日は沈みかけている。
私は蒸し暑い夏の夕暮れ、シャツを汗で少し湿らせながら、走った。
提灯がぶら下げられて、浴衣を着た男女が仲良く歩いている。
それを横目に見て、私は走った。

「あら、純ちゃん」

和さんは、喧騒から少し離れたところにあるベンチに座っていた。
紺色の、目立たない小袖を着ている。

「憂は一緒じゃないの?」

「一緒でしたけど、軽音楽部の人たちとばったり出くわしちゃって」

「ああ、気まずいってわけね」

「和さんこそ、何をしてるんです?」

「んー、はぐれちゃったのよね、みんなと。私方向音痴だから、あまり動きまわらないほうがいいかなって」

私は和さんの隣りに座った。
ベンチからは、屋台の後ろが見えた。
人ごみは同じ場所を流れるばかりで、少し離れたこの小道には、ほとんど人は来ないようだ。

「意外です。方向音痴なんですね」

「そうよ。自分でも驚くくらいにね」

「誰かに電話してみました?」

「してみたけど、繋がらないのよね」

これは、吉兆か。
私は思わずほくそ笑んで、和さんに言った。

「和さん、和さん。私の髪の毛、どう思います?」

「うん?ふわふわね」

「ですよね。何に見えます?」

「あー……こんな犬、みたことあるわ」

私は手を打って、和さんを指さした。

「そう、それです。すばり、プードルですね?」

「いや、ダックスフンドよ」

そう言って、和さんは私の頭を撫でた。
思わず、びくっ、と身を震わせた。

「な、なにしてんですか」

「頭撫でてるの……ほら、おいでポチ」

和さんはニコニコ笑って、自分の腿を叩いた。
そこをじっと見つめていると、吸い込まれるように、顔から突っ込んでしまった。

「いやらしいわね、あなた」

そう言いながら、和さんは私の後頭部を撫でた。
私は体の向きを変えて、横を向いて言った。

「いやらしくないです。和さんの腿のほうがいやらしいです」

「なにいってんの……あなたの足は、あれね、短いわ。やっぱりダックスフンドね」

「そういう意味だったんですか」

少しむっとしたけれど、和さんがずっと頭を撫で続けるから、私は黙っていた。
和さんが楽しそうに言った。

「気持ちいいわね、あなたの髪の毛……ほら」

そう言って、和さんは人差し指で私の首を掻いた。
私は、顔が赤くなるのを感じて、なんとか誤魔化そうとして言った。

「う……わんわん!」

和さんは一瞬呆気に取られて、くすくす笑った。

「ダックスフンドの声はもっと高いわ」

「え、あ、えっと……ふわん!」

和さんはまた私の首を掻く。
もう片方の手では、私の頭を撫で続けている。

「だめ」

「わあん!」

「だめ」

「きゃん!」

「だめ……はっきり言って才能ないわよ、あなた」

そう言って、和さんは大袈裟にため息を付いた。
すっ、と人差し指を私の耳にずらしてくる。
やけに暖かかった。
妙な悲鳴を上げてしまった。

「うまいうまい」

和さんは子供っぽくけらけらと笑って、何度も私の耳を撫でてきた。
私は頬をふくらませて、和さんを見あげた。

「もう無駄ですよ」

「みたいね。不意打ちじゃないとだめなのね」

和さんはふう、とため息をついて、袖に手を突っ込んだ。
取り出したのは、長い煙管だった。

「和さん、それ」

「そ、煙管。売ってあったから買ってみたわ……ダックスも吸ってみる?」

「ダックスって呼ばないでください。遠慮しておきます……不良行為ですよ、それ」

「あら、そう。お堅いわね」

和さんが長い指で、煙管に刻みたばこを詰める。
これまた袖から取り出したライターで火をつけた。
私はそれを、和さんの腿に頭を載せて、じっと見ていた。

けふ、と小さな音がした。

「全然美味しくない。製作者の意図が知れないわ」

「ほうら、私の言ったとおりじゃないですか。そんなの吸うなんて碌でも無いです」

「そんなこと言ってないじゃないの……」

そう言いながら、和さんはまた煙管を吸った。
顔をしかめて、ゆっくりと、口から細い煙を吐いた。

「うん、不味い」

「不味いなら、どうしてわざわざまた吸ったんですか」

和さんは煙管を持ったまま、私をじっと見つめてきた。
空いている手で、私の首を撫でる。

「ちょっとくらいさ……ちょっとくらい、反抗的なところ、無いと頼りないでしょう?」

「よく分かりませんけど」

「そっか。私は……私は、人通りの少ないところでさえ、あなたに膝枕をするのを恥ずかしいと思っちゃうから」

「……よく分かりません」

和さんはくすくす笑って、私の耳をつまんだ。
少し、声が漏れた。
煙管から出る煙が、私たちを無視して高くへ登っていた。

「そう……本当に?」

「……唯先輩は、いつでもどこでも梓に抱きつきますもんね」

「そうよねえ」

和さんは、もう一度煙を吸って、吐いた。
今度は、相変わらず顔をしかめたけれど、スムーズに一連の動作を終えた。

「煙管の煙って、いい匂いですね」

「そうねえ」

私は、和さんの顔に手を伸ばした。
煙管の煙はどこまでも登って行くから、私もそのくらい許されると思った。
けれど、和さんは自分の手を私の手に重ねた。

しばらく、黙り込んだ。
虫がりんりんと鳴いていた。
和さんが、ぼうっと、消えそうな声で言った。

「恋に焦がれて鳴く蝉よりも……続き、知ってる?」

自分に尋ねられていることに気がつかずに、私は黙っていた。
和さんがぎゅっと強く私の手を握ったから、慌てて返事をした。

「あ、えっと……鳴かぬ蛍が身を焦がす?」

「そ、正解。じゃあ……浮名立ちゃ それも困るが世間の人に。続きは?」

分からない。
悔しくて、振り絞るような声で私は言った。

「……わかりません」

「……知らせないのも 惜しい仲」

「秘密だけどバラしたい仲ってことですか」

「そう」

和さんは微笑んで、私の口元に煙管を持ってきた。
街で嗅ぐ紙タバコの臭いより、少し甘い匂いがする。

「秘密、つくりましょうよ」

そう言われて、私は煙管に口をつけた。
煙が口の中に満ちて、飲み込んだとたん、空気が逆流した。
汚い音を立てて咳き込む。

「ね、不味いでしょう?」

声を立てて笑って、和さんはまた私の頭を撫でた。
そのときに、梓と憂に頼み込んで単独行動を取っただけの価値はあった、と思った。
私の頭をだきかかえて、和さんは私を起こした。かたん、と煙管を置く音がした。
すっくと立ち上がって、大人びた笑顔を見せる。

「合流しましょうか」

「方向音痴じゃなかったんですか?」

「流石に、地元でまで迷子にはならないわ」

私は肩をすくめた。和さんは微笑んだ。

「あなただって、嘘をついていたんだから、これでおあいこよ」

こちらを振り向きもせずに歩いて行く和さんのうなじは、少し赤らんでいた。
嬉しくて、私は和さんの後に、走ってついて行った。
振り向くと、煙管の煙がぼんやりと、空を目指して伸びていた。




これで おわり だ!