建物だって歳は取る。
この音楽室も、最近は、夜になるとかなり大きく軋む音を立てる。
壁にはいくつか穴も開いているし、窓ガラスも立て付けが悪くてなかなか開かなくなった。
だから、私が少し年をとったくらいの事は、許して欲しい。
それに、今はお昼、年始で人もいないから、部屋だって軋まない。

「それじゃあ、紅茶でも淹れましょうか」

「では、遠慮せずにいただきます」

にこにこと笑って、和ちゃんは言った。
少し伸びた髪を、鬱陶しそうに指で摘む。

「髪を切るのにも二、三千円かかりますからね。馬鹿馬鹿しくって」

「年頃の女の子がそんなこと言っちゃ駄目よ。世間の目も考えなさいな」

「世間っていうのは、結局あなたですよ。それに」

和ちゃんは喉をくつくつと鳴らした。

「昼間っから毎日紅茶を飲んでいるのはいいんですか。先生、言っちゃあ悪いですけど、カフェイン中毒じゃあ?」

「あら、そんなに毎日飲んでるわけじゃあ無いわよ」

「嘘ばっかり。校長先生、言ってましたよ、山中先生は四年間感傷に浸り続けてる、って」

無邪気に和ちゃんは笑った。
それを見て、私は息を吐いて笑う。

「やな言い方」

お湯が沸いた。
一度ポットにお湯を入れて、ポットを温める。
また湯沸かし器に水を移し変えて、ポットに茶葉を入れ、しばらく茶葉を蒸す。

「随分と」

和ちゃんが感心したような声を上げた。

「堂に入ったもので。最初の頃はもっとグダグダだったのに」

「そりゃあ、四年間淹れ続けてりゃあ、ね」

「先生、語るに落ちてますよ」

沸騰した熱湯をポットに淹れる。
茶葉がポットを舞った。

「してやられたわね」

「先生が勝手に喋っただけですよ」

和ちゃんがくすくすと笑う。
ポットからいい香りがする。
私はポットの中の茶を、茶越しを通して他のポットに移し変えた。
食器棚から瓶を取り出して、和ちゃんに見せた。

「ブランデー、入れる?」

「遠慮しときます。ニルギリはストレートで、というか、お酒嫌いなので」

「ありゃりゃ、今年も断られちゃったか」

結局、私は自分の分にだけブランデーを数滴入れた。
別に大して味が変わるわけでもないし、酔うこともないのに、和ちゃんはブランデーを入れるのを嫌う。

「なんていうか」

私は和ちゃんに紅茶をさし出して、席に座った。

「変わらないわねえ、あなたは」

「なんです、失礼な……そういえば、他の皆も帰ってくるそうで。やっぱり、年始って楽しいですね」

そう言って、和ちゃんは紅茶をすすり、笑った。


次の日にやってきたのは、ムギちゃんだった。
髪は少し短くなって、笑顔は少し引き締まっていた。

「音楽室、変わりありませんね、今年も」

「そうかしら。ほら、あのファイヤーバード、今年の二年生のよ。渋いわよね」

「物は変わりましたけど、部屋は変わってませんよ」

そうかもね、と相槌を打って、私はムギちゃんを座らせた。
椅子が少し小さいように見える。

「ムギちゃんは、ミルクティー?」

「ええ、今年も」

「はいはい……じゃあ、今年も私がミルクを入れるわよ?」

「それが楽しみなんですから」

ムギちゃんは首を少し傾けて、頬杖を付いた。
私が紅茶を出すと、ふう、と息を吹きかけて冷ましてから、くい、と顎を上げて飲んだ。

「去年と同じシロニバリ。一昨年も、三年前も、先生が淹れてくれるのはいつもこれですね」

「あら、気に入らない?」

「いいえ、大好きです。それに、いつもミルクの量が丁度いいのも評価するべきでしょうね」

もう一度、くいと顎を上げる。
音も立てずに、紅茶はムギちゃんの小さい口の中へ流れていった。

「そりゃあ、どうも。あなた、大人ねえ」

「それ、もう四年くらい前から聞いてますよ。高校三年生の頃から、です」

「あら、失礼。でも、何度も言いたくなるのよ」

頬杖を付いたまま、ムギちゃんは小さく笑った。
声に出したかのように、はっきり、ふふ、と聞こえた。

「そうですか。じゃあ、何度でも聞いておきましょうか」

「いやよ、恥ずかしいじゃないの」

「あらあら、まあまあ」

最後の言葉にだけ、高校時代のムギちゃんの口調が戻ってきて、私は嬉しかった。
けれど、ムギちゃんは直ぐに口を押さえて、恥ずかしそうにいった。

「すみません」

「別に」

そこで言葉を区切って、私は自分で淹れたミルクティーを飲んでみた。
少し、甘さが足りないような気がした。

「別に、良いじゃないの」

「そうですか?」

「ええ……別に、私の前でそこまで気張る必要もないでしょうに」

「じゃあ……お言葉に甘えようかしら?」

ムギちゃんははにかんだ。
幾分か、口調は柔らかくなっていた。

「ふふ、先生は結婚のお相手は見つかりました?」

「……いやな質問ね」

「あら。和ちゃんなんてどうですか?」

ムギちゃんはにこにこと笑っている。
今度は私が頬杖を突いた。

「何言ってんのよ」

「冗談ですよ」

「でしょうね」

そのあともムギちゃんと色々なことを話した。
ブランデーは、食器棚から出さなかった。


次の日にやってきたのは、りっちゃんだった。
ジーンズに首もとの緩いTシャツを着て、帽子をかぶっている。
私に促されると、嬉しそうに席に着いた。

「なあ、さわちゃん、私」

「わかってるわよ。ほら、ダージリンと、板チョコ」

「お、やった。板チョコ食った後に紅茶飲むと良いんだよな……うん、美味いよ」

私の淹れた紅茶を飲んで、りっちゃんは笑いながら言った。

「さわちゃんはさ、ティーパックは使わないな。なんで?」

「紅茶でしか歓迎できないもの」

「ふうん……いいよな、そういうとこ。さわちゃんの良さが分からない男は見る目が無いよ」

私は喉でくぐもった笑い声を立てた。

「お上手。じゃあ、ほら、ブランデー入れてあげるわ」

「ラッキー。瓶ごとくれてもいいのに」

「それは駄目よ。あくまで紅茶に淹れるためにあるのよ、そうじゃないと校長に怒られるから」

「屁理屈だなあ」

りっちゃんは頬を膨らませた。
なんだか、ハムスターみたいだった。

「良いじゃないの。それより、バンドは中々上手く行ってるみたいね」

「お、そうなんだよ。ま、武道館は無理でもさ、細々と音楽で暮らしていけたらな、ってさ」

りっちゃんは頭の後ろで腕を組んで、天井を眺めた。
ぽつり、と独り言のように呟いた。

「なんかさ、低いな、天井」

「身長は大して変わってないじゃないの」

「言ってくれるじゃんか……そういう意味じゃあ、ないよ」

ぱき、と音を立てて、りっちゃんは板チョコを割った。
それを頬張って、噛んでから、紅茶を口に流し込む。
私もそれを真似してみた。
口の中に残るチョコレートの甘さが、紅茶で流し落とされて、ほんの一瞬だけ、後を引かない甘さを楽しめた。

「うまいだろ?」

「ええ、本当に……これ、去年も聞いたわね」

「いいじゃんか、美味しいんだから。何度でも言いたくなるんだよ」

りっちゃんはそう言って声を上げて笑った。
彼女を眺めていると、私はつい、息を吐き出して笑ってしまった。

「大人になったわねえ、あなたも……これも、何度でも言いたくなるんだから、文句は言わないでね?」

「はいはい、もう三度目だな。毎年、言われてる……どこでそう思うのさ?」

りっちゃんの質問も、もう三度目だ。
三度目の正直というから、答えなければと思う。

「板チョコを食べた後に、紅茶を飲むのはどうして?」

「そりゃあ……いつまでも甘いだけなんてさ、嫌だろ」

「だからよ」

私がくすくすと笑うと、りっちゃんは頬杖をついて、眉をひそめた。

「わけわかんないな。どういう意味?」

「再来年教えてあげるわ」

「ああ、はいはい、三度目の云々、ってやつね」

ため息をついて、りっちゃんはまた天井を見上げた。
あ、と大きな声を上げる。

「なあ、さわちゃん、天井に穴空いてるよ。ほら、あの小さいの」

「ああ……あれ、確かスーパーボールで遊んでたら空いちゃったらしいわ」

「なにやってんだよ」

呆れたように笑いながら、りっちゃんは何となく安心したようだった。
なあ、と誰に言うでもなく言った。

「大丈夫だよな……武道館は無理でも、バンドで食っていくくらい、きっと……」

私は答えられなかった。
けれど、りっちゃんはすっきりした顔で帰っていったから、多分それでよかったんだろう。
帰って行く時に、ようやく、りっちゃんが前髪を下ろしていることに気がついた。


次の日にやってきたのは、梓ちゃんだった。
ツインテールを長いポニーテールにして、白基調の落ち着いた服を着ていた。
その背には高校生の頃から使っているギターがあった。

「煙草、吸ってないでしょうね」

音楽室に入るなり、梓ちゃんは私に言った。
腰に手を当てて、子どもを叱るように言った。

「吸ってないわよ……あの一本だけよ」

「じゃあ、いいです……あ、ブランデーは入れないでくださいよ、酒も嫌いです」

「面倒くさい子ねえ」

ぶつぶつ言いながら、私は紅茶に切ったレモンを浮かべて、しばらくして取り除いた。
紅茶の湯気に、柑橘系の香りが溶け込んだ。

「レモンティー……相変わらず全部自分で淹れるんですね」

「だから」

「ええ、理由は知ってますよ……素敵だけど、あまり合理的じゃありませんよね」

私は思わずため息を付いた。

「ええ、ええ、そりゃあ悪うございましたね」

「別に悪くありませんよ、素敵ですってば」

梓ちゃんは喉を鳴らして笑って、ギターを床に寝かせてから、席に着いた。
長い髪を指で弄りながら、紅茶を飲んで言った。

「ん、美味しいです……ふふ、もしかしたら、喫茶店を開きたいと思ってる男性と結婚できるかもしれませんね」

「ピンポイント過ぎるわよ」

「そうですねえ……でも、先生は結婚できるんですから、した方がいいですよ……私は、できませんから」

立ち上る湯気を、ふっと吹いて、かき消した。
じっと猫のような目で私を見つめてくる。

「私だって」

搾り出すように、私は言った。
それが本当かどうかは抜きにして、とにかく言った。

「私だって、結婚出来ないかもしれないわ」

梓ちゃんは、また私をじっと見つめて、困ったように笑った。
レモンのいい香りがする。

「どういう意味で私が言ったか、お分かりで?」

「……そのまんまの意味でしょうに」

「まったく……」

梓ちゃんは溜息をついて、手を広げた。

「先生は相変わらず、わからない人ですね……結婚なんて、引く手あまたでしょうに」

「引く手あまたって、何か怖い言葉よね。こう、地獄に引きずり込まれるみたいな」

「なあに、くだらないこと言ってんです」

梓ちゃんはぐいっと一気に紅茶を飲んで、肩にかかった髪を払った。
口元には、曖昧な微笑が浮かんでいた。

「あれですか、結婚は人生の墓場、とか言う」

「ああ、なんかそんなこと言うわね。じゃあ、結婚しなければ人生はいつまでも活き活きと、ってことね」

「活き活きと」

梓ちゃんはその言葉を繰り返した。

「いきいきと、って、どういうことでしょうね」

「……さあ、ね」

そういうと、梓ちゃんはいたずらっぽく笑って、私を人差し指で指した。

「去年は、私みたいなことよ、って言ってたくせに……三十路って怖いんですね」

「あんた、ぶち殺すわよ?」

「ふふ、すみません……でも、ねえ、先生」

梓ちゃんは言葉をさがすように天井を見た。
そして、納得したように頷いた。

「うん、先生は去年と変わりませんよ。相変わらず、活き活きしています」

「あら、ありがとう」

梓ちゃんは床のギターケースからムスタングを取り出して言った。

「どういたしまして……さて、それじゃあ、今年は何を弾きましょう?」

「なんでも……あ、三味線の小唄は?」

「無茶ばっかり……じゃあ、今年は無しですね」

「あら、残念……ねえ、あなた、バンドはこれからどうするの?」

「どうって……」

梓ちゃんはぼうっと天井を見上げた。
スーパーボール大の穴を、目を細めて見つめている。

「どう……無理、ありますもんね、バンドで食っていくのは。
 大学でたら、音響機器関係の仕事について、ちょっとだけ音楽と関わって生きていきますよ」

「ふうん」

自分で聞いておいて、何の感想も言えなかった。
だって、そんなの……なんて、つまらないんだ。

「大人になったのね、あなたも」

「それ、二年前に言われましたよ。大学に入って、初めて迎えた正月に」

「あら、そうだったわね……うん、そうだった」

そのあとも、あのバンドが活動を再開するらしいとか、
最近はテクノにハマっているだとか、音楽関係の話をして、日も暮れてきた頃に立ち上がった。

「それじゃあ、そろそろ帰りますね」

「ええ……ねえ、梓ちゃん?」

訝しげに梓ちゃんは私を見つめる。
少し、恥ずかしがってくれればいいなと思って、私は言った。

「唯ちゃんと、お幸せにね」

梓ちゃんは、うれしさ半分、怒り半分と言った表情で、額に手を当てた。
大きなため息を吐いたけれど、その顔は真っ赤だ。

「……バレてましたか……不味いですね」

私がなにか言う前に、梓ちゃんは音楽室を出て行った。
扉のところで振り向いて、眉を下げて笑う。

「天井の穴、塞いでおいたほうがいいですよ……不快です」

私は、肩をすくめるしか無かった。


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