次の日、澪ちゃんがやってきた。
ボディーラインの目立たないゆったりとした服を着ていた。
まるで将校のような、自信に満ちた笑顔で席に着いた。

「紅茶、淹れるわね」

私がそう言っても、澪ちゃんはにこにこと笑っているだけだった。

「……ほら、アールグレイ。ストレートだと味が濃いんじゃないの?」

私が紅茶を出すと、途端に疲れたような顔になった。

「……このくらい濃くないと、ね」

「濃すぎると思うけどなあ」

いい香りのする紅茶を、口に入れて、澪ちゃんは足を組んだ。
少し釣り上がった目で、こちらをじっと見つめてくる。

「先生は……いえ、大人になるって、大変なんですね」

「あら、どうしたのよ、唐突に」

「いえ、ちょっと聞いてくださいよ……」

どうやら、澪ちゃんは音楽関連の企業に就職したいらしい。
けれど、持ち前の人見知りから、どうも上手くいかない感じだとか。

「それでにたにた笑ってたの」

「にこにこ、です。社交スマイルの練習ですよ」

「でも、ねえ、私は去年、あなたに」

「ええ、覚えてますよ。バンドは続けられないから、せめて音楽関連の職に就きたいって言いましたね、先生に。」

「そう、そのときに、私はあなたに、大人になった、って言ったわよね」

口元だけ微笑んで、眉を下げて、澪ちゃんは言った。

「言いました、ね。でも、私はまた大人にならないといけないんじゃないか、って思うんです」

「大人になるって、どういうこと?」

「そりゃあ……諦める、ってことでしょうに」

しばらく、私も澪ちゃんも何も言わなかった。
澪ちゃんが、苦笑しながら重い口を開いた。

「とりあえずどこでもいいから中小企業に就職して、そこで恋愛結婚、なんてのが合理的ですよね」

「それは、そうだけど」

気がつけば、私は言っていた。

「それは合理的だけど、あまり素敵じゃないわよね」

澪ちゃんは、不服そうに口を尖らせた。
イライラしたように、指でとんとん、と机を叩いている。

「素敵、とかいう問題じゃないんですけどね。いつまでも実家にいるわけにもいかないでしょうし」

言いたいことはあった。
けれど、言えないと思った。案の定、言えなかった。

「……そうよね、ごめんなさい。頑張ってね」

澪ちゃんは、とても悲しそうに笑って、アールグレイを飲んだ。
味の濃い紅茶を飲み込んで、搾り出すように言った。

「ええ……先生、先生は……」

言葉を探して、澪ちゃんは宙を眺めたけれど、そこにあるのは、紅茶から立つ湯気だけだった。
澪ちゃんはしようがなく、湯気を透かして、私を見つめて笑った。

「さわ子先生は、素敵な先生だったんですね。今になって、ようやく分かりました」

私は何かを言おうと口を動かした。
けれど、打ち上げられた魚のように、無様に、開けたり閉めたりするだけだった。
ようやく喉から搾り出した言葉も、何の変哲もない、くだらない言葉だった。

「ありがとう」

「いいえ……」

私はその雰囲気に押しつぶされるのが嫌で、強引に話を変えようとした。
澪ちゃんも、それに文句は言わないだろうと思った。

「あなたたち、五人揃っては訪れてくれないのね、寂しいわ」

「はは、それはすみません……でも、今日みたいに、二人きりじゃないと話せないことってありますよ」

「それは、貴方達の仲でも話せないことなの?」

「私たちの仲だから話せないことで、先生にだから話せることです。
 そういうこともあるって、最近になってわかった気がします」

澪ちゃんは急に立ち上がった。
優しく笑って、私に言った。

「それじゃあ、私は帰りますね……さようなら、私より、素敵な大人のさわ子さん」

澪ちゃんは振り向かずに音楽室を出て行った。
ひとり残されて、私は呟いた。

「やな言い方」


次の日、唯ちゃんがやってきた。
もう、日が傾きかけていた頃に、だ。
長く伸びた前髪は目にかかっていて、すごく大人っぽかった。
私は、真っ先に灰皿を差し出した。

「あんたが去年煙草落としていくから、私が梓ちゃんに怒られたのよ」

「あー、そりゃあごめんねえ。上手く誤魔化してくれてさ、あのときは本当に感謝してるよ」

「全く……で、あなたはミルクティー?」

湯気じゃない煙が、音楽室をふわふわと漂っていた。
私は黙って窓を開けた。

「いやあ……ストレート。ニルギリのね、ストレートでも、飲んでみようかなって思う」

「……ま、理由はどうでもいいけどね」

湯気と煙が混ざった。
去年と違って、なんとなくいい匂いがしたから、私は唯ちゃんの方を見た。
長い煙管を口に加えて、唯ちゃんはぼうっと窓の外を見ていた。

「それ、キセルね」

「うん……あずにゃんがさ、紙タバコは臭くて嫌だっていうから」

「ふうん。煙管だと意外にいい匂いね」

「なんかね、紙の匂いがなくなるからだって。不思議だよねえ」

ニルギリの匂いが混ざる。
私は、薄赤色の紅茶をカップに注いで、唯ちゃんの前に出した。
唯ちゃんは、バッグからなにやらゴツゴツとした木製の箱のようなものを取り出した。

「それは?」

「煙管用の灰皿だよ。物々しいよね、これ」

随分と大きい。
茶器を圧倒するほどの存在感を持って、机の上に居座っている。
ふう、と煙を吐いて、灰皿に灰を落とす。

「からだに悪いわよ……去年も言ったかしらね」

「うん、去年も言われちゃったね。でもさ、うん、やめられないんだ」

煙管を一旦灰皿に置いて、唯ちゃんは紅茶を啜った。
煙管からは、まだ細い煙が立ち上っている。

「まあ、私が文句を言ってもどうにもならないんでしょうけど……そういえば、あなたは就職先どうするの?」

唯ちゃんは、意外そうにこちらを見た。

「え、ああ、就職ね……うん、どうしようかな……」

カップを置いて、また煙管を加える。
細い煙を吐いて、寂しそうに笑った。

「決めてないよ、まだよく分かんない」

「でもあなた、もう大学四年生でしょうに」

「そうだよ……そうだけど、さ」 

唯ちゃんは窓際まで歩いて行って、外に顔を出して煙を吐いた。
そして、私のほうを振り向いて、目を細めた。

「そんなつまんないこと、訊かないでよ……このごろは、皆そう」

思わず私は目を伏せた。
唯ちゃんの瞳は、高校生の頃から変わっていなかった。
それは、私が待ち望んでいたものなのに、少し怖くて、見ていられなかったのだ。

「そりゃあ、悪かったわね」

「うん……就職、か」

また、煙を吐く。
煙は夕日を浴びて、少し赤くなった。

「ぶどーかーん、とか言っていたのは、どうなっちゃったんだろうね。
 あの頃の根拠の無い自信は、どこから来てたんだろう」

「そんなの……そんなの、私には」

わからないわ、と言いかけて、口を閉じた。
唯ちゃんは、私がそうすることを知っていたように、優しく微笑んでいた。
だから、私は彼女をまっすぐに見つめて言った。

「私……と、あとは、あなたの周りの人達、でしょうね」

「うん、そうかもね。この学校、素敵だったんだな、って思うよ」

私は紅茶を啜った。
少し、味が濃すぎる気がした。

「何も諦めなくてさ、済んだんだよね、この学校にいた頃は。
 部活して、ギターして、それなりに勉強もして、それで……それで、あずにゃんと」

その先を、唯ちゃんは言わなかった。
ただ、黙って煙を吐いただけ。
私は煙管用灰皿と、ティーカップを持って窓際の唯ちゃんに近づいていった。

「ん、ありがと」

そう言って、唯ちゃんは灰を落として、刻みたばこを詰め替えた。
私は紅茶を飲んで、窓から夕陽を眺めた。
少しは様になっているかと思ったけれど、悔しいことに、隣で物憂げな表情で煙管を吸う唯ちゃんには、到底敵わなかった。

「紅茶、あなたの分冷めちゃうわよ」

「あ、そうだね」

へらっと笑ってそう言ったくせに、唯ちゃんは動かず、窓から上体を乗り出している。
仕方がないから、私は唯ちゃんのカップをテーブルから持ってきた。

「ほら、とっとと飲みなさい。せっかく私が入れてやったんだから」

「あはっ、そういうところ、好きだよ」

「やめてよ、梓ちゃんが妬いちゃうわよ?」

その名前を聞いて、唯ちゃんはまた、寂しそうに笑った。
煙管を置いて、紅茶を飲む。

「梓ちゃん、か……ねえ、のろけていいかな?」

「勝手にしなさいよ。内容によっては、終わった後にお代を請求するけどね」

「そっか、気を付けなきゃねえ」

唯ちゃんは紅茶を飲み終わった。
また、寂しくなった口に煙管を咥える。煙を吐く。

「随分と堂に入ったものね」

「どうも。あのねえ、私とあずにゃん付き合ってるんだあ」

しばらく、何も言わなかった。
というのも、今更言うこともないと思ったからだが、唯ちゃんは期待を込めて私を見つめていた。

「いや、そんな目で見られても。前から知ってたわよ」

ええっ、と唯ちゃんは驚いたような声を立てた。
そして、煙管から宙に漂う煙を、息を吹きかけてかき消した。

「それでかあ。一昨日さ、あずにゃんに怒られちゃったよ。
 同性愛は異常なんです、唯先輩も世間体を考えて振舞ってください、って」

「そりゃあ、また……」

「うん。なんていうか、悲しいよね」

しつこく立ち上る煙に指を絡ませて、唯ちゃんは寂しそうに続けた。

「普通にクリスマスにデートして、相手のためにお弁当作って、帰り際にそっとキスする。
 どっちかの家で互いに抱きしめて、喘いで果てて、一緒に眠りにつく、なあんて」

そこまで言って、唯ちゃんは無様に口を開けたり閉めたりした。
空中に答えがないことを知って、すう、と煙管を吸った。
煙を吐いて、へらっと笑う。

「そんなの、無理なんだ。だって、あずにゃんが……あずにゃんは」

顔は笑っているくせに、目は少し湿っていた。
夕陽が図々しくそこに入り込んで、真っ赤に光らせている。

「あずにゃんは、私のことだけを見てくれやしないんだね。
 そんなの、誰にだって出来ないんだよ。誰だって、視界の端に世間を見ちゃうんだって、最近気づいた」

私は何も言えない。言う資格はないと思った。

「そんでもって、気付きたくなかった。
 誰もそんなことには気付きたくないから、先生はそれを隠してたんだね」

唯ちゃんが私の頬を突付く。
唯ちゃんはまだ笑っていた。

「優しいんだから、先生。それに、みんなも……結局、私が最後に気づいて、一番傷つくんだね」

唯ちゃんが私を見つめている。
ゆっくりと口を動かした。

「なんか、言ってよ」

「言えるわけ無いじゃないの」

「それはさ、卑怯だよ。絶対に私は文句を言わないから、何か言って欲しいんだ」

「そうねえ、そうかもしれないわ」

しばらく迷って、私は言った。

「世間っていうのは、結局梓ちゃんのことかもしれないわ。恥ずかしいのを、誤魔化そうとしているだけかもしれない」

「それは、詭弁だね。それに、無責任だ」

「文句は言わないんじゃないの」

私が肩をすくめると、唯ちゃんは曖昧に笑った。

「感想だよ、ただの。ふふ、まあ、梓は高校生の頃から恥ずかしがりだったから」

また、唯ちゃんは灰皿に灰を落とす。
けれど、刻みたばこを詰め替えることはしなかった。

「唯ちゃん、呼び方」

「うん、梓。あずにゃん、なんて、もう卒業だね。煙草も止めにして、ミルクティーもやめる」

「私には、それを止める権利なんて無いわよね」

「うん、無いよ……だって、もしかしたら、梓が突然キスしてくるかもしれない。
 そのときに、ヤニ臭かったり、乳臭かったら嫌だもんね」

「してこないかもしれないわ」

「してこないなら、適当に就職して、梓とギターを弾いて暮らすんだ。
 それでいい、けど、それ以上は絶対に妥協しないよ。今決めたんだ」

唯ちゃんは私のほうを見ていない。
ただ、私は、教師として言えることを言おうと思う。

「今日で子供をやめるなら、最後くらい、世間体を気にしないことをしたらいいじゃないの」

「そうだね……それって、うん、素敵だと思うよ」

唯ちゃんは明るく笑って、帰り支度を始めた。
煙管と灰皿は、バッグに入れなかった。

「これ、あげる。話聞いてもらったお代」

「いらないけど、まあ、貰っておくわ。そうそう、前髪、切れば?」

「これ、一応セットしてたんだけどね……それに、髪を切るのにもウン千円かかるんだもん」

「それは……まあ、いいわ」

「ふふ、今度は紅茶にブランデー入れてよね?」

「来年ね」

唯ちゃんが机に置いた煙管に、刻みたばこを詰めてみる。
唯ちゃんが、ライターをこちらに投げて寄越した。
私にひらひらと手を振って、唯ちゃんはなにやら電話をかけている。

「あ、もしもし」

唯ちゃんが音楽室を出るときに、言った言葉が聞こえた。

「梓、愛してる」


ひとり残されて、私は煙管を吸った。
猛烈に気持ち悪くなって、私は酷く咳き込んだ。
窓に駆け寄って、冷たい空気を吸う。

「まずいじゃないの、これ」

そう言って外を見てみると、もうすっかり日は沈んで、月が出ていた。
みしり、と音楽室の悲鳴が聞こえた。

「大人に、なるのね」

ぽつりと、窓の外に言葉を吐いた。
煙管から出る煙が、ふわふわと空へ向かって漂っていた。


そろそろみんなは帰省を終えて戻ってしまう頃だろう。
そんなときに、和ちゃんがまた音楽室に遊びに来た。

「あなたも暇ね」

「先生こそ……それ、煙管ですか?」

「ええ……吸ってみる?」

煙草を詰めて、和ちゃんに煙管を渡した。
和ちゃんは煙管を吸って、こん、と咳をした。

「うえ……全然美味しくないですね、煙草って」

涙ぐんだ目で言う和ちゃんが可笑しくて、私は笑った。
食器棚からブランデーを出す。

「そういえば、唯ちゃんにブランデーのこと言ったでしょ?」

「ええ、っていうか、みんな知ってますよ」

「もう、あんまり言いふらさないでよね。校長に怒られちゃうわ」

和ちゃんはくつくつと喉を鳴らした。猫みたいだ。

「すみません。あ、なに勝手に入れようとしてるんですか」

「まあまあ、一回くらい飲んでみてよ」

和ちゃんは眉をひそめて、文句を言いながら、ブランデーの入った紅茶を飲んだ。
うえ、と舌を出す。

「変な味がしますね」

「まあねえ。私は好きなんだけど、嫌いかしら?」

和ちゃんはしばらく黙って、微笑んだ。

「嫌な言い方。それじゃあ、好きになろうと思っちゃうじゃないですか」

こんな言葉を、もう何度も聞いた気がする。
正確な数はわからないけれど、きっと、何度でも言いたくなるのだろう。

「ねえ、和ちゃん、私そろそろ結構な歳になっちゃうけど」

「三十路ですね」

「いや……うん、まあ……それでもさ、こうしてお茶してくれるかしら」

和ちゃんは少し残念そうな顔をして、ふっ、と息を漏らした。

「何いってんですか、歳は関係ないでしょうに」

私は愛しくて、和ちゃんの髪を撫でた。
さらっとして、冷たい。

「変わらないわね、あなたも私も」

和ちゃんは顔を赤くして俯いて、煙管を机においた。

「変われないんですよ、先生も私も」

煙が立ち上って、湯気と混ざり、窓の外へ流れていく。
誰かが見ても、それが煙なのか、湯気なのかは分からないから、平気だろうと思った。



おしまい