唯「あーあ、ばれちゃったよ……」
お姉ちゃんが唇を尖らせて、わたしのベッドに座りこんだ。
未だにお姉ちゃんは、わたしの恰好をしていた。
少しふて腐れているようで、お姉ちゃんはそのままベッドに寝転んだ。
唯「憂、ゴメンね。わたしがミスしたからバレちゃったね」
憂「気にしなくていいよ。それに本当はもっと早く気づかれると思ってたし」
わたしはお姉ちゃんに向かって微笑みかける。
内心、わたしは安心していた。なぜ、かはわからなかった。
ただ胸の内側に溜め込んでいたモヤモヤが消えたような気がして、わたしの唇は自然と綻んだ。
もっとも、お姉ちゃんは不満そうだったけど。
唯「よし! 決めた!」
お姉ちゃんが身体を起こして声をあげる。結んだ髪が大きく揺れた。
憂「なにを?」
唯「今度はもっと完璧に憂になりきってみせるよ」
また、わたしはなにかに胸を締め付けられたかのような感覚に陥る。
姿見にはわたしとわたしの恰好をしたお姉ちゃんが映っていた。
純「なるほど、なるほど。
入れ代わりに失敗したせいで、かえって唯先輩はそれに夢中になっちゃったわけね」
憂「うん。お姉ちゃんって熱中すると止まらない、っていうか、周りが見えなくなっちゃうことがあるから」
純「憂のお姉ちゃんらしいね」
憂「そうだね」
純「それで? 憂が今の悩みと、どう結びついてるの?」
純ちゃんが牛乳のストローから口を離した。
一瞬だけ、わたしは言うか言わないか迷った。
この悩み――この不気味な感覚を、果たしてわかってもらえるのか。
逡巡するわたしに純ちゃんは、ごく自然に言った。
純「とりあえず喋ってみたら?
わたしが確実に憂の悩みを解消できるってわけじゃないけど、話すだけでもけっこう違うと思うんだ」
憂「うん……ありがとう、純ちゃん。
最初に言ったけど、自分がわからなくなってくるの」
純「…………」
憂「馬鹿みたいに思われるかもしれないけど、時々自分が、お姉ちゃんなんじゃないかって思えてくるの」
純「自分がわからなくなるって?」
憂「お姉ちゃんがわたしに変装するってことは、イコールでわたしもお姉ちゃんに変装するってことになるでしょ?」
純「そりゃあね。どっちかが変装してなかったら、同じ人が二人いることになるもんね」
わたしは眉をひそめてしまった。
同じ人? ちがう。わたしとお姉ちゃんは全くの別人だ。
自分が思っているより、露骨に顔に出ていたらしい。
純ちゃんがわたしの表情を心配げに覗き込む。
純「えっと……ゴメン。なにか気に障るようなこと言っちゃった?」
憂「……ううん。なんにもだよ。ちょっと、ね……。
とにかく、そうやってお互いがお互いになりきっていくうちに、不安になってくるんだ」
純「……そっか」
純ちゃんは口を噤む。言葉を探しあぐねているようだった。
憂「前にね。軽音部のみなさんが家に来たの」
純「もしかして……」
純ちゃんはわたしとお姉ちゃんが、そこでなにをしたのか予想がついたみたいだった。
憂「そう、わたしとお姉ちゃんはまた、みなさんの前で入れ代わった」
純「バレなかったの?」
わたしは頷いた。
純ちゃんが感心したかのうように、或いは呆れたようにため息を漏らした。
純「なんて言うか……すごいね平沢姉妹。
……ん? でも、憂のお父さんたちには唯先輩がミスして変装がバレたんだよね。
そのときは澪先輩にはバレなかったの?」
憂「全然。たぶん、澪さんたちはこれっぽっちも気づいていなかったと思う」
それぐらいわたしたちの演技は完璧だった。
完璧すぎて、自分で自分がわからなくなる。
本当はわたしがお姉ちゃんで、お姉ちゃんがわたしなのではないのか。
そんな馬鹿げた考えが脳裏をよぎって、わたしはかぶりを振った。
純「いや、でもさ」
純ちゃんが身を乗り出す。
純「憂は、憂だよ。少なくても――わたしの目の前にいるのは憂だよ」
憂「……そうだね」
そう、そのはず。
放課後。わたしはいつも通り、家に帰った。
部活に所属していないわたしは、必然的に家に直行することになる。
お姉ちゃんは軽音部があるため、わたしよりあとに帰ることがほとんどだった。
わたしは家の扉を開いた。
扉を半分以上開いてからようやく、なぜ鍵がかかっていないのかという疑問を持った。
「お帰りなさい」
わたしより先に帰ってる人がいた。
「お姉ちゃん」
わたしがわたしを出向かえた。
憂「な、なんで……?」
背筋を気味の悪い汗が伝う。
自分でもみっともないほど声が震えているのがわかった。
「……どうしちゃったの、『お姉ちゃん』?」
わたしの目の前で、わたしは可笑しそうに微笑む。
「部活はどうしたの? もしかして今日は部活、お休みだった?
そうなら言ってくれればよかったのに。
今、丁度コーヒーを煎れようと思ってたんだ。飲む?」
眩暈がした。わたしがわたしであるはずなのに、わたしの目の前にはわたしがいる。
いや、理解はしている。わたしの目の前で微笑んでいるのは、わたしじゃない。お姉ちゃんだ。
べつに珍しいことではなかった。
今までにも何度かあった。家に帰ったら、お姉ちゃんがわたしを演じて、わたしがお姉ちゃんを演じる。
ただ、今までとは決定的に違う点がある。
今までは互いが入れ代わるときは、事前になにかしら相談があった。
「いつまでも玄関にいないで、上がりなよ。ここはわたしたちの家だよ?」
「昨日のうちにバウムクーヘン買っておいてよかった」
わたしの目の前のテーブルに、バウムクーヘン(袋に入った一口サイズの)とコーヒーとフレッシュが置かれた。
わたしは今、お姉ちゃんの姿をしていた。
わたしとお姉ちゃんの間には既に暗黙のルールができあがっていた。
お姉ちゃんがわたしになるときには、わたしもお姉ちゃんになる。
「どうしたの?」
尋ねられて、わたしはとっさに、なんでもないと答えた。
一瞬、わたし――ではなく、お姉ちゃんの顔が呆けたような弛緩した顔つきになる。
「コーヒー、早く飲まないと冷めちゃうよ?」
それだけ言うと、キッチンに戻ってお湯を沸かし始める。
……どうしてわたしはこんなことをしているのだろう。
こんなことして意味などあるのだろうか?
わたしの顔が、カップの中の真っ黒い液体の中に映し出される。
そこに映ったわたしは、お姉ちゃんの顔をしていた。
憂「……!」
わたしは思わずフレッシュをカップの中に注ぎ込んで、スプーンで液体を掻き回していた。
厭だった。お姉ちゃんの姿をした自分を見るのが厭でしかたがなかった。
たちまちカップの中で渦を描いて、白と黒が溶けて混じっていく。
カップの中の黒と白のマーブル模様は、あっという間に茶褐色になった。
「どうしたの、お姉ちゃん。食べないの?」
いつの間にかわたしの正面に座っていた『わたし』は首を傾げる。
得も言えぬ不安が胸を染め上げていく。
どこかで甲高い警告音がした気がした。
「お姉ちゃん?」
わたしは目の前の彼女の手首を反射的に掴んでいた。
自分でもわけがわからなかった。
ただ、自分が意味にならない言葉を吐いていることだけは理解できた。
掴んでいた腕を引っ張り上げて、目の前の彼女を無理やりソファーに押し倒した。
「……どうしたの?」
突然ソファに押し倒されたにも関わらず、彼女は特に驚いた顔をしなかった。
憂「……めて」
彼女は冬の湖水のように穏やかな瞳でわたしを見つめた。
わたし――ちがう、お姉ちゃんの肩を掴む手が震える。
身体の芯が軋んで、皮が剥がれ落ちていくかのような漠然とした恐怖が、わたしを支配する。
憂「……やめて。わたしの『ふり』なんてやめて」
またどこかで警告音にも似た甲高い音が聞こえてくる。
けれども、わたしは構わず、お姉ちゃんに更に顔を近づける。
「……なにを?」
憂「勝手にわたしにならないで。わたしは」
わたしだから。
そう言う前に、不意にお姉ちゃんが勢いよく身体を起こす。
半ば、突き飛ばされる形になったわたしは、したたかに背中を打ち付けた。
「もう、ダメだよ。お姉ちゃん。ガスを使ってるときはその場から離れちゃダメなんだよ?」
湯を沸かしていたガスコンロのところへ行くと、彼女は火を消した。
再びお姉ちゃんがわたしのもとへと戻る。
わたしを見下ろして、めっ、と親指を突き付けてくる。
わたしがお姉ちゃんを叱るときに、よくするポーズだった。
わたしはなにも言えなかった。言葉が咽の奥から出てこない。
「お姉ちゃん、ひょっとして疲れてる?
あ、そっか。だから今日は部活を休んじゃったんだね」
わたしが納得したように頷く。
ちがう、そうじゃない。わたしはそもそも部活なんてしていない。
否定の言葉の代わりに、細く鋭い息遣いが唇から漏れた。
「うん? どうしちゃったの? 元気ないよ?」
憂「もうやめて……!」
ようやく言葉がまともな形となって出てきた。
もっとも、目の前の『わたし』は意味がわからないとでも言いたげに首を傾げるだけだった。
憂「憂はわたしだから。憂は、わたしなの。お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょ!?」
わたし――の姿をしたお姉ちゃんはまた不思議そうな顔をした。
わたしは震える声で必死に言葉を紡いだ。
憂「ねえ、やめて……おねがいだからやめて。
怖いの……だんだん自分がわからなくなるの。不安になるの!
どうして……どうしてお姉ちゃんはこんなことするの? 楽しいの!? 楽しくないでしょ!?」
半ばわたしの声は悲鳴に変わりつつあった。
既にわたしは、床にくずおれていた。
それでも、もう一人のわたしは困ったような表情をするだけで、なにも言おうとはしない。
憂「わたしのふりをするのはやめて……」
「ねえ、なにを言ってるの?」
低い声が上から降ってくる。
見上げると、わたしの姿をしたお姉ちゃんが、わたしを見下ろしていた。
「っ……」
無意識に息を呑む。
お姉ちゃんはわたしの腕を乱暴に掴んだ。
洗面所まで強引にお姉ちゃんに連れていかれる。
わたしのふりをしたお姉ちゃんに。
わたしの腕を掴んでいる腕を振りほどくことは、それほど難しいことではなかったのかもしれない。
それでもわたしには、抵抗することなんてできなかった。
「ほら、よーく見てごらん」
その声に促されるまま、わたしは洗面所に備えられている鏡を見た。
鏡にはわたしとお姉ちゃんが映っていた。
「ほら、どう見てもわたしが憂でしょ?」
鏡の中のわたしが言った。
足許から恐怖が這い上がってくる。
鏡の中のお姉ちゃんは真っ青な顔をしていた。色を失った唇が細かく震える。
「あ、あぁぁ…………」
わたしの唇から掠れた声がする。
いや、ちがう?
鏡の中のわたしは、ただ心配げにお姉ちゃんを見つめているだけだ。
「お姉ちゃん。これでわかったでしょ。わたしがわたしなの」
「ち、ちがう……」
頭の中で思考の糸が縺れかけている。
ちがう。鏡の中のわたしはわたしじゃない。
わたしは思考を無理やりにでも整えようと頭を振った。
なぜか鏡の中では、お姉ちゃんが頭を振る。
「……!」
「お姉ちゃん、もしかしたら風邪かもよ? ここのところ夜遅くまで勉強することも増えたし」
「ちがう、ちがう……わたしが平沢憂なんだ……」
「だから、わたしが憂だって言ってるでしょ?
まだわからないの?」
「ちがう! わたしが憂! お姉ちゃんはわたしじゃないっ!」
「いいかげんにして」
霜が降りたかのような冷たい声に渇いた音が重なった。
自分がなにをされたのか理解するのには、しばらく時間がかかった。
「……っ」
「あんまり度がすぎるとさすがにわたしも怒るよ」
左の頬が痛い。わたしは、はたかれたのだ。
鏡を見るとお姉ちゃんが、呆然とした顔でわたしを見ていた。
はたかれた頬は赤くなっていた。
「……どういうこと?」
疑問が無意識に口から出ていた。
はたかれたのはわたしのはず。
なのに、どうして鏡の中ではお姉ちゃんがはたかれているの?
自分の頬に触れる。頬が熱い。
はたかれたのはわたし。痛いのもわたし。
なのになんで、鏡に映って頬を押さえているのはお姉ちゃんなの?
「わたし、これから洗濯するから。洗濯物とか部屋にない?」
鏡の向こうで、わたしが踵を返す。
「待って……」
「なあに、『お姉ちゃん』?」
「わたしは……わたしが平沢憂なんだよ? なのになんで……」
「……ごめんね。今忙しいからあとでまた話そっか」
「待ってよ……」
「うるさいよ、『お姉ちゃん』」
それだけ言うと、わたしの姿をした彼女は洗面所から去っていった。
そこにいたのはわたしだけだった。
鏡に映ったわたしは、平沢唯だった。
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
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「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
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「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
「わたしは誰?」「わたしは平沢憂?」「わたしは平沢唯?」
カーテンの隙間から差し込む朝日に呼び起こされるように、わたしは目を覚ました。
頭が痛い。身体が重い。なにかはわからないが強烈な違和を感じる。
「おはよう」
わたしの声によく似た声が聞こえる。
起きたばかりのせいか、その人物の姿ははっきりと見えなかったが、それでもシルエットから髪を結んでることだけは見てとれた。
「昨日はあのあとすぐ寝ちゃったんだね」
あのあと……なんのことかはっきりと思い出せない。
けれども、頭に引っかかる疑問がある。
わたしは目の前の彼女にその疑問を尋ねた。
「わたしは誰?」
彼女はごく自然に答える。
「自分が一番わかってるでしょ?」
そう、言われたときわたしは違和感の正体に気づいた。
ここは、わたしの部屋ではなかった。
わたしは無意識に『わたし』の部屋で寝ていたのだ。
『わたし』は顔をあげてもう一度、影を見た。
「ね? もう自分が誰だかわかったでしょ?」
お わ り
最終更新:2011年01月13日 21:48