「え…?」
「やっぱり、だめ、かな…。」
「…。」
練習が終わったあと、忘れ物に気付いて教室に戻ってきた。
置き勉なんてするからこうなるんだと澪の小言を右から左に流しながら、私は走った。
教科書を鞄にしまっていると、ガラリと引き戸の開く音がした。
振り向くとそこにはムギがいて、真剣な顔で私にこう言った。
「りっちゃん、私…りっちゃんのことが好き。」
にぶい私でもこれには流石にピンときて。
何言ってんだよと笑い飛ばすことすらできずにただ佇んでいた。
「だからね、その…付き合って、欲しいな、って…。」
そうして冒頭。
間抜けな声を発しながらムギを見る。
消え入りそうな声。
ムギは今にも泣きそうだ。
私だって、結構困った顔をしているはずだ。
だけど、夕日の逆光で私の顔はちゃんと見えないんだろうな。
きっとそれがムギをさらに不安にさせているんだ。
だから私はムギに近づいた。
私を好きというムギを気持ち悪いとは思わなかった。
不安を感じているなら安心させてやらないと。
私はそのことで頭がいっぱいだった。
「ムギ…。」
どうしていいのかわからなくなって、
どう言ってあげたらいいのかわからなくなって、
その場しのぎでムギの頭に手を伸ばした。
ドンッと音がして。
視界にいたはずのムギが見えなくなった。
だけど、その姿は探すまでも無い。
「…お、おい、ビックリしただろ?」
ムギは私に勢い良く抱きついていた。
元々は頭を撫でるために伸ばした手が、
行き場をなくしてムギを抱き締め返す。
「ありがとうな。」
こんなことしか言ってやれない私はきっとバカだ。
こんなことしか言ってやれない私を好きになったムギはきっともっとバカだ。
「ごめんね…変なこと言って…。」
「変なことか、確かにな。」
そう言って私は誤魔化すように笑った。
「こんなこと急に、迷惑でしょう?」
「迷惑なんかじゃ、ない。ただ、ちょっとビックリしてる。」
「…。」
「時間をくれないか。」
「え…?」
「考えさせて欲しい。」
考えさせて欲しい、なんてよく言ったもんだ。
残酷な現実を先延ばしにしているだけじゃないか。
傷つけたくないんだ。
傷つきたくないから。
そんな私の気持ちには気付かず、ムギは私の胸で泣き続けた。
「ありがとう…、私、嫌われちゃったら…どうしようかと、思って…。」
途切れ途切れ、喋るのもやっとといった様子で
不安を吐露するムギを少し可愛いな、と思ったものの
これはそういう気持ちではないと妙に冷めたもう一人の自分が耳元で囁く。
返事を先延ばしにされるのも想定内だったのか、
とりあえずは最悪の事態は免れたと安堵しているみたいだ。
「心外だな。」
思ったままを口にした。
「え?」
「嫌いになんて、なるわけない。」
「でも…。」
「それとこれとは話が別。とにかく、ムギを嫌いになったりはしない。」
「そう…ありがとう。」
「お礼言うところじゃないぞー?」
ムギの頭を軽く小突く。
何故か嬉しそうな表情を浮かべて、一呼吸置いてから。
「ありがとう、りっちゃん。」
ムギはまた私にお礼を言った。
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それから数日が経った。
ムギへの返事は、まだだった。
どうしていいのかわからない。
酷い話だけど、最初は断り方を考えていたんだ。
だけど、なぜ断らなければいけないか、その理由を考えれば考えるほどわからなくなっていった。
考えていく内に、ムギと付き合うということに私は何も抵抗を感じなくなっていく。
でも、ムギのことが好きなわけじゃないんだ。
要するに、付き合うってことが具体的にどういうことなのかが私にはわからないんだと思う。
澪に相談…はしなかった。
ムギはきっとずっと一人で悩んで、一人で考えて、一人で決めたんだ。
あの告白からそれは容易に想像できた。
私も同じようにしたい。
単純だけど、そう思ったんだ。
「……。」
こんな時期に屋上に一人、ただの不審者だな。
寒さに震えながらそんなことを考える。
「りーっちゃん!」
「のわぁ!?」
「えへへ、ビックリした?」
「…心臓止まるかと思ったぞ。」
声の主はムギだった。
これまたすごいタイミングでお出ましだ。
「ねぇ、りっちゃん。何してたの?」
「うーん、考え事。」
「そうなんだ。何を考えていたの?」
「お前のこと。」
「……!」
なんちゃって、そう言って誤魔化そうと思ったのに。
あんまりムギが嬉しそうにするもんだから私はその言葉を飲み込んだ。
その表情が無性に可愛かったからかな。
この先の人生、いつ振り返っても今の私の気持ちをズバリ言い当てることは出来ないだろう。
今まで迷ってたのが嘘みたいに。
霧が晴れるように。
「あのさ、ムギ。付き合って…みないか?」
私は提案した。
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「ねぇ、りっちゃん。今度の日曜日、買い物に行かない?」
「はは。ムギ、今日が何曜日か知ってるか?」
「えっと、土曜日かしら。」
「今度の日曜日って明日だぞ。」
あはは、と笑い合う。
あれから私たちは『一応』恋人同士だ。
私はまだムギのことが好きじゃないけど、付き合っている。
どれだけ考えても結論が出なかったから。
二人で話をしてこういう形に落ち着いた。
-私は、ムギのことが好きだけどまだ好きじゃない
-…
-ごめん、意味わからないよな
-ううん、わかるわ
-…私な、考えたんだ。人を好きになるってどういうことか
-うん
-だけどな、まだわからないんだ
-そっか…
-だから、私に…教えてくれないか?
-え…?
-だからさ…
簡単に言ってしまうと所謂『お試し期間』。
だけど、合わなければすぐにポイッな関係になりたかったわけじゃない。
好きじゃないから本当の意味では付き合えないかもしれない。
だけど、できることなら気持ちに応えたい。
その上で二人で導き出した道なんだ。
私は本気だぜ。
今まで気付かなかったムギのいいところや知らなかったことにたくさん気付きたい。
一つでも多く見つけて、少しでも好きになりたい。
ムギには申し訳なかったけど、
『その気持ちが嬉しい』とこの関係を快諾してくれた。
その時の笑顔を見て、ちょっぴりムギを可愛く思ったのは内緒。
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ある日の部室。
ティータイムの和やかな雰囲気の中で澪が口を開いた。
「なぁ、これ。」
そう言って机の上にチラシを置く。
私達はそれを見て固まる。
「澪、これ…。」
「ガールズバンドしばりのライブイベントだ。出てみないか?」
耳を疑った。
私たちは三年生、つまり受験生だ。
唯や私ならともかく…。
まさか澪が率先してこんなことを言い出すなんて思ってもみなかった。
「でも、これ…思いっきり受験シーズンじゃないか。二ヶ月後って…。」
「あぁ。でも持ち時間も少なめだし。新曲じゃなくて今までやった曲の中から選んで出ればいいと思って。」
確かに。
転換込みで30分っていう短めの持ち時間も今回ばかりは有り難い。
「あぁ、私このイベント知ってますよ。」
「へ?なんでだ?」
「純が前にこのフライヤー持ってきてくれたんですよ。HTTで出たら?って。」
「そうなの?初耳だよ。」
「だって受験勉強忙しそうでしたし…。」
「そうだったのか。」
「はい。だから、澪先輩が言い出してくれてすごく、その、嬉しいです…。みなさんはどうですか?」
「……。」
賑やかだった部室が急に静かになる。
唯は、言うまでもなくやる気だろう。
なんの曲がいいかなーなんて言いながらやりたい曲を指折り数えている。
ムギを見る。
イタズラを思いついた子供のような表情をしている。
よし、決まり。
「やろうぜ。」
久しぶりに私達はバンドという形で話し合いをした。
選曲はあれがいいとか、それだとこの曲とノリが被るとか。
セットリストはこうしようとか、MCに澪も挑戦してみれば?とか。
もちろん速攻で断られたけど。
そんなやりとりすらも久々で、私達は笑い合った。
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私とムギの関係はあの日からあまり変わっていない。
たくさんの時間をムギと過ごした。
だけど未だに私の気持ちは変わらないままだった。
日を増すごとにどんどんと焦りを感じていた。
いつまで待たせるんだって、自分に苛立つ夜は増えていった。
「ねぇ、りっちゃん。」
「どうした?」
「明日、お買い物に行かない?」
ムギは『お買い物』が好きだ。
月に数回は必ず行っている。
でも大抵は何も買わずに二人で街をぶらぶらしておしまい。
こんなことを何度も繰り返して、ムギは楽しいのかな。
もしかしたら私が何かアクションを起こすことを期待しているのかも知れないとも考えた。
だけど結局、何も思いつかなかった。
「あぁ、いいぜ。どこいく?」
「いつものところでいいわ。」
いつものところ、駅前のことな。
「あぁ、わかった。何時にする?」
「いつもの時間でいいわ。」
いつもの時間、これは朝の11時。
ちょっと街をぶらついて、一緒に昼食をとってまたぶらぶら。
それが私達のデートの『いつもの』。
果たしてこれはデートと呼んでいいのか、それはわからない。
だけどムギはなんだかんだで楽しそうだし、今はとりあえずそれでいいのかなと思っている。
そう、今日は大切な話があるんだった。
「なぁ、ムギ。ちょっと聞いて欲しい話があるんだ。」
「どうしたの?」
首を傾げるムギはいつ見てもやっぱ可愛い。
「軽音部のメンバーにな…。」
「う、うん…?」
「私達のこと、話したんだ。」
怒るかな。
怒るよな。
ごめん。
「それは…どうして?」
「昨日、ムギは練習来れなかっただろ?」
「えぇ。家の用事で…。」
「い、いやそれはいいんだよ!えっと、そのときに…澪に聞かれちゃってさ。」
「聞かれたって、何を?」
焦っているような、泣き出しそうな、そんな様子で私を急かす。
そりゃ、そうだよな。怖いよな、ごめん。
「お前ら最近なんか変だ、って。だから、実は付き合ってるって言った。」
「……。」
「む、むぎ…?」
「どうして…?」
「え?」
「どうして、言っちゃったの…?」
やはり私はまずいことをしたらしい。
「ごめん。澪達に、隠し事したくなくて…。」
「……。」
「…ごめんな。」
「……。」
ムギは何も言わなかった。
普段、私は人を怒らせるとヤバいと感じる。
だからなんとか取り繕ってその場をしのごうとする。
だけど今は違った。
怖かった。
勝手なことをしたせいで、ムギに嫌われてしまったら…?
そんな風に考えると、無性に怖くなって私も何も言えなくなった。
「……。」
「……。」
なんでだろうな。
これが澪や唯、他の親しい人達だったら…
ごめんって!なんて言って、半ば強引に許しを乞えるのに。
なんで、こんなに臆病になっているんだ。
ムギが私を好きだと言ったから?
なんか違う気がする。
「ねぇ、りっちゃん。」
思考がまとまる前にムギは私の名前を呼んだ。
「な、なに?」
かっこ悪ぃ。
どもってしまった。
「澪ちゃん達は、なんて?」
今にも泣き出しそうだ。
あぁ、そうか。
ムギは知らないのか、この話の結末を。
だからこんなにも不安そうなんだな。
「別に、知らなかったってビックリしてたよ。」
「それだけ?」
「いんや。」
「……。」
私を見つめるその視線が少し痛い。
続きを聞きたいんだろう、だけど怖いから聞きたくないんだろう。
私は構わず続ける。
早くこの話をして安心させてやりたいから。
「あとな、怒られた。」
「え?」
「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ、って。すげー怒られた。」
「…!」
「唯と梓はおめでとうって言ってくれた。」
「そ、そう…なんだ…。」
すごく、嬉しそうだった。
信じられないといった様子で口元を両手で隠しながら、今度は嬉し泣きしそうだ。
問題は私だ。
この件に関して大きな罪悪感を抱いている。
それはムギのいないところで勝手に話をしてしまったということだけではなくて。
まだムギのことを「そういう意味で」好きになってはいないのに。
隠し事をしたくないという私の我侭を押し通して、
我慢できずに軽はずみに付き合っていることを話してしまった。
それが本当の罪悪感の正体だと思う。
「ムギ?」
「よかった…よかったぁ…!」
嬉しくても悲しくても結局泣くのか、お前は。
急にどうしようもない衝動に駆られてムギを抱きしめた。
ムギはしばらく私の腕の中で泣いていた。
得体の知れない充足感で満たされる。
これはなんだ?
気持ちの正体を探るように私はムギを抱く腕に力を込めた。
だけど結局わからずじまいだった。
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最終更新:2011年01月09日 02:59