もっともです。
私も澪ちゃんも、肩をすくめてうなだれるしかありませんでした。
彼女は必死でなだめすかそうとしています。

「い、いや、ほらね、梓ちゃんの歓迎のつもりであってこれは何の他意もないわけだからして……」

「歓迎ってなんですか!お茶なんか、軽音楽部の歓迎にはなるわけないでしょうが!」

ぱん。乾いた音が響きます。
もう冬も過ぎて、空気も湿ってきたというのに、乾いた音が。
続いて、あちゃー、と言うさわちゃんの声。

「……お茶なんか、って、なにさ」

至極無表情に、彼女は言いました。
りっちゃんが慌てて彼女と梓ちゃんの間に割って入ります。

「まあまあ、ほら、落ち着け、な。それで、唯も謝ろう、手を上げちゃいかんよ。それは賛成するだろ?」

「そう、ですよ……なんなんですか、いきなり」

搾り出すように言う梓ちゃんに、彼女は頭を下げました。
梓ちゃんは水を得た魚のように勢いづきました。

「そうですよ、私間違ったこと言ってないもん。正論言われて手を出すなんて、小学生なんですか、あなたは?」

多分、りっちゃんが味方についたと思ったのでしょうけれど、それだけに、すぐに梓ちゃんの表情は曇りました。

「梓も謝れ。正論だったけど、暴論だし、一番言っちゃいけない類のことだ」

「あ、な……」

打ち上げられた魚のように、目を見開いて、ぱくぱくと口を動かす梓ちゃん。
一瞬後には、眉を下げて笑っていました。

「なんなんですか、私が悪いんですか……ふざけてんですか?」

「ふざけてんのは、お前だろうが」

眉をひそめるりっちゃん。
続いて、澪ちゃんが二人の間に割って入ります。

「二人とも熱くなりすぎだ。はい、おしまい。梓は……そうだな、一旦帰れ。
 それでもって、明日ゆっくり話しあおうな。ウチはディベート部じゃないんだから、いますぐ話しあうこともないだろ?」

梓ちゃんは終始俯いていました。
私は、張り付いたように冷たい椅子に座ったまま。

「……ええ、そうさせてもらいますよ……ッチ」

舌打ちをしたように聞こえました。
皆顔をしかめたけれど、梓ちゃんが出ていった後、さわちゃんだけが、大声で笑いました。

「サノバビッチ、って……私たちみんな女よ」

けらけらと笑うさわちゃんを、りっちゃんが睨みつけます。

「半分くらいさわちゃんが悪いんだからさ、そりゃないだろ……
 まあ、いいや。第一回野良猫をなだめすかした飼い猫にしましょう会議を始めます」

りっちゃんの号令で、私たちは席に着きました。
が、さわちゃんは席を離れて、音楽室の扉を開けました。

「嫌味っぽいわね、あなたたち。私でもあなたたちでもどうにもならないわよ。
 ……そうねえ、ムギちゃんと……あと一人くらいかな、私が知ってる中で、解決に役立ってくれそうなのは」

あっけに取られて見つめる私たちを置いて、さわちゃんはゆうゆうと音楽室を出ていきました。
あとには、ぽつん、と私たち四人が残されました。

「帰る、か」

誰かが、これまたぽつんと言って、みんなぞろぞろと、何も言わずに帰って行きました。


夕方は、ちょっと暖かくなります。
なんせ、春ですから。

「……あのさあ、私は澪ともうちょっと話しとくけど、どうする?」

「あー……私は帰るよ。一人でじっくりことこと、考えを深めようかなあ」

相変わらずのぽわぽわとした口調で、彼女が言うものだから、私たちは皆くすりと笑いました。
なんとかなるよね、そう思えたのです。
そう思って、皆と別れたのです。

ぴっ。
改札機の電子音で台無しになるような一日じゃあ無かったと思うのですが、なんとなく、憂鬱になりました。


電車、楽しくないどころか、少し不快でした。
だだっ広い敷地。ガラス張りのガーデンの中に、斉藤がいるのが見えました。
引き寄せられるようにそこへ向かっていくと、斉藤が私を見て、言いました。

「おお、お帰りなさいませ、お嬢様」

スーツ姿に如雨露は、なんだか似合いません。

「なにをしているの?」

「ああ、私はガーデニングの知識はございませんので、せめて水をやるだけでも、と思いまして。
 お嬢様は、真っ赤なバラがお好きでしょう?」

ふうん。気のない返事をしながらも、嬉しかったのだから、私はありがとう、と一言言うべきだったのです。
それなのに、何故だか、出てきたのは汚い言葉。

「斉藤って、お給金はどれくらいもらっているの?」

「は?……まあ、一般家庭よりはそれなりに多くもらっておりますな。それがいかがなさいましたか?」

ありがとう、と一言お礼を言うべきだったのに、私は下らないことを言って、部屋に戻ってしまったのです。

「ふうん、そうなの。随分と高給取りなのね」

斉藤は表情を変えませんでした。それが悔しくて、私は走るように部屋に戻りました。
部屋のベッドは、相変わらず柔らかくて、まだ冷たかったのです。
ですから、つい、思ってしまったのです。

多分、明日は梓ちゃんは音楽室に来ないだろう。
だって、私が梓ちゃんなら、できれば訪れたくないもの。


朝です。
こんこん、と死んだ木が叩かれる音がしました。
扉を開けたのは斉藤で、相変わらず、ミルクが多すぎるように見える紅茶を持っていました。

「お嬢様、朝でございます……こちら、寝覚めの紅茶を。オレンジをいれてみたのですが……」

「いらないわ」

凄くいい香りがしたけれど、私は断ったのです。

「なんと……いえ、失礼いたしました」

深々と頭を下げる斉藤の隣を、ため息をつきながら通り過ぎたのです。

「大変ね、あなたも」

精進せねばなりませんな。
斉藤がそう呟くのが、聞こえました。
言葉は一生懸命私の耳を目指していたけれど、私はそれを払いのけました。

広い屋敷を出て、駅へ向かいます。
相変わらずの人ごみ、繰り返される電子音に、吐き気すら催します。
人ごみが避けている場所があったので、そこを見てみると、太り気味のおばさんが、地面に散らばった小銭を拾っていました。

そういえば、私は昨日は何もできなかったのでした。
梓ちゃんが怒って出て行った時、私はただ座っていたのでした。

もしかしたら、踏みとどまることが出来るのかもしれません。

そう思って、おばさんに近寄りました。

「ちょっと、ネコババするつもりなの!?近寄るんじゃないわよ!」

駄目、だったみたいです。
私は肩をすくめて、眉を下げて笑うしかありませんでした。

ぴっ、と無機質な電子音が、いつまでも耳に残りました。

電車に乗れば、誰かしらと肩がぶつかります。
謝らない人もいっぱいいるんだと、今になって気づきました。

「――お次は――」

はふがはほかん。
その声に、聞き取りにくいんだよ、と小声で文句をいう人がいることに、今になって気づきました。

もう一度電子音を聞いて改札を出ました。
見上げた空は、思ったより汚くて、私には苦笑いすることしか出来ませんでした。

とぼとぼと、通学路を歩くことしか出来ませんでした。


今日も小柄なあの娘の背中を見つけました。
気まずくなって、目を逸らすと、全力で駆けていく影が見えました。

「梓ちゃんっ!」

大きな声でそう言って、その影は、彼女は梓ちゃんに抱きつきました。
梓ちゃんは驚いたような顔をして、眉をひそめました。

「なんですか」

「あのね、紅茶、ちょっと甘さ抑えてみたら良い感じだったよ!今日、飲みに来てね?」

明るく尋ねる彼女を見て、梓ちゃんは溜息をつきました。

「はいはい、紅茶じゃなくて、練習しに、ですけどね」

長いツインテールが揺れます。
あんまりきつく縛っているものだから、頭皮を痛めやしないか、そんなことばかりが気にかかりました。
そのまま一人で歩いて、教室へ着いて、いつも通り、授業を受けました。

なによりも、悲しかったのは、授業が楽しく思えてしまったこと、でした。
いえ、楽しいというほどでもありませんが、少なくとも、批判の言葉を抑えるくらいには、合理的に思えました。
インスタントティーを黙って飲む自分を想像して、少し苦笑いをしました。

「ムギちゃん」

放課後、ぎゅっと私の手を握って、彼女が、私の顔を見つめて言いました。
なによりも辛いのは、彼女が何を考えているか分からないのです。
電車の中の、疲れた人たちの考えはなんとなく分かったのに、彼女の考えはわからないのです。


「音楽室、行こっか」

彼女はそう言って微笑みました。
そうだね、と私は目を伏せて返しました。
目を開けたときには、彼女は私に背中を見せていました。


音楽室に、梓ちゃんは来ませんでした。
りっちゃんが天井を眺めて、呟きました。

「来ねえなあ……澪なら、多分来るんだろうな」

「そうかな、がくがく震えて家に帰っちゃうんじゃないか……自分で言うのもなんだけど」

「いや、来るよ、お前は来る……がくがく震えて、鼻水ズビズビにしたって来るさ」

澪ちゃんはりっちゃんを見て、ちいさく息を漏らしました。

「ふふ、そりゃあ、どうも」

彼女は難しい顔をして、牛乳を飲んだり、みかんを囓ったりしています。
思い出したように、言いました。

「あ、そうだ。梓ちゃん、音楽室に来るって言ってたよ。朝、話した」

「そっかあ」

りっちゃんが顔を下げて、澪ちゃんを見ました。小さく、笑います。

「でも、来ないだろうなあ。さわちゃんの言ったこと、なんとなく分かったよ」

そのあと、肝心の梓ちゃんは来ないのに、気味が悪いほど明るい空気で、部活は終わりました。
談笑して、分かれる間際に、彼女が、私の耳元に口を寄せて言いました。

「笑ってたほうが、良いと思うけど」

私が言葉を返す前に、彼女は駆けて帰ってしまいました。
自分の口を指でなぞると、三日月型に曲がっていました。笑っていた、はずなのに。

とにかく、彼女の言葉を不思議に思いながらも、駅へ向かいました。
電子音がずっと鳴り響いています。
改札機、あれを越したら……私の定期券で音を鳴らしてしまったら、もう戻れない気がするのです。

しばらくじっと突っ立っていると、肩をポンと叩かれました。
振り向いた頬に、長い、綺麗な人差し指が刺さります。

「やっほ。あなたの恋人の幼馴染は、あなたの幼馴染も同然よね?」

学校では見せない陽気な笑顔で笑って、赤いアンダーリムの眼鏡をかけた生徒会長がいました。
短い髪が、冷たい風に揺れています。

「幼馴染のお誘い、断らないわよね?」

じゃあ、公園に行きましょう。
私は何も言わずに、和ちゃんについていきました。

日が傾きかけた公園には、子供はまばらにしかいませんでした。
ぎい、ぎい、と悲鳴をあげる古びたブランコの周りに、数人の子どもが集まっていました。
和ちゃんはスタスタとそこへ近づいていって、明るく言います。

「やあ、みんな。ちょっとお姉さんにもブランコ使わせてくれないかしら」

子供たちは少し不満げな声を上げました。

「あんだよ、高校生のくせにブランコなんて乗るのかよ。順番守れよな」

「はいはい。ほら、ムギ、一緒に待ちましょう」

あまり乗りたくありません。恥ずかしいです。
けれど和ちゃんがあまりに楽しそうだったから、ため息をついて、私は彼女にあわせました。

「よっしゃ行くぜ、一、二、三!」

掛け声を上げて、男の子がブランコから跳ぼう、としたのだけれど、何もせず、そのままブランコを降りました。
友達のところまで行って、悔しそうに笑って言います。

「無理だなあ、やっぱ怖いよ」

それを見て、和ちゃんは私の肩を掴んで、まるで十年来の相棒に言うように言いました。

「準備はいい?」

並んだブランコの片方に私、片方には和ちゃんが乗って、ブランコを漕いでいます。
子供の頃に、一度ブランコに乗ったことがあります。
あの時は、上手く漕げなくて、斉藤に背中を押してもらったのでした。

今、ブランコはぐんぐんとスピードを増して行きます。
空、地面、空……私の視界は色んなもので満たされていきます。
成長したら、こんな風に見えるんだと、なんとなく感心しました。

「すげー!姉ちゃんたちカッケー!」

子供たちが歓声を上げます。
それに負けない大きな声で、和ちゃんは言いました。

「このぐらいで何言ってんのよ、サノバビッチ!見ときなさいよ……」

前に行ったときに、一。
後ろに戻って、二。
そしてまた前に行ったとき、和ちゃんは叫びました。

「三!」

放物線を描いて、和ちゃんの体は宙を駆けました。
ずだっ、と大きな音。
勢いを抑えきれずに、和ちゃんは数歩走りました。
振り向いて、ブイサイン。

「ほら、どんなもんよ!ムギも跳びなさい!」

子供たちの期待の目が、こちらへ向けられます。
移り変わっていく映像の中に、和ちゃんと子供たちの笑顔が加わります。

「で、でも……私怖いわ!」

情けない声を上げた私に、和ちゃんは怒鳴りました。

「甘えなさい、大馬鹿ちん!受け止めてあげるから、頼りなさいよ!」

子供たちも、歓声を上げます。

「カッケー!眼鏡の姉ちゃんカッケー!」

続いて、跳べ、のコール。
とーべ、とーべ、とーべ……
催眠術に描けられたように、私は跳んだのです。

ふわりと、地球が私を手放します。
視界が空でいっぱいになって、そして、長い髪が宙になびきます。

綺麗だと、彼女が言った髪が、次は上へなびいて、体に衝撃が。
私は和ちゃんに受け止められたのです。
和ちゃんが低いくぐもった声を出します。
続いて、拳を天にあげて、一言。

「私は……私たちは勝ったわ!」

子どもたちの、溢れるような声が続きました。
その声は私にも向けられていて、それで、和ちゃんが全力でwe will rock youを熱唱するから、つい、私は笑ってしまいました。

「あら、ほら、ムギも足踏みしなさいよ」

シンギン!と、子供たちの声が混ざります。
私たちの声は、誰に届いたわけでもないけれど、この汚らしい赤色の空には、きっと届いたでしょう。


数分後、日もすっかり傾いて、子供たちは親に手を引かれて、家へ帰っていきます。

「やだよ、あの姉ちゃんたちまだ帰ってないじゃんかよ!」

親はきっ、と私たちを睨んで、言います。

「あのお姉ちゃんたちは大人だからいいの」

「嘘つけよ!大人がブランコなんてするわけないじゃんか……あああ」

ほっぺたをつねられて、生意気な男の子は悲鳴を上げました。近くの女の子が、まあまあ、となだめすかします。

「明日も遊べるじゃない」

やけに大人びた一言で、けれどその娘も、明らかに帰るのを渋っていました。
隣を見ると、きーこ、きーこと、ゆっくりブランコをこぎながら、和ちゃんが微笑んでいました。

「あれ、私たち」

和ちゃんが指さした先には、大人びた、落ち着いた子がいました。

「で、あっちは唯達」

次に指さしたのは、ぎゃーぎゃーと文句を云っている、生意気な子が。

「分かったかしら?」

「うん、分かった」

首をかしげた彼女に、私は答えました。

きい、きい……
だんだん、ブランコの音は小さくなっていき、やがて止まりました。
膝に肘をついて、頬杖を突いて、和ちゃんが、唄うような調子で言いました。

「素敵な大人になりましょうね。そりゃあ、嫌なこともあるけれど、全部飲み込んで、笑えるようになりましょう。
 それで、子供たちだけは、ずっと笑わせていましょう。運良く、私たちは大人と子供の中間にいるんだから」

なんとなく先生の顔が頭に浮かんで、私は微笑みました。

「それ、先生が言ってたんでしょ?」

「ばれたか」

小さく舌を出して、和ちゃんはいたずらっぽく笑いました。

「素敵なひとよ、さわ子さん……私も、ああいう人になりたい」

「ふうん……」

さわ子さん、ね。
けれど、そんな無粋なことは言わないでおきましょう。
和ちゃんは立ち上がって大きく背伸びをしました。

「よし、帰りましょう」

和ちゃんは、もしかして先生に私と話すように言われたんだろうか。
けれど、そんなことはどうでもいいのです。ただ、私は言うべきことを言うのです。

「うん……和ちゃん、ありがとう」


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