どうしてあんな提案を受け入れてしまったのだろう。
あんなことをしなければ――あんなことをしなければ、こんな気持ちにはならなかったのに。
なんとなくで、お姉ちゃんの提案を受け入れたせいで。

わたしはひたすら不安に苛まれる羽目になった。



唯「憂? どうしたの?」

憂「ううん、なんでもないよ」

酷い顔をしていたのかもしれない。
けれどもわたしは、お姉ちゃんに心配をかけたくなくて首をふった。

唯「本当に? 憂の顔色、すごく悪いよ」

憂「そうかな?」

わたしはとぼける。
わたしと同じ顔が不安げに覗きこむ。

けれども、わたしの意図を汲み取ったのだろう。

唯「体調が悪いようだったら言ってね」

そう言ってわたしから顔を離した。
わたしは安堵から溜息をついて、ありがとうと一言だけ返した。
今のわたしはお姉ちゃんといっしょにいると不安になるのだ。
得体の知れない不安が沸き上がって、足許が沈むような感覚に陥ってしまう。

それもこれもあの出来事が原因だった。



純「なんか憂ってば体調悪い?」

ある日の昼休みに純ちゃんにそう言われた。

憂「どうして? 体調が悪いように見える?」

純「うん、なんとなくね」

そうかもしれない。
ただし、これは身体の問題じゃない。
これは心の問題だ。

憂「純ちゃん。少し聞いてほしい話があるんだけどいい?」

純「憂の話なら頼まれなくても聞いてあげるよ」

普段なら梓ちゃんも一緒にお昼ご飯を食べるが、今日は欠席していた。
純ちゃんがわたしの正面に座りつつ、自分のお弁当を広げる。

純「それで話ってなに?」

憂「あの……純ちゃんはわたしとお姉ちゃんが似てると思う?」

純「思う」

即答だった。

純「同じ髪型されたら、たぶんまず間違いなく気づけないと思う」

憂「そうなのかな……」

純「唯先輩と似てるのがイヤなの?」

憂「そうじゃないんだ。そうじゃないよ。
  わたしとお姉ちゃんが似てることは今に始まったことじゃないしね
  むしろ、お姉ちゃんのことは好きだから……」

純「じゃあいいんじゃないの?
  似てることに不満は全然ないんでしょ?」

憂「似てることにはね。でもわたしが厭なのは……」

声が上手に出せない。
浜辺に打ち上げられた魚のように、口を何度か開閉させてようやくわたしは言った。

憂「だんだん自分がわからなくなってくること」

純「……どういうこと?」

憂「……二ヶ月前にね。久々にお父さんとお母さんが帰ってきたの」

純「憂のとこの両親はよく海外に行くんだっけ?」

憂「仕事の関係でお父さんがね。お母さんはお父さんについていってるんだけど。
  二ヶ月前。久々に帰ってくることになったからわたしとお姉ちゃんで色々と準備してたの。
  スーパーに行って料理のための食材買ってきたりだとか」

純「それで?」

憂「お姉ちゃんがね、サプライズをしようよ、って提案したんだ」

この時、わたしがこの提案を却下していたらどうなったのだろうか。
こんな考えに意味なんてないことはわかってた。
それでもせずにはいられないのだ。

憂「わたしはいいよって賛成したの。この時はまだ面白そうぐらいにしか思ってなかったし。
  お姉ちゃんが喜んでくれたからそれでいいと思った」

純「サプライズって、なにをしたの?」

憂「わたしがお姉ちゃんに変装して。
  お姉ちゃんがわたしに変装したの」

そう。本当に些細なことだった。
久しぶりに家に帰ってくるお父さんとお母さんを、驚かせようとしたお姉ちゃんのささやかな提案。

唯「だからさ、わたしが憂のふりするから、憂はわたしのふりしてよ」

憂「いいよ。でも……」

唯「なに?」

憂「いつまで続けてみるの?」

唯「お父さんとお母さんが気づくまでしようよ」

すぐ気づかれそうだね。
そう思ったけど、あえてわたしは口にはしなかった。
久々にお父さんとお母さんが帰ってくるのが嬉しいのだろう。
お姉ちゃんはニコニコしていた。わたしも同じような表情をしていたと思う。

それからわたしたちは料理や掃除などをしつつ、変装するにあたっての注意を話し合った。
お姉ちゃんは真剣な顔をしていたけど、正直わたしはそこまで乗り気ではなかった。

理由は自分でもわからなかったけど、心の奥底でなにかが引っ掛かっていた。

母からメールが来たのは正午を過ぎたあたりだった。
あと三十分もしないうちに帰る。
メールの内容はそんな感じだった。


憂「もうすぐお父さんたち帰ってくるって」

唯「おぉ! じゃあさっそく変装しなきゃね」

お姉ちゃんが嬉しそうに自分のヘアピンをわたしに渡す。

憂「嬉しそうだね」

唯「だって二ヶ月ぶりだよ。憂だって嬉しいでしょ、お父さんとお母さんが帰ってくるの」

憂「もちろんだよ」


そんな会話をした後、わたしたちは変装を開始した。
変装にはそれほど時間はかからなかった。
そして、わたしはお姉ちゃんになり、お姉ちゃんはわたしに見事に変装した。

よくわたしたち姉妹は似ていると言われる。
わたし自身もお姉ちゃんに似ていると思う。
お姉ちゃんもわたしに似ていると自覚している。
それこそ入れ替わりができるくらいには。

唯「よーし、これで完璧に憂になったよ」

わたしの姿をしたお姉ちゃんが姿見の前でポーズをとる。
改めてわたしとお姉ちゃんが似ていると思った。
でも――酷似しているからと言っても、やはり違いはある。
眉の形とか胸の大きさとか、身長とか。

唯「どうかしたの、憂?」

憂「ううん、なんにもだよ。それよりもうすぐお母さんたち帰ってくるし、準備しよ」

わたしは笑ってそう言った。
お姉ちゃんの姿で、お姉ちゃんのように笑えていたと思う。

両親が帰ってきたのはそれから二十分ほど経過してからだった。

 「ただいま」

久しぶりに見た両親は二ヶ月前とそう変化はなかった。
わたしは一瞬両親の荷物を持とうとして、すぐに前もってしていたお姉ちゃんとの打ち合わせを思い出した。


唯『やっぱり憂に変装したんだから、憂になりきらなきゃね。
  もちろん憂もわたしになりきってよ』


今、わたしはお姉ちゃんなんだから……そこまで考えていたわたしの横をお姉ちゃんが横切る。

唯『お帰りなさい。お父さん、お母さん』

思わずわたしは声をあげそうになった。
予想以上にお姉ちゃんの喋り方がわたしにそっくりだったからだ。
わたしたちが似ているのは容姿だけじゃない。
声も意識すればそれなりに似せることができるけど、それでもここまで似ているとは思わなかった。

 「久しぶり。ただいま」

お父さんがそう言ってわたしを見る。

 「唯」

続いてお姉ちゃんを見て、

 「憂」

と言った。

わたしの予想は結果として外れた。
あっさりしすぎなくらい、簡単にお父さんを騙すことができてしまった。
悪戯は成功した。なのにわたしは素直に喜べなかった。

わたしはさりげなさを装ってお母さんの顔を盗み見た。
お母さんもわたしたちが入れ代わっていることに気づいてはいないようだった。

唯「ほら、お姉ちゃん。お父さんとお母さんの荷物を運ぶの手伝わなきゃ」

わたしが――いや、わたしに変装したお姉ちゃんはわたしにそう言って嬉しそうに笑った。

憂「……そうだね」

知らないうちに渇いてしまっていた口の中で、わたしの舌は歯切れの悪い返事をすることしかできなかった。

純「つまり。お父さんもお母さんも二人が入れ替わってたことに気づかなかったんだ」

憂「うん、全くね。正直驚いちゃった。お父さんとお母さんなら絶対に気づいてくれると思ったのに」

純「いや、でもさ。二人の演技が完璧すぎただけかもしれないよ?」

憂「……そうだったのかな。
  たしかにね、わたしとお姉ちゃんの演技はなかなかのものだったと思う。
  お姉ちゃんがわたしのふりしてるときね、やっぱりどこかどんくさかったの。
  でもお姉ちゃん以上にわたしがドジなふりしたりして結局バレなかった」

わたしたちの演技がよかったのか。
あるいは両親がわたしたちの区別をつけることができないぐらい、無関心だったのか。
いや、単なるわたしの考えすぎなのかもしれない。

純「唯先輩はなんて言ってたの?」

憂「企画大成功、そう言って喜んでた」

でもわたしは全然嬉しくなかった。
お姉ちゃんが笑ってても、全然嬉しくなんてなかった。

結局両親はついに最後まで気づかなかった。

 「今日はよく唯が働くなあ」

お父さんは感心したようにそう言った。
唯――つまり、わたしは食べ終わった食器を洗っていた。
わたしはお姉ちゃんなんだから、たまには憂のように働く。
そう言って、わたしは食器洗いを始めたけど両親はなんの違和も感じなかったらしい。

唯「お姉ちゃん、ありがとうね」

いかにもわたしが言いそうな台詞をお姉ちゃんは口にした。

憂「いいよ、たまには働かなきゃね」

そう返答したが、胸の内側にこびりついた不快感は消えてはくれなかった。

両親はやっぱり特になにも気づいていない。
お父さんもお母さんも、久々の日本の番組についてあれこれと話をしているだけだった。


唯「お父さんとお母さん、気づかなかったね」

わたしの部屋に入ってからのお姉ちゃんの第一声がそれだった。

憂「そうだね」

唯「わたしと憂、すごいよ。お父さんとお母さんもあざむいちゃったんだよ」

憂「……お姉ちゃん」

唯「どうしたの、憂? なんだか元気ないよ?」

憂「その、ごめん。今日はなんだか疲れちゃったみたい。お姉ちゃんを演じるのに疲れちゃったみたい」

唯「わたしは楽しかったけどなあ」

わたしはそれ以上、お姉ちゃんを見ているのが辛くてベッドに突っ伏した。

唯「じゃ、また明日ね。おやすみ」

憂「おやすみなさい」

お姉ちゃんが視界に入るのがなぜか厭だった。
未だにわたしの姿をしたお姉ちゃんを見るのが。

純「まあ、気持ちはわからないでもないかな。親ぐらいには区別ついてほしいよね」

憂「……」

純「でもなんで今さら二ヶ月前の話を?」

純ちゃんが至極不思議そうな顔をした。

憂「わたしが悩んでることはこのことじゃないの」

純「……?
  なにか他にもあるってこと?
  親御さんのことでなにかあったの?」

憂「ううん。お父さんとお母さんは関係ないの」

わたしの口はそこから先の台詞を吐き出すことができなかった。
言葉は喉の粘膜に張り付いてしまっていた。
――きっかけにはなったものそれ自体は、わたしが今抱いている悩みに比べたら本当に些細なものにすぎない。

憂「わたしが悩んでるのはお姉ちゃんとのこと」

純「憂のお姉ちゃんとのこと?」

わたしは言った。



憂「お姉ちゃんがわたしになるようになった」


……

わたしとお姉ちゃんがそれぞれ互いの姿に変装し、両親を騙すことに成功した。

そんな次の日の朝。

なにかの気配を感じてわたしは眠りから覚めた。
重い瞼を持ち上げた先には。











わたしがいた。


憂「……っ!」

反射的に身体を起こしてしまった。
自分の目が零れ落ちそうなぐらいに見開かれたのがわかる。
顔の血が音もなく失せていくのを感じた。
わたしの目の前にわたしがいる――あまりにも奇妙で不気味な状況だった。

 「うーいー、驚きすぎだよ」

その声を聞いてわたしはようやく理解する。

憂「……お姉ちゃんかあ。びっくりしたよ、もう」

唯「えへへ、ゴメンゴメン」

お姉ちゃんはわたしの髪型をして、わたしの服を着ていた。
寝起きということもあってか、そのことにすぐ気づくことができなかったわたしは顔を赤くした。

唯「ところで憂は今が何時かわかるかな?」

お姉ちゃんが得意げな顔をする。
枕元に置いていた目覚まし時計を確認して、わたしは寝起きのときほどではないにしろ、またもや驚いた。

時計の針は八時手前を指していた。
普段のお姉ちゃんなら、休日のこの時間帯は間違いなくベッドで眠っている時間帯だった。

憂「お姉ちゃん、起きるの早いね」

唯「だって今日のわたしは憂だもん」

胸の内側になにかが巣くった気がした。
お姉ちゃんがキョトンとする。
自分がどんな顔をしているのかなんとなく理解した。

憂「じゃあ……」

唯「うん?」

憂「わたしは、どうなるの。
  ……わたしは誰になるの?」

唯「決まってるよ」

お姉ちゃんがわたしの目を覗き込む。
お姉ちゃんの瞳の中にはわたしがいるのに、わたしの目の前にはわたしがいた。





唯「憂はわたしになるんだよ」


純「……唯先輩はまた憂に変装してたんだ」

憂「うん。またお姉ちゃんとわたしは入れ代わった。
  でもね、今度はお姉ちゃんがドジしてお父さんとお母さんに入れ代わりはバレたんだけど」

純「バレたの?」

憂「うん、お皿を割って、そこからは簡単にバレちゃった」

純「へえ。お父さんもお母さんも、さすがに気づくんだ」

憂「うん。でも……」

純「でも?」

わたしは視線を下ろした。

憂「今だからこそ思うけど、バレないほうがよかった」


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