私は友人の家のまえに立っている。
 1月も暮れようとしているような寒い時期で最もつらいときといえば、
友人の家のインターホンを押してから返事が来るまでのこのあいだだろう。と本気で思えてきた。
 部屋の明かりはついているので、なかにだれかいることは確かなのだが、なかなか返事がない。
 二度、三度と鳴らす。
 四度目でようやくつながった。

 『はい、平沢です』
 「ちーっす、田井中です」
 『ああ、律さん? 姉ならいますよ。どうぞあがって』
 「どうも」 私は声をかけ、玄関のドアを開いた。

 階段をのぼっていく。
 ベン、ベンと、弦を弾く音が聞こえる。唯は自主練に夢中になっているようだ。
 ドアを開いた。唯はまだこちらに気づいていない。さて、一発かましてやろうか。
 壁を叩いた。コン、コンと硬い音が鳴った。
 唯はこちらを振り返ろうともしない。少し、力を強めた。ゴツ、ゴツと鳴った。
 さすがに気づいたようだ。唯の首が、ドアの方向にひねられた。
 とっさに死角に移動する。おそらくまだバレていない。
 その後も壁を叩くことはやめないでいると、煮え切らなくなったのか、唯は演奏をやめ、
こちらに近寄ってきた。

 二歩、三歩。……よし!
 「わあぁーッ!!」 叫び声をあげながら、唯のふところに飛び込む。
 「え!? はわ、わわわッ」
 予期せずして私の体重をあずけられた唯は、そのまま仰向けに倒れこんだ。
 「いったぁー。もう、りっちゃんてば。もうちょっと普通にはいってきてよぉ」


 「ははは、わりぃわりぃ」頭をかきながらわざとらしく謝る。
 「それにしても、お前本当に気づかなかったのか?」
 「当たり前だよ、演奏に夢中になってたから」唯は当然のようにいった。
「せっかくギー太くんとのランデヴーを楽しんでたっていうのに」

 ランデヴー、ねぇ。
 「ああ、そうなのか。水を差してしまったな」
 とりあえずどこを突っこんでいいのかわからないので、当たり障りのない返事を返す。

 「もう、ほんとに。これからいいところだったんだよ?」
 「へぇ。じゃあ見ててやるから、続きでもやったらどうだ? 私はいっこうにかまわないぞ」
 「りっちゃん、わかってないね。ランデヴーは、ふたりきりであればこそじゃないの。
他人に見せられるものじゃないよ」
 「はあ。で、どんなことをするんだ?」
 この質問が口から出た瞬間、取り消したくなった。わかりきっている。

 演奏をするだけじゃないか。ギターの用途なんてそれだけじゃないか。だが唯は、
 「え……いや、それはいえないよ…………」
と面白い反応を示してくれた。
 「人にはいえないようなことをするのか? ギー太と?」
 案の定、唯は答えなかった。顔を赤くしただけだった。

 「……りっちゃん」唯が低い声でいった。
 怒りを買ってしまったのだろうか。だとしたら怖い。唯が切れているところを見たことがない。
なにがおこるかわからない。

 「……とりあえず、私の上に乗るのやめて」
 ……ぷ。
 現況。唯に会心の全力タックルをお見舞いしたあと、馬乗りになったままの状態でおしゃべりをしている。
 「りっちゃんはやくどいて。重いから」

 重い、だと。
 「貴様、だれに向かってその口をたたいたァ! 軽音部きってのトップアイドル、
リツ・タイナカに体重の話をすることは許さん!」
 「どうして? ……最近太った?」
 「だまれ! お前に勘繰られる筋合いはないわ!」

 へいへい図星ですようだ。少し泣いた。心の中で。
 とりあえず唯から降りた。
 これ以上乗りかかっていると、私の精神がズタズタにされてしまいそうだ。

 「で、りっちゃん」唯があらたまった調子でいった。
「今日は何しに来たの?」

 別段理由などなかった。私は最近、唯の家に遊びに行く機会が増えた。
 ただ、唯といっしょにいたいだけ。それに、唯と憂とのやりとりは、見ていて心が和む。
 ここに来ることで、なんだか私も平沢家姉妹に入ったような気になれる。
 今日はアポなしで押しかけたわけだが、もちろん、会わなければならない事情もない。
 理由をつけろ、といわれても、答えようがない。

 「いや、別に」
 「ふーん」

 「お姉ちゃん、律さん、お茶ですよー」
 憂が部屋に入ってきた。両手に盆を抱え、そのうえにティーカップをふたつ乗せていた。

 「さんきゅー、うい」唯が猫のような声で応える。

 どういたしまして、と小さく首を折り、杯をおろして、部屋を出ていった。
 その去り際に私にひとこと、「ごゆっくり」と声をかけるあたり、さすがだといいたい。

 「そうだ」 唐突にきりだす。
 「憂の淹れるお茶を飲みにきたんだ、今日は」
 憂の淹れる紅茶は本当にうまい。いつも通っている喫茶店のと比べても遜色ない。

 「ふーん。私はどうでもいいんだね」
 「ああ、この際いてもいなくてもいい」
 「じゃあ、消えようかな。バイバイ、私ちょっと出かけてくる」
 そういいつつも、冷ややかな視線を送り続けるのをやめてもらいたい。

 「冗談だよ、冗談。第一、友人の家に茶だけ飲みに来るような奴なんて、迷惑にもほどがあるぜ」
 「……りっちゃんならやりかねないよ」
 な……、
 「……けっこう傷ついた」

 そこまで信用ないんですかね私。
 そしてそのまま沈黙。なんで? なんでだまりこむの?
 いい過ぎた、ゴメンのひとことぐらいあってもいいと思うんですけどね? いや、いってくれ。必然だ。

 ……

 「これ、飲もっか」
 私がいった。

 一口入れる。
 うまい。商品として売り出されているものとはまたちがったうまさがある。

 「やっぱり、これを飲みに来てるのかもしれない」
 思わず口走った。
 後頭部に硬いものがあたった。


 「いててて……」
 教科書のカドで殴られた。

 「りっちゃんが悪いんだからね」唯はふふん、と鼻を鳴らしながらいった。

 どうやら溜飲がさがったようだ。先ほどまであった、刺すような唯の目線はどこへやら、
それによって私の感じていた緊張感も消えうせた。
 それにしても痛い。頭の血管が脈打つたび、ズキン、ズキンと重い痛みが走る。
 しかし、今日の唯はどこかおかしいような気がしてならない。妙に気が立っているように感じる。
 どうしたのだろう。なにか嫌なことでもあったか? などと考え、頭を抑えながら茶を飲み干した。

 「りっちゃん、今日はいつまでここにいるつもり?」唯がたずねてきた。

 「さあ、どうしようか? ――あ、そうだ。今日は夕飯まえには帰るわ。
ちょっと用事があってな……」
 澪に借りた雑誌の件だ。一応返す期限は明日までなのだが、もう読み終えたし、
早いうちに返してしまったほうがいい。いま、思い出したら、もう次はない。すぐに忘れて、
思い出すことはもうない。
 私の頭は、あいにくそんないい加減な記憶能力しか持ちあわせていないのだ。
自分で言うのもおかしいかもしれないが。

 「りっちゃん隊員、本日の平沢家の夕餉は、スキヤキでありますぞ?」
 予定変更。
 「即刻、争奪戦に馳せ向かわん」
 このノリにも慣れたもんだ、と思う。同時に、ここへ来る前に、
家の冷蔵庫の中身をむさぼってきたことを後悔した。おかげでちっとも腹が減っていない。

 「あせらない、あせらない」
と唯は時計を指さす。
 六時を回ったところだった。
 夕食までの間に、すこしは胃袋の空き容量も増えるだろう。


 「へへへ、りっちゃんといっしょにごはん~」
 「別に今日にかぎったことじゃないだろ」

 最近は、平沢家の夕食に邪魔することが多くなった。

 もちろんはじめのうちは遠慮もしたさ。でも一月ほど前、ちょうど年末だな、
ここで軽音部クリスマス会と称した鍋パーティーをしたのを契機に、食事をいただきに来るようになった。
 最近では、ほぼ三日に一回ほどのペースでお世話になっている。それほどここの飯はうまい。

 もちろん、憂ちゃんの作る料理に限ったことをいっているんだぞ? 
 唯の料理はまるで地獄のようだ。
 最近の体重増加、それに伴った体脂肪率の増加の元凶は、憂ちゃんの料理にちがいないのだが、
まあそんなことに文句をつけるほど、私も馬鹿じゃないさ。
 六時二十分。時間が待ちどおしい。

 それから約四十分後、憂の「お姉ちゃん、ごはんできたよ~」という声を聞くまでのあいだは、
やたら長く感じた。唯もほとんど口を利かず、
ただ呆然と座っていたり、本棚に詰まった雑誌をパラパラと斜め読みしたりしていた。
 空腹は人をここまで無口にさせるものか。
さすが人間の三大欲望のひとつだな、などと考え、私は脳を遊ばせてすごしていた。
 唯とともに夕食に降りていく。ふたつのせわしない足音が、壁に反射してよく聞こえる。

 まるで姉妹のようだった。

 「まあまあそんなに慌てなくても。スキヤキは逃げないよ」
 と憂がなだめる。その後私を見て、

 「律さんも食べていくんですか?」
 「え、ああ、ご馳走になるぜ」
 「丁度よかった。久しぶりのスキヤキだから張りきっちゃって、材料買いこみすぎちゃったんですよ」
 憂ははにかみながらいった。

 「だから遠慮しないで、お腹いっぱい食べてくださいね」
 いわれなくてもそのつもりだ。

 「あっ、でもすこしは遠慮してよね。私、スキヤキ以上においしい食べものを知らないから」
 唯がつけ加えた。

 「ふふ、お姉ちゃんったら。律さんはお客さんなのよ? 遠慮するのはこっちのほうだよ」
 「いやいや、おかまいなく」
 といっておいた。

 三人でコタツを囲んだ。
 「じゃあ、はじめましょうか」
 憂はそういうと、ふちの盛り上がったホットプレートのスイッチをいれた。

 「うい~、卵とって~」
 「ああ、そうだったね。忘れてた」
 と、憂は台所へ駈けていった。それを確認すると、唯はプレートに油をひき、肉を炒めはじめた。

 「おい、なにしてんだ? スキヤキは、タレでぐつぐつやるもんだろ?」
 すみに置いてあるスキヤキのタレを指さしながらいう。
 「ふふふ、かわいそうなりっちゃん」
 唯は不敵に笑った。
 「お肉は煮る前にすこし炒めておくと、焦げ目がついておいしいんだよ」
 白い目を向けられる。りっちゃん、人生の半分を損してるよ、とでもいいたげだ。
 「スキヤキストのあいだでは常識だよ」
 スキヤキスト? 聞きなれない言葉だ。

 憂が帰ってきた。卵をパックごと持っている。私もひとつ、いただくことにした。

 「いっけ~! 野菜部隊、突撃~ッ!!」
 どかどかと具を放り込む唯。

 「お姉ちゃん落ちついて」
 憂ちゃんの言葉に同意しようとしたが、唯はその前に、
 「りっちゃん隊員、第二陣に出撃命令を!」
と。ここはノリを優先したい。

 「うむ。第二陣、投下ぁ!」
 えのきやら豆腐やら白滝やらをやたらめったらぶっ込む。

 「ああダメだよりっちゃん」
 唯が右手を差しだしてとめた。

 「ん? なにかまずかったか?」
 「白滝とお肉は離しておかなきゃ。お肉がかたくなっちゃうよ」
 「そうですよ律さん」

 憂ちゃんもうなずく。
 ほう。そうなのか。
 箸で白滝の位置をかえた。
 料理について唯に教えられることになるとはな。
 唯の料理評「地獄」は撤回してやろう。 「生ゴミ」だ。


 「さあ、そろそろいいかな。どうぞ、召し上がって」
 憂ちゃんがいった。

 「「いただきま~す」」
 見事にハモッた。

 「ふふっ、ふたりとも本当に仲がいいんだね」
 憂ちゃんがほほえんだ。

 「そりゃあそうさ、部長だもの。みんなと仲良くやってかないと」
 「もうりっちゃん、なんで素直に『唯が好きだからだ』っていえないの?」

 ご冗談を。
 「男前すぎんだろ」
 「えへへ」

 唯はにべもないといった様子で――いや、食べることに集中したいのだろうか、黙ってスキヤキを箸でつつきはじめた。
 私も唯にならって、目の前の料理に手をつける。

 「……味薄い」
 憂ちゃんはぼそっとつぶやいて、しょうゆを足した。
 どうやら野菜を入れすぎたようだ。

 なにかがおかしい。

 そうだ、会話がない。
 みながみな、目の前の料理を平らげることに専念しているようだった。
 七時二十五分。普段なら一時間半ほどかけ、
楽しくおしゃべりをしながらだらだらと食事を続けているところ、今回はもうすぐなくなりそうな勢いだ。

 プレートが空になる。締めのうどんもやってしまった。
 満腹になるまで食えなかった。となりに座っている唯とかいうのがほとんど食べてしまったぞ。
 憂ちゃんのやつ、どこが「材料買いこみすぎちゃった」んだ?

 ただボーっとしていた。コタツの温かさに、ダメだと思っていても眠気を覚える。
 いや、もうこのまま眠ってしまってもいいかもしれない。本当に家でくつろいでいるような気持ちだった。
 必要最低限の会話。日本人のだれもが習慣づいているだろう、食事のときに電気をつけたテレビの音声。
音という音はそれだけで、まるで私がひとり、自宅でくつろいでいるときのようだった。

 もちろんこんなことははじめてだ。毎回夕食後にお披露目される、
平沢姉妹のゆるゆる漫才がないだけでも違和感を抱くというのに、きょうはテレビに映っている俳優の話すら持ちあがってこない。
 異常だった。快活な姉妹を知ろうものなら、だれもがいぶかることはまちがいない。

 もう帰りたい。だがこの場の固まりついた空気は、
私が立ちあがり、「さよなら」のひとことをかけることを許してくれない。

 唯の部屋ににおいてあった私の携帯の着信音が鳴った。

 「あ、りっちゃんの携帯鳴ったよ」
 唯もその音に気づいたようだ。

 「ああ、ちょっと失礼」
 と声をかけ、二階へあがっていく。ここから逃げ出す口実としては立派だ。

 天の恵みのように思った。
 あとワンコールのところで鳴りをひそめた。着信履歴を確認する。
 『自宅』という登録名だった。送り返す。

 『……もしもし姉ちゃん?』
 聡だ。

 「……人違いでは?」
 鼻にかけない声で応える。

 『アホ。早く帰ってこいよ』

 「聡くん、怒らないで聞いてくれ」
 『なんだよ』
 「冷蔵庫の中身はカラッポなんだ」
 『さっき見たよ。だから電話してんじゃんか。なに食えばいいんだよ』
 あー、と間をとりながら家の食料状況を考える。

 「……すまんなにもない」
 『外食決定ー! いえーい!』
 「お前私の金使う気だろ」
 『あたりまえ!』
 きっと親指を突き立てているんだろう。まったく現金なやつだ。

 とはいえ私にも非はある。
 「せめてファミレス程度にとどめてくれよ。フレンチとか行ったらKILLだぞ」
 わーってる、わーってるから、と適当な返事が返ってくる。

 「じゃ、食って来い。まだまだ帰れそうにないわ。先に風呂も入っとけ」
 『ああ、』
 「それと、……ありがとな」
 『ああ?』
 「私を心配してくれたんだろ?」
 『まあ、それもないことはないが……まあ、メシのほうが大事ってことで』
 「はっはっは、てれるな弟よ。私も嬉しかったんだからさ」
 いろんな意味で。

 『……うぇ、きもちわりぃ』
 「気持ち悪いとはなんだ、気持ち悪いとは!?」
 ――まあ、確かに私のガラじゃないかもしれないな。

 じゃあな、といったあと、受話器を下ろす音が聞こえた。
 そうだ。私にも家族はあるんだ。かわいい弟がいる。

 「律さん、どちらさまから?」
 憂ちゃんが部屋に入ってきた。

 「ああ、弟だ」
 そうですかと、返事。
 「なにしにきたんだ? ここは唯の部屋だぞ?」
 「わかっています」
 「じゃあ、なんだ? 唯はどこにいったんだ?」
 「お姉ちゃんはお風呂に入りました」
 「じゃあ……私?」
 鋭いツッコミを所望する。
 「律さん」

 だが、憂ちゃんはしかとうなずく。そして真面目極まりない声でいった。
 「ちょっと話したいことがあるんです」

表情は真剣そのものだった。すこし怒りの色さえはらんでいるように見て取れるほどだ。

 「そうか、わかった。が、その前にふたつお願いがある」
 なんですか? と憂ちゃん。

 「ここで話すのはやめよう。いつ、唯が帰ってくるかわからない」
 わざわざ私に相談に乗ってもらおうとしているのだ。唯には話しづらいことなのだろう。

わざわざ聞かれたくない人間の部屋で話をせずともいい。

 「……わかりました。ふたつ目は?」
 「夕方、私に出してくれたお茶。あれをもう一杯淹れてくれ」


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