私は聡の姉だ。
昔から、「姉」という立場を生きてきた。



だからあの日、私はあいつを頼ったのかもしれない。


母「聡、今回の成績よかったわね」

聡「まあねー、バカな姉ちゃんとは違うよ」

律「…」

母「律、あんたもうちょっと頑張りなさい。弟にバカにされてどうすんの」

聡が私のことを好き放題に言うようになってもう長いこと経っていた。
男の子だからか、母親はそんな聡に甘い。
二人してニコニコと笑い合っている日常を見るのはもう耐えられなかった。
私の気持ちも知らないで。

律「……うるさいんだよっ!!」

リビングにあったテーブルを蹴り飛ばし、収まらない怒りをぶつける。
キッチンで食器を持ったまま固まる二人を睨み付けた。

律「お前なんてもう弟じゃねえ!お前のせいで私がどれだけ我慢してきたと思ってるんだよ!」

母「律、ちょっと言い過ぎよ」

律「あぁ?!じゃあ誰がこいつ産んでくれって言ったんだよ、なぁ?!」

鬱陶しい声を遮り、意見したところで乾いた音と共に左頬に鈍い痛みが走った。

母「…言っていいことと悪いことがあるのよ」


私は本当のことを言っているだけだ。
なのに、それを全て否定されたような気がした。

律「もういいよ…!」

この家に私の気持ちをわかってくれる人はいないんだ。
そう思うととてつもない怒りと同時に悲しみが込み上げてきた。
私の居場所はもう、ここにはない。



玄関を飛び出し、夜風に肌を曝した。
熱くなる目頭を冷ますようにひたすら宛てのない道を歩く。
人気のない真っ暗な夜道は居場所のない自分にぴったりの空間だと思った。

どれくらい歩いたかなんて知らない。
ただ、あんな家にはもう帰りたくない。
カン、カン、カン、と規則正しい音が耳に届いている。

もう、疲れたんだ。


――――――――――

唯「うふふ、アイスアイス~」

憂との夕飯を終えた私はコンビニ袋を手に提げて家路を急いでいた。
「お姉ちゃん、気をつけてね」と暗い中、外出しようとした私に声を掛けてくれた憂を思い出すと、ひとりでに歩が早まってしまう。

唯「ん?」

軽快に歩いていたときだった。
ふと前方に自分と同じくらいの女の子を見つける。
どこかで見たような後姿。

だけど、何やら様子がおかしい。

その子は踏切が鳴り続けているというのに、遮断機の中に入っていったのだ。

唯「あ、あぶないよぉ!」

私が咄嗟にあげた声にその子が振り向いた。

多分、お互いにとても驚いた顔をしただろう。
だけどその時の私はそんなことよりも、その子を助け出すほうが先だった。


ぐい、と腕を掴んで遮断機の中から引っ張り出した。
二人で倒れ込んだ数秒後、もの凄い轟音を立てて傍らを電車が通過していった。

唯「何やってるの、りっちゃん!あぶないでしょ!」

声を荒げる私の腕の中でりっちゃんは俯いたまま何にも喋らなかった。
どうしたんだろう、考えているうちに目の前の肩が小さく震え出した。

律「どうして止めたりしたんだよ…」

唯「え…」

律「もう…、死なせてくれよぉ…」

りっちゃんは泣いていた。

律「私の居場所なんてどこにもないんだから…っ」

いつも元気なりっちゃん。
でも今、目の前にいるりっちゃんに笑顔はない。
ただ、静かにぽろぽろと涙を零している。

唯「そんなことない!」

私はぎゅっとりっちゃんを抱き締めた。
何があったのかは知らない。
だけど、“居場所がない”だなんて聞き捨てならなかったから。

唯「りっちゃんには軽音部があるでしょ!澪ちゃんも、ムギちゃんも…私もいるよ!」

唯「だから…っ、死なせてなんて…言わないでぇ…」

気がつけば私も一緒に泣いていた。
りっちゃんのせいだ。
りっちゃんがこんなことするからいけないんだ。

それからしばらく二人で泣いた。
視界の隅に入ったコンビニの袋からは、買ったばかりのアイスが飛び出してぐちゃぐちゃになっていた。

りっちゃんが無事でよかった。


――――――――――

唯「大丈夫?」

律「ああ…だいぶ落ち着いた」

唯「そっか…よかったぁ」

ほっと胸を撫で下ろす唯を見ていると何となく心が落ち着いた。
さっきまで自分がしようとしていたことを思い出し、僅かに身体が震えた。

唯「…」

律「…」

気まずい。
いつもの私達なら会話に沈黙などないはずなのに。
こんなことがあった手前、仕方のないことかもしれないけれど。

これからどうしよう、そんなことを考えていた時だった。

唯「ねえりっちゃん、家においで?」

唯を見るといつもの笑みを浮かべていた。
いつも思うけれど、穏やかで優しい笑顔だ。

律「え?でもさ…こんな時間だし」

唯「いいんだよ!ほらほら、行こう?」

ね?と念を押され、唯は私の返事も待たないまま私の手を握り歩き始めた。
冷え切った私の冷たい手とは対照的に、唯の手はとても温かかった。

唯「うふふ」

律「どうした?」

唯「りっちゃんが来てくれたら、憂もきっと喜ぶねぇ」

憂ちゃんの名が出た瞬間、私の心臓がぎゅっと締め付けられた。
そうだった。

――唯も“お姉ちゃん”なんだよな。

律「…」

唯「りっちゃん、どうかした?」

律「…ううん、何でもないよ」

なあ、唯。
どうして唯はそんな楽しそうに憂ちゃんのことを話せるんだ?

私には、できないよ。

――――――――――

唯「ただいまぁ」

憂「おかえり、お姉ちゃん!あ、律さんも。こんばんは」

律「こんばんは」

唯「コンビニから帰る途中で偶然会ったんだよ~」

憂「そうだったんだ。あ、どうぞ、上がってください」

律「…お邪魔します」

目の前に並べられたスリッパに爪先を通し、慌ただしくキッチンの方へと駆けて行く憂ちゃんを見る。
改めて思うけれど、本当に出来た子だ。

律(あ…そういえば…)

その時、いつか私が唯に対して発した言葉を思い出す。

『よくできた妹だな~』

『唯のいいところ全部、憂ちゃんに取られちゃったんじゃないのか?』

今思えば、唯のことなど何にも考えずに言ったものだった。

――――――――――

私は田井中家の長女として生まれた。
初めての子供ということもあり、沢山の愛情を注がれたらしい。
らしい、というのは自分でも記憶のない幼い頃の話だからだ。

それから聡が生まれた。
聡が生まれてからのことはなぜかよく覚えている。

『律はお姉ちゃんなのよ』

『お姉ちゃんなんだから、ちゃんと面倒見なさい』

『お姉ちゃんでしょ』

初めは何とも思わなかった。
自分でも「姉になった」という自覚はあったし、それに伴って聡の面倒を見るのも当たり前だと思っていたからだ。

だけど、ことあるごとに“姉”という立場を強要されることについては違和を感じ始めていた。

喧嘩をすれば、向こうに原因があっても私が怒られる。
テストで悪い点を取れば、聡と比較されて私が怒られる。
お姉ちゃんなんだから、という理由だけで家事を任されることも幾度となくあった。

私は段々と苛立ちを覚えるようになっていた。

聡と母親。

そのどちらに対してもだ。


――――――――――

律「うわっ、ちょっとは片付けしろよ…」

唯「し、仕方ないでしょ。じゃあ、りっちゃんも手伝って」

律「えぇー…」

私の部屋に入るなり、眉を顰めたりっちゃんは面倒くさがるかと思いきやせっせと片づけを始めた。

唯「優しいねぇ、りっちゃん」

律「へへ、照れるぞこのやろー。ほら、唯もそこのマンガ、棚に持ってけ」

唯「りょーかいですっ」

私も慌てて片付けに取り掛かりながら、段々と戻ってきたいつものりっちゃんに嬉しさを覚えていた。

りっちゃんに何があったのかは気になる。
だけど、直接それを聞くことは躊躇われた。
何となく聞かない方がいいのかなと思った。

人には言いたくないことだって、あるもんね。


律「ふぅ…まあこんなもんでいいか」

唯「綺麗になったね~、ありがとう」

小一時間後、二人が座れるくらいのスペースは確保できた部屋をぐるりと見渡しながら息を吐く。
よっこらしょっと、と声を上げて腰を下ろすりっちゃんに私も続いた。

律「落ち着くなあ…人の家って」

りっちゃんはどこか遠いところを見詰めていた。
どうかしたのと聞こうとした時、コンコンというノックの音と共に憂が入ってきた。

憂「お茶どうぞ。あと、小腹空いたかなと思ってお菓子も」

唯「おおー、さすが憂。ありがとぉ」

律「悪いね、憂ちゃん」

お茶とお菓子を受け取っていると、憂が「そういえば」と続けた。

憂「お姉ちゃん、アイスはちゃんと冷凍庫に入れたの?」

唯「ん?アイス?」

憂「うん。コンビニに買いに行ったんでしょ?」

憂の言葉ではっと線路の端に落ちてしまったアイスを思い出す。
どうしよう。
言わないほうがいいよね。

唯「あ、あのね…好きなアイス無くて買わなかったんだぁ」

憂「そうだったんだ」

唯「う…うん」

私は自慢じゃないけど嘘があまり上手じゃない。
だけど、アイスの行方をどうやって説明すればいいのかわからなかった。
だって、りっちゃんの事に触れてしまうことになる。

どうしようと思っていたその時だった。

律「ちょっと唯に聞きたいことがあるんだけどさー」

突然の言葉にびっくりしてりっちゃんの方を見るといつになく真剣な顔をしていた。
私はその表情にちょっとした怖ささえ覚えた。

唯「な…、なに?」

りっちゃんは少し間を空けて、口を開いた。

律「“お姉ちゃん”って立場、どう思う?」

唐突な律さんの質問は私にとっても興味深いものだった。
お姉ちゃんが自分の立場をどういう風に思っているか、なんて聞いたことが無い。

唯「よくわかんないかなぁ」

律「…」

唯「私、あんまり“お姉ちゃん”って感じじゃないし…いつも憂に頼ってばっかりだし…」

お姉ちゃんは眉を下げて私を見る。
そんなことないよ、と首を振って答えた。

律「じゃあさ…、憂ちゃんと比べられることについては何にも思わないのか?」

憂「私、ですか?」

質問を変えた律さんに名を挙げられて思わず声が出る。

律「そうそう。“出来た子だなー”とか“憂ちゃんはしっかりしてるのに”とか…、色々言われるだろ?」

憂「あ…、はい」

律「唯はそれについてどう思ってるのかなー、って」

私は改めてこれまでの事を振り返る。
律さんが言っていることは正しい。
前に律さん達が家に来たときも、皆が口々にそのようなことを言っていたのを思い出す。

私は何にも思わなかった。
恐らく、そう言われることに対していつの間にか耳が慣れてしまっていたのだ。

私はお姉ちゃんがいるから、お姉ちゃんのためだからしっかりできる子なのに。

そう言えば、お姉ちゃんの気持ちを考えたことなんてなかったかもしれない。

憂「…お姉ちゃん、ごめんね」

唯「ど、どうして憂が謝るの?!」

憂「だって…私、お姉ちゃんのこと…考えたことなかった」

お姉ちゃんは優しい。
だから、私はいつもお姉ちゃんに甘えてしまっているのかもしれない。
だけど、一番大事な部分を考えたことがなかった事実にただ悔しくて目の奥が熱くなった。


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