寒さに包まれた12月の中旬。
乾いた雪が点々と地面を覆い隠していく、そんな人気のない道路の真ん中で、

「……梓ちゃん、きらい」

 憂はそう呟いた。


私は、そんなふうに隣で拗ねる憂の手に、そっと自分の手を滑り込ませる。
憂は拒んだりはしないけど、それでも膨らませた頬は戻らない。
赤と白の、色違いの綿毛の手袋を二枚重ねても暖かさは伝わって、
でもそれくらいじゃ憂は言ってはくれない。

「……梓ちゃん、分かってるくせに」

「だめ」

容赦ない私はそれでも憂を許してあげなくて、真っ赤になって俯く横顔をじっと眺めた。


耳まで淡い紅色に染められているのは、きっと寒さだけのせいじゃない。
お魚マフラーの下に隠された首元も、きっと同じになっている。

いつもよりずっと小さく見える、そんな憂の声がどうしようもなく聞きたくて
私は握った憂の手をコートのポケットに引き入れた。

「……きらい」

「うそつき」

次第に憂のその声は小さくなって、もう唇がその言葉をなぞるだけ。

「うそつき」

でも私は、相変わらず同じ言葉を返し続ける。

「ねぇ憂……言ってよ」

少しだけ意地が悪いそんな私は、憂のことが好きで好きでどうしようもなかった。

 私たちはたぶん、そういう関係。

口で言ったことは一度もないけれど、憂だってきっとわたしと同じ気持ち。

端からは気付かれないように。
私たちはただの友達に見えるように振舞うけれど、手を触れるだけで、視線を重ねるだけでたしかに伝わる。

みんなの前では言えないから、私たちは口を噤む。

それを恥ずかしいって理由の言い訳にするのも、私たちだけの秘密。


キスをしたのは一度だけ。

あの時は、確か憂から手を握ってくれたんだ。


──
────

頬を冷やす肌寒い風が吹き始めた11月。
もう放課後のころには日が暮れかけてくる。

哀愁を漂わせる廊下と階段で私たちが交わしていた他愛もない会話は、次第に静寂へと変わっていった。
扉の前に立つ私が、言われるわけでもなくその取っ手を捻り、開けた。

「……勉強、する?」

何故だか夕日に見惚れてしまっていると、憂が尋ねてきた。
横を向くとどうやら憂も同じだったようで、やる気が削がれてしまったような、そんな顔で苦笑いをしていた。
憂に見られた私の顔は、恥ずかしいほどに間抜けだったかもしれない。

「……なんだかやる気でないや」

「はは、私も」

「今日は、いっか」

「そうだね」

そんな会話を交わしたのが、たぶんさっきのこと。



淡い夕焼けが窓から挿し込み、いつの日かティーカップが五つ並んでいた机を照らしている。

部室には、私と憂の二人だけ。

隣同士ソファに座って、何時からこうだったかは思い出せない。
たしか、純は用事があるって先に帰って私たちは二人で部室へやってきた。

……

いつの間にか三年生。
部活も終わって、受験生の私たちは軽音部の部室で勉強を始めた。

純のおかげでまともに勉強できるか心配だったけれど、思いのほか三人での勉強ははかどった。

「憂~お茶飲みたい~」
「うん、今いれるね」
「まだ勉強中だからいいよ憂」
「なによ梓、文句あんの」
「純が一番勉強しなくちゃいけないでしょ」
「ちょっとふたりとも~」

こんな会話は毎日のように。

口ではきつい言葉を言うけれど、純が憂に甘える度に気が気ではなかったけれど、
それでもこんな会話は私たちらしいななんて、楽しかった。

その頃もわたしたちの言葉に出せない関係は続いていて、口にしなくても手を繋ぐことだって出来た。

「あーずさちゃん」

「ん……?」

「……えへへ」

その度に憂は笑ってくれて、素直じゃないわたしの顔も綻ばせてくれた。

そしてその度に、憂のことがもっと好きになる。
それは今でも同じ。

絶対に解けないはずの、憂へと絡みついたわたしの糸を憂は更に固く結びつける。

深みに嵌って抜け出せなくなるような感覚も心地良いだけ。
だって、憂のことが好きになるんだ。
嫌がることなんて何一つない。

直接は言えないけれど、そんな気持ちが伝わってくれたら、とわたしも憂の名前を呼び返す。

……

「もうすぐ12月だね」

静けさが続いていた空気の中、憂が小さく声に出した。

「うん」

「そしたら、きっとあっという間に冬休みだよ」

「うん、きっとね」

隣に座って、顔は見ていないけれど憂が窓を見ているのが分かった。
乾いた空気は、憂の透き通った声を更に響かせる。

「どうしよっか」

えっ、と言ってしまいそうになってどうにか留まった。
声を向けられたのは私なのに、部屋にはあとわたししかいないのに、すぐに返事を返せなかった。

なんだか、とっても嬉しかったから。

「……どうするって?」

やっと言葉を発せたときには、手のひらに汗が滲んでいて、情けない自分が少し恥ずかしくなる。

「だから、冬休み」

「えっと……」

必死に頭をまわして憂が喜んでくれそうな答えを見つけようとするけれど、焦りに焦るわたしの脳は案の定空回りする。
憂に見られてる気さえして、無駄な緊張が余計にわたしを煽った。

そして、なんとかひねり出せた返答は、

「う、憂と一緒にいる!」

そんな、さっきの自分よりずっと恥ずかしい台詞。

「……」

「……ご、ごめん」

訪れた沈黙に耐えきれなくなって、思わず謝ってしまった。
わたしはだめだなぁなんて思いながら、ちらりと傍らの憂を見やる。

「……えへへ」

でも憂ときたら、本当に嬉しそうな顔で笑っていて、わたしは一瞬だけさっきの言葉を忘れることができた。

後ろから日に照らされる憂は、それでも太陽なんかよりずっと眩しい。

その陰を通るようにカラスが一羽窓の外を飛んでいたけれど、わたしの意識には入らない。

「梓ちゃん」

柔らかい顔のまま、憂がわたしの手を取った。

もうそれなりに寒いはずなのに憂の手は温かくて、強張ったわたしの体まで溶かしていく。

持て余した右の手のひらは、わたしの左手を包む憂の手に重ねた。
そうすると憂は、その手を引きぬいて今度は私の両手を包む。

「……目、閉じて」

「……うん」

折り畳まれていく瞼の外に、近づいてくる憂が見えたけれど、両手を塞がれたわたしには関係がなかった。

熱かった。

信じられないくらい高鳴っていた心臓の音はいつの間にか聞こえなくなって、唇の感触だけが頭に響く。

目を閉じたままの浮遊感が、夢じゃないのかな、なんてわたしに錯覚させた。

でも確かに、柔らかい感触が伝わるから。
地に足がつかない私の意識でも大丈夫。

目を開けて、すぐ前の憂を見たかったけれど、視線が合ってしまいそうで我慢した。


そんなどうでもいい考えだけが頭を巡る。

時間はもう、分からない。

ただ感じるのは、表しきれないような幸福感だけ。


そうして、いつ離れたのかも分からない。

でも憂は、また同じ笑顔で見せてくれていた。

わたしには返す顔がなかったから、唇を今度はその白い頬にあてた。

──
────

それが、ひと月前。

あの時のことは、まるで幻だったかのように胸に秘めてそのまま。
あれ以来あったことといえば前のように手を繋いだことくらいで、わたしも少し不安になってしまう。
だって、憂はまるでなかったことのように振る舞うから。

でも憂に尋ねるのも恥ずかしさから憚られて、私は悶々とした生活を送っていた。

勉強に身を入れようとしても、少しあの記憶が頭をよぎるとあっという間に気が抜ける。


自分だけが振り回されているような気がして、魂が抜けるようなため息がその度に漏れてしまう。


わたしにはあまり有意義とは言えなかったそんな2学期の後半も、今日でおしまい。

いよいよ明日からは冬休み。
遊びに精を出せるといえばそんなわけはなくて、一応受験生であるわたしたちはそれなりに勉強しなくてはいけない時期だ。

そんな雪の日の帰り道、どちらが言うまでもなくわたしたちはふたりで歩いていた。

「……寒いー……」

「ね」

わたしの独り言にも、相変わらず優しい憂は返してくれる。
マフラーの前で組まれる憂の手には、ふたりで買った色違いの手袋。

「……もう2学期終わっちゃったね」

どこか切なそうに呟く憂の横顔。

でもわたしはそんなことを気にする余裕もなくて、ここぞとばかりにようやく勇気を出して言った。

「で、でも、冬休み……だよ?」

震える口調のその言葉で、あの日のことを確かめたかった。

まさか嘘だったら。
わたしは悲しくて泣いてしまう。

そんな思いがずっと胸にあったから、憂に聞いて確かめたかった。

「そうだね」

でも憂は、相変わらずの落ち着いた口調で返してそのままだった。
ゆっくり進む足は止まらないで、僅かに白む道路に跡を付けていく。

わたしたちだから口には出せなかったのかもしれないけれど、そんなの気にしてほしくなかった。
なんなら直接言ってくれたってわたしは構わないのに。

とにかく、このままなんて嫌だ。
明日からは冬休みなんだ。
もう周りを気にしなくたっていいんだ。

「……憂」

それに、もっと憂と想いを確かめ合いたい。
手を繋ぐだけなんて、口づけを交わしたこの体では寂しすぎるから。

言わなくても伝わる関係。
そんなものではもう我慢出来ない。

「なぁに?」

憂に、ちゃんと言いたかった。
憂から、ちゃんと言ってほしかった。

「わたしのこと、好き?」

憂が足を止めた。
置いていかないように、わたしも立ち止まる。

「……」

横目で憂を見ると、少しだけ俯いて見えた。

憂はずっと答えないで、わたしたちの肩を舞い降る雪が覆い隠す。

わたしが尋ねてから過ぎた時間は少しだったかもしれないけれど、わたしはまた憂の名前を呼ぶ。

「……憂?」

振り向くと、憂の顔は真っ赤だった。
いつも漂わせているふわふわしたような雰囲気は残っていたけれど、見たこともないくらい、普通ではなかった。
憂はさらに俯いて、次第に足元しか見なくなる。

静かなその場所で、わたしが聞いたのはただ雪の音。

「どうして、そんなこと聞くの」

やっと口を開いた時には、その声はまるでいじけた独り言のようだった。


そんな憂を見ていたわたしの恥ずかしさはもうとっくになくなっていて、今度はしっかりとした声で返す。

「憂のこと、好きだから」

「っ!」

初めて言えたその言葉は、自分でも驚くほどきれいに口から出た。

今度こそ憂は何も言えなくなってしまったようで、拗ねたようにわたしを睨んだ。
変わらず真っ赤なままの顔は、わたしには全然怖いなんてことなかった。

「憂は?」

「……梓ちゃん、きらい」

開き直ったように言う憂は、また下を見つめている。

きらい、なんて言われてもそんなのは今更堪えない。
今までのわたしたちはそんな言葉で崩せるほどの関係じゃない。

「うそつき」

手袋をしていたけれど、憂がスカートを抑える手のひらが寒そうに見えたから、わたしはその手を取る。

「……梓ちゃん、分かってるくせに」

なかなか強情な憂は、それでも言ってくれなかった。

「だめ」

端から見たら、わたしが憂をいじめてるように見えるかもしれない。
でも、憂が言わないのがいけないんだ。

握った手を、そのまま今度はコートの中に入れた。

「……きらい」

「うそつき」

半分マフラーに隠された口元がもぞもぞと動く。
きっとまたきらいって言っているのだろう。

「うそつき」

そんないじらしい憂が、愛おしくてたまらない。

「ねぇ憂……言ってよ」

寒さに動かしにくくなった唇でも、憂に向かってはしっかりと話せた。

「梓ちゃん、ずるい」

「だって憂にも言ってほしいもん」

「……ずるいよ」

勝手に自分だけ、と呟いて、憂は再び口を噤んだ。

その後も何か喋っていたのかもしれないけど、わたしの耳には届かなかった。

「……も、もうっ」

わたしにとりあえず何か仕返しでもしようと思ったのか、コートの中の手が少し強く握られた。
でもわたしは、それに負けないくらいの力で握り返す。

「す、好きだよっ!好き!だから梓ちゃんだってもっと……ひゃっ」

憂はまだ言っている途中だったけれど、堪え切れなくて握っていない左手で憂を引き寄せた。

火照るくらい温かい憂の体を、右手も離して抱きしめる。

でも目を合わせるのは恥ずかしいから、耳元でそっと呟いた。

「好き。憂のこと、大好きだよ」

甘い香りがした。
この匂いは、ずっと隣で嗅いできた香り。

「……っ、ばか……」

「憂だって」

乾いた空気でも、その匂いはわたしを緊張させた。

胸が熱くなる感覚に襲われる。
ずっとわたしを悩ませてきたどうでもいい煩悶は、もうどこにもなくなっている。

もう一度、憂に伝える。
でも恥ずかしいから、耳元で。

「好き」

「……わ、わたしだって」

憂もわたしを抱き返す。
普段と違うわたしの態度に、半ばやけになっているようにもみえた。

でも、構わない。
憂の中には、確かにわたしがいるんだから。


──雪の中でわたしたちが交わしたのは、二回目のキス。

二回目も、憂からしてくれた。

寒空の下でも、唇には熱い感触が響く。

憂も、きっと同じ感覚。

宙に浮くような、どこかに落ちて行くような、そんな感覚。

わたしよりも恥ずかしがり屋かもしれない憂は嘘をついた。

でも、好きって言ってくれたんだ。

もう不安になったりはしない。

でもまだ足りないから、もっと強く抱きしめる。

降り積もる雪は、わたしたちに触れた分だけとけていく。

誰もいない冬の道では、わたしたち二人は隠せない。



 おしまい。



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