聞いてる?」

知られたくないような素振りをしていたくせに、いざ話し終わると、彼女は怒ったように私に言った。
私は足を組み、相変わらず頬杖を付いたまま、薄く開けた目で彼女を見て、言った。

「どうでもいいんですけど、その話、私にとって」

あとからあとから付け足して、意味が取りにくくなった言葉を聞いて、先生は何故か笑った。

「和ちゃん、手伝ってよ。生徒会室が一番怪しいのよね」

私は思わず、はぁ、と大きくため息を付いた。

「先生、私に関係ないじゃないですか。テスト期間にくだらないことさせないでもらえますか」

「あら、生徒会室でぼうっと頬杖を付いているのは下らないことじゃないのね」

私が言い返そうと口を開く前に、パシャッと、電子音が聞こえた。私が目を白黒させていると、先生は、手を口に当てて笑い、もう片方の手に握った携帯電話の画面を私に見せた。

「じゃん、気だるそうなエロエロ和ちゃんの写真です」

画面には、殆ど机に頬がつくくらいの、だらしない格好をした私が写っていた。
よく見ると、組んでいる足の間から、めくれあがったスカートの下の下着が見えている。


「先生、手伝いますよ。感謝する必要なんてありません、生徒会長の努めです」

そう言って、私はすっくと立ち上がり、気をつけをした。
先生はくすくすと笑っていた。

「そんなにこの写真が見られたらマズイのかしら」

私はそれには答えず、生徒会室の奥にある本棚の、陰に隠れた段ボール箱を開けた。

「先生、過去の卒業アルバムはこの中に保管されてます。ここが一番怪しいのではないでしょうか」

私がはきはきと喋ると、先生はますます笑った。
扉を閉めて、携帯電話を胸ポケットに入れ、私の方に近づいてきて、段ボール箱の中身を漁った。

「そうねえ、卒業アルバムになんかマズイもの載ってたかしら……」

彼女が黒歴史探しに躍起になっている隙に、私は彼女の胸ポケットに手を伸ばした。
その手は、ぴしりとはたかれた。

「和ちゃん、スケベ」

そう言って、先生は、けらけらと声を上げて笑った。
私は顔に血がのぼるのを感じた。

「なっ……そういうことじゃありません、下衆な勘ぐりはやめて頂けますか」

私が赤くなっているのを見ると、先生はますます笑いが収まらなくなったようで、お腹を抱えて笑った。
ひとしきり笑った後、先生は、人差し指と親指で携帯電話をつまんで見せて、いたずら好きの子供のような声で言った。

「ふふ、和ちゃんが私の写真を見つけたら、この写真消してあげるね」

それから、おもむろに立ち上がって、私を見下ろしながら言った。

「じゃあ、私帰るわね。見つかったら教えて頂戴」

それから、私の体中ぺたぺたと触って、私の制服のポケットから携帯電話を引っ張り出した。
不慣れな仕草で、赤外線で連絡先を登録しあって、私の制服に携帯電話を押しこんで、笑った。

「なるべく早く連絡してよね。じゃあ、ばいばい」

手を振りながら、彼女は生徒会室を後にした。

その後、私は小一時間ほど生徒会室を探しまわった。
そして、勉強をしなければならないと思い、慌てて帰った。


かつかつと音を立てて、シャープペンシルを踊らせながら、先生のことを考えた。
そもそも、見つけなければデータを消さないというのは、おかしいことではないか。
もともとあるかどうか分からないものなのに。
最悪の場合、軽音楽部部長から、先生の写真を奪いとってやる必要があるかもしれない。

とにかく一度冷静になって考えようと思い、入浴して布団に潜り、天井を眺めていると、いつの間にか私は寝てしまった。


目を覚ますと、私は自嘲して笑った。
単純に、先生に、写真が見つからなかった、と連絡すれば済む話ではないか。
一晩私を悩ませたことが解決して、私は軽い足取りで学校に向かった。

いつもより早く学校に着くと、誰もいない教室の空気が、とても澄んでいるように感じた。
この広い教室に、他の生徒がいないと言うのは、素晴らしい開放感を私に与えてくれた。
しかし、それも、携帯電話の振動が台無しにした。


メールの本文は、とても短かった。

『昨日の写真に和ちゃんのパンツが写っているのを発見しました。撮り直すので、生徒会室に来て下さい』


訳がわからないと思いながら、私は駆け足で生徒会室に向かった。
扉を開けると、先生が足を組んで長机に座っていた。
足と足の間を指さして、妖艶な声で言った。

「ここ。ここからね、ちらっとパンツが見えてたのよ」

私は一瞬、先生の指の先にあるものを見つめて、息を飲んだが、すぐに目を逸らした。
先生は大声を上げて笑った。

「なんちゃって。どきっとした、どきっとしたでしょ?」

さっきとは打って変わって、子供のようにお腹を抱えて先生は笑っている。

「なに言ってんですか、同性愛者じゃあるまいし」

突然、先生は笑うのをやめた。
足を組んだまま、髪を撫で付けながら、私の目をじっと見つめた。

「いやかしら?」

えっ、と私が呆けた声を出すと、先生は、囁くような声で言った。
聞き逃さないように、私は耳をすました。

「例えば、私が同性愛者だったら、いやかしら。今すぐにでも、この部屋を出ていきたいと思う?」

先生の目は、さっきまでよりも湿っているような気がした。
ハイライトが大きくなっていて、そのうち先生の目からはみ出してしまいそうだった。

「いえ、そんなことは……ありません、けど」

けど、何なのか。自分でも分からなかったが、先生は、大人っぽい妖艶な笑顔でも、子どもっぽい無邪気な笑顔でもない、
その中間にあるような、不思議な顔で、眉を下げて笑った。

「そう」

短くそう言うと、直ぐにそっぽを向いて、腕を組んだ。
教室に戻っていいよ、と言われたけれど、私は暫くそこに立っていた。
私は同性愛者ではない、けれど、宙を見つめる先生の横顔には、曲線美があった。
目には蛍光灯の光が輝いていて、そこにもう一つ、太陽があるようだった。
長い髪は、絹のように滑らかで、光りを反射して、まるで踊っているようだった。

「あの、先生」

写真は見つかりませんでした、と言おうと思った。
けれど、先生が私を見ると、その言葉はどこかへ吹き飛んだ。
ハイライトの世界に、私が、私だけが映っていると思うと、私はいいようもなく至福な感じがした。

「なあに」

髪を掻き上げて、先生が言った。
ばらばらになった髪の毛が、また束を作るまでの一瞬、それはきらきらと空中で輝いた。

「放課後、一緒に写真探しませんか。独りだと効率が悪いし、それに……」

私が最後まで言い終わらないうちに、先生は、いいよ、と表情を変えずに言って、私の頭を撫でてから、生徒会室を出て行った。

結局、先生は私の写真を撮り直さなかった。
というか、考えてみれば、写真を撮り直すという行為にそもそも意味が無い。
それでも先生が私を生徒会室に呼んだ理由が、私との談笑にあればいいな、と思った。

教室に戻ると、数人の生徒がちらほらといた。私の幼馴染もいた。

「あっ、和ちゃん」

そういって、幼馴染は駆け寄ってきた。
抱きついてきた彼女の頭を撫でてやると、なんとなく、その柔らかすぎる癖毛が不快に感じられた。

「ねえ、今日こそは勉強教えてよね」

今、彼女の目に映っているのは、本当に私だろうか。私だけだろうか。

「それは、澪にでも頼めばいいんじゃないかしら」

私が彼女の部の友人の名前を出すと、幼馴染は、目を見張った。
おどおどと、目を泳がせながら言った。

「な、なに、それ……和ちゃん、どうしたの?」

幼馴染の言葉の意味が分からず、私は首をかしげた。

「なにが?」

私が尋ねると、幼馴染は無言で席に戻っていった。それをじっと見つめていると、とん、と肩を叩かれた。
振り返ると、髪を明るく染めた、垢抜けた感じの女の子が、困ったように笑っていた。

「なに、立花さん」

立花さんは、額を人差し指で掻きながら、小さな声で言った。

「あのね、唯、拗ねてるんじゃないかな」

「なにが?」

さっきと同じ言葉を繰り返す私を、呆れたように見つめる立花さん。
彼女の髪の毛は少し傷んでいるようだった。染めているからだろうか。

「だってさ、最近、唯は部活があって、真鍋さんと一緒にいる時間が減ってるじゃない」

「だから、テスト期間くらい一緒にいたいのに、私に断られて拗ねてるって、思うの、立花さんは?」

「そうそう、流石、理解が早くて助かるなあ」

へらへら笑う彼女を見、それから、不機嫌そうに机から外を眺める幼馴染を横目に見て、私は呟いた。

「身勝手ね」

「ん、なに?」

立花さんが聞き返してきたが、私は、なんでもない、と言って席に着いた。

テスト前の授業というものは、ほとんどが自習である。
だから、私は、軽音楽部の友人と私語をする幼馴染を見て、考えた。

もし、私が彼女に、寂しいから部活をやめてくれと言ったら、彼女はどうするだろうか。
多分、なんだかんだと理由をつけて、やめない。
大丈夫、和ちゃんのこと、大切に思ってるよ、なんて言って、結局は部活をやめない。

結局は、テスト期間くらいしか、私と一緒にいようとはしないのだ。

じゃあ、別に良いわよね、と、私は心のなかで呟いた。


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最終更新:2011年01月26日 01:19